■ 【横丁茶話】              西村 徹

「証言記録 兵士たちの戦争」から

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  「証言記録 兵士たちの戦争」というシリーズの一つで、ニューギニア戦線の
惨状を語る番組を見た。そのなかで一部隊がそっくり消えるという椿事が伝えら
れていた。竹永正治中佐率いる部隊は120人中80人が餓死もしくは病死した。部
隊がそっくり消えたというのは残る40人のことである。部隊長の指揮によって40
人が全員投降したのだ。
  部隊長が中佐であればすくなくとも大隊であろう。大隊であれば編成時の兵員
総数は1000名を超える。120人に激減した時点で、それまでの戦闘の激しさとそ
の後の惨憺たる状況が想像できる。完全に戦闘能力を失っていたはずである。軍
事用語上兵員の損失30パーセントを超える場合を「全滅」という。状況はもはや
「全滅」の範疇を超えていた。消滅にひとしい。この際、投降以外に選択肢はあ
りえない。指揮官として軍事上まったく理にかない、人道上まったく適切な処置
であった。

 「戦陣訓」が猛威を振るっていた時代、日本人の絶対多数が洗脳されて「死し
て虜囚の辱めを受けず」という倒錯を信じて疑わなかった時代に、危機にあって
己を失わなかった的確な判断は、いかに勇気を要するものであったか想像に余り
ある。まかりまちがえば常軌を逸したな部下によって射殺されないとも限らな
かったであろう。日本浪漫派の作家・蓮田善明中尉によって歩兵第123連隊長が
射殺されたという実例がある。
 
  困難な状況のなかでの40名の人命を救った竹永正治中佐の判断は戦史のなかで
特筆さるべき英断であり賞勲に値する壮挙といえる。惜しむらくはその決断がさ
らに早ければさらによかったであろうというのみ。

 私がよく散歩する浜寺公園の南端にロシア兵俘虜収容所の跡地があり、「ロシ
ア兵の霊を鎮める碑」が建っている。小泉純一郎日本国総理大臣とV.V.プーチ
ン・ロシア連邦大統領の署名が刻まれている。そしてプーチンは「ロシアの勇猛
果敢なる子が永遠に人々の記憶に残らんことを!」と書いている。日本軍に投降
して俘虜となったロシア軍兵士をロシア連邦の大統領が「勇猛果敢」と称えてい
るのだ。

 竹永中佐もまたあらためて日本国の総理大臣から日本の「勇猛果敢なる子」と
称えられてしかるべきものである。少なくとも現在の日本人の日本国憲法下の正
常な価値観にしたがえばそうならざるをえない。今日なら東電福島原発の吉田昌
郎所長が本社命令に逆らって海水を注入し続けた英雄的行為に並ぶであろう。と
ころが、この竹永正治中佐の英断に対して、第18軍司令部参謀・堀井正夫という
人物が、なんと、この番組に出演して竹永中佐を批判している。「情に負けたの
であろう。まさか自分の命が惜しかったのではあるまい。部下を死なせるに忍び
なかったのであろうが、軍人としては大義に生きなきゃいかん」と言う。

 「大義に生きる」とは平たく言えば玉砕するということであろう。玉砕は特攻
とはちがう。まだしも特攻ならば敵に損傷を与える可能性はありうる。しかし玉
砕はまったくむなしい。言葉としては美しいが軍事的にまったく意味をなさな
い。これほどの愚挙はない。つまるところ犬死である。

 竹永部隊も投降しなければ敵に何らの打撃をも与えることなく玉砕していたで
あろう。進んで敵を利することになるだけのことである。投降すれば敵に捕虜収
容の負荷を課すことができ、それだけ敵戦力を削ぐことができる。情に負けるど
ころか、玉砕という空疎な美意識つまり情に負けることなく適正な判断に基づい
ての処置であったといえる。

 フィリピンで日本軍が総崩れになる直前、参謀たちが続々軍用機で帰国したと
聞く。水木しげるも『総員玉砕せよ! 聖ジョージ岬・哀歌』のあとがきで「参
謀はテキトウな時に上手に逃げます」と記している。堀井参謀もそのようにして
生還したのかどうかは棚に上げるとして、いまどきになってもまだテレビ画面に
顔を曝して、こんな理路はなはだ錯乱したことを口走るからには本人は自分が生
還したことの背景は意識にも上らないまま本気で言っているのであろう。今なお
確信犯的にこのような妄論を本気で信じているのであろう。いい気なものである。

 NHKの連続テレビ小説「カーネーション」60回(12月10日放送)で主人公・小
原糸子の夫・勝は出征して不在である。そこに国防婦人会のボスたちがやってき
て勝の使っていたミシンを供出せよと言う。糸子は「帰ってきたらまた使うか
ら」と供出を断る。ボスは言う。「いやしくも日本の妻。夫を戦地に送り出した
らいさぎよく遺骨になって帰ってくることを願うべきやないですか。死んでお国
の役に立ってこそダンナさんの値打ち」。それを聞いて糸子は「なにーっ!」と
激怒する。

 戦時中の軍歌の一節に「夢に出てきた父上に/死んで帰れと励まされ/覚めて睨
むは敵の空/思えば今日も戦いに/朱に染まってにっこりと/笑って死んだ戦友の
/天皇陛下万歳と/残した声が忘らりょか」と、今思えばバカバカしいようなこと
を疑問としない時代が60年前までかなりのあいだ続いていたのである。

 洗脳というのは恐ろしいものである。私の高校の級友で昭和十八年学徒出陣の
折、行方不明になった、つまり逃亡したとされる人が二人いる。その二人につい
て、いまだに旧友相集うとき、それがなにか不名誉のように思っているらしい口
吻が感じられることがある。中学の同級生になるともっとひどい。一度汚染され
ると除染はきわめて困難なものであるのは放射能だけではなさそうである。

 「証言記録」シリーズのなかで近藤一という人は、沖縄戦の最前線で肩に被弾
重傷を負うが敗戦によって九死に一生を得た経験を語っている。倒れた自分に
「しっかりしろ。後でむかえに来るから」と言い終えて後退した戦友が死んでい
たことを、戦火が収まって後に知った。自分のせいで死んだのではないかと自責
の念が晴れない。「みんなといっしょに死にたい。連れ死ねなかったという戦後
六十年の負い目を心に持ちながら生きている」と言う。

 この近藤という人と堀井参謀と。思考の回路がこんなにもちがうのは、いった
いどのように考えたらよいのだろうか。迷い去らぬまま今年もどうやら私は生き
のびたようである。                           
                          (2011/12/14)
               (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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