■ 書評
「近代日本の分岐点-日露戦争から満州事変前夜まで-」深津真澄著
船橋 成幸
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この本が追究している主題は、明治維新のあと、日本が近隣諸国に対してなぜ
、どのように苛烈な侵略を進め、第2次大戦につながる戦争の道へと突き進むこ
とになったのか、この軍国主義的衝動を抑え、国際間の協調を求めて平和的発展
の道を選ぶ可能性はどこにもなかったのか、というテーマである。練達のジャー
ナリスト(元朝日新聞論説委員)である筆者は、豊富な資料、文献、記録を駆使
してこの課題に挑み、独自の注目すべき"戦前史観"を踏まえた作業を進めている
。その概要は、序文とプロローグで総論的にまとめられているので、まずそれか
ら紹介しておこう。
筆者は、(第2次大戦の)「敗戦に至る昭和前期の軍国主義の成長、拡大、暴
走のプロセスを知るには、日露戦争以後満州事変まで25年間の歴史こそ見落と
してはならない重要なポイントである」として、「日露戦争の前後から満州事変
の予告編とも言うべき1929年の張作霖爆殺事件までの日本の政治、外交の流
れをそのときどきの政策動向のキーマンとなる人物の動きを通して掘り下げ」て
いる。そしてとりわけ大正時代に注目、この時代の日本に現われていた「二つの
道」について論述する。
すなわち、一方の道には、一次、二次の護憲運動、米騒動、普選運動など民衆
運動の勃興と大正デモクラシーの開花があり、また第1次大戦を契機とする産業
・社会の発展と変容、戦後の国際協調・軍縮の気運などから、「欧米列強の帝国
主義追随路線を転換する好機」に日本は臨んでいたと見る。だが他方、現実に政
治・外交を仕切っていた官僚、政治家、軍人らは、それぞれの階層内で矛盾・相
克をはらみながらも、「日清、日露戦争を通じて血で購った権益を絶対視する国
策」から離れることができず、結局"軍国日本"への道に突き進んでゆく。この流
れを振り返った筆者は、「大正時代の日本は政治、経済、社会それぞれの深層部
で、明暗二つの潮流が激しくかみ合っていた時代」であったとして、これを『近
代日本の分岐点』に位置づけているのである。
筆者がこの時代の「キーマン」に挙げているのは、明治維新の担い手であった
第一世代の元老たちに続いて登場し、国策の策定と推進の過程を現実にリードし
た第2世代の小村寿太郎、加藤高明、原敬、田中義一ら4人の政治家たちである
。第1章以下でかれらの業績と人物像が詳細に述べられている。
幕末の生まれで日清戦争のとき外務官僚として北京にいた小村は、日露戦争を
挟む第1次と2次の桂内閣で外相を務めている。日露の早期開戦を積極的に唱え
たが、戦争のさなか機を見てポーツマス講和条約の道を拓き、自らその主役を担
って締結に持ち込んでいる。この講和でロシアから旧満蒙、遼東半島の権益を移
譲させ、南樺太を奪い、さらに戦後は伊藤博文らの韓国支配政策を徹底させて1
910年の日韓併合を強行させたのである。
筆者は、このような「力と権益の外交」は当時の「グローバルスタンダード」
であったとしつつ、しかもこの小村寿太郎こそ「日本が後発帝国主義国家に転換
する上で最大の役割を果たした人物」とみなしている。そのうえで「明治日本の
成功が昭和日本の失敗を用意したという因果関係」に触れているが、留意すべき
点であろう。
加藤高明は、5歳年長の小村に先んじて伊藤博文内閣で外相をつとめ、それ以
来、日露戦争を経て第1次世界大戦直前の大隈内閣にいたるまでの間、4度の外
相歴を重ねた。そしてこの4度目のとき、加藤は大戦への積極参戦を唱えて対独
宣戦布告(中国山東省などで戦闘)を主導し、さらに当時の中華民国政府に「2
1ヵ条要求」を突きつけている。これは「満蒙権益の長期固定化」を狙い、中国
全土に対する半植民地化の企図にもつながるもので、袁世凱大総統が「豚カ狗ノ
如ク軽蔑スルモノ」と反発、反日運動の激しい高揚を招くことになる。日本側で
も、元老をはじめ厳しい批判が集中。「要求」はかなり縮小されたものの、結局
は「最後通牒」を経て「日華条約」として押し付けている。
だが加藤は、この経緯が重大な失点となり、以来10年近く政界で"陽の当たる
場所"を得られなかった。3度目の外相のとき政党(立憲同志会)に加わり、閣外
に去って憲政会総裁の地位につくが、選挙で敗北を重ね「苦節10年」といわれた
野党暮らしを続けている。
この間に加藤は「政策思想の根本を改め」,当時の護憲運動や普選推進に貢献
するようになる。対外的にもシベリヤ出兵反対など内政不干渉、共存共栄を唱え
、変身ぶりは鮮やかであった。1924年には護憲3派による加藤内閣が成立、
翌年、憲政会単独の内閣を率いるが、その施政の基調にはデモクラシーと国際協
調の色彩が強く現われていた。
筆者は、その成果が国民的レベルに定着せず、ひろがりを欠いたのは「明治憲
法体制の限界」であったと述べている。端的には、加藤内閣のもと、普選法と治
安維持法が"抱き合わせ"で成立したという事情が、その「限界」を示していると
言えるだろう。
原敬も新聞記者を振り出しに20代半ばで外務省に入り、一時は退官して大阪
毎日新聞の社長も勤めるが、1900年、40歳を過ぎて政友会の結成に参画、
幹事長となり、伊藤内閣の逓信大臣にも就任する。以来、内相や政友会総裁など
の経歴を重ね、第1次大戦の幕が引かれた1918年、政友会主導の政権で首相
の座につき、本格的な政党政治を実現する。こうして「大正デモクラシーの時代
」を始動させたのだが、その3年後、東京駅頭で暴漢の凶刃に斃れたことは有名
である。
筆者は、原を徹底したリアリストと見ている。出自は東北南部藩の家系で、維
新以来の藩閥官僚体制からは最も遠かったが、原はそれと正面から対決するので
なく、現実を受けとめて薩長閥や元老のなかにも積極的に食い込み、「権力政治
の巨匠」といわれた力を蓄えていた。手段を選ばず、世評や大衆運動も恃みとせ
ず、ひたすら「数は力」の論理を貫いて「政党政治の確立」(=政友会政権の樹
立)に邁進したというのである。
原のこのリアリズムは外交政策の面でも存分に発揮された。その特徴は、国際
協調とデモクラシーのひろがりに向かう国際社会への冷静な対応であり、軍部主
導の大陸政策を転換、中国への干渉をやめ、欧米と協調して軍縮と貿易・経済重
視の策を選ぶことであった。
ただし、この時代には、日本の侵略に対する朝鮮、中国民衆の抵抗運動が歴史
的高揚期にあり、原の「不干渉、協調」の路線にも限界をもたらしていた。
原内閣は3年余で終わるが、大正デモクラシーの時代も1932年、犬養首相
暗殺事件で幕を引くことになる。筆者は、この原敬の政治が、利権や数の論理、
対米協調、経済成長の重視といった多くの側面で現在の自民党政権につながり、
良くも悪くもその「遺産」になっているとの指摘を加えている。
筆者は、以上の3人の章に続いて第4章で「大日本主義」批判をうちだした石
橋湛山をとりあげているが、ここでは順序を変え、第5章の田中義一のくだりか
ら紹介しよう。
田中は、前記の3人と違って生粋の軍人出身である。日清、日露の両戦役では
軍組織の管理・運用や企画力を評価されて参謀役をつとめ、戦後も全国の地域・
職域に在郷軍人会を組織するなどで業績を重ね、1923年には原敬の内閣で陸
相に就任する。元老の山県有朋が後ろ盾となったのだが、同時に田中は原から感
化され、民意や国際環境にも配慮した政策路線に傾くようになる。そのため軍の
批判を招いて孤立するが、政界では力を伸ばし、1925年には政友会総裁に推
戴され、27年、組閣して首相と外相を兼務する。
そのころ、軍部は「満蒙権益確保」を掲げて中国への干渉・支配の衝動を一段
と強めており、田中内閣に2次にわたって山東出兵を強行させ、さらに関東軍の
謀略による張作霖爆殺事件を惹起して31年の満州事変につながる中国侵略の口
火を切っている。
この爆殺事件の責任をめぐって、田中は即位後まもない昭和天皇に「厳然たる
処分」を約束しながら果たせなかったことで叱責され、引責辞任を余儀なくされ
ることになる。
筆者は、このような時代に、「軍部勢力の肥大化に少なからぬ責任をもつ」田
中が、反省して暴走への抑止力をいかに利かそうとしても、「軍国日本への傾斜
はもう政治の力で押しとめることは不可能だった」との見方を示している。
石橋湛山は他の3人の政治家と異なり、第2次大戦の前までに国政の場に登場
したことはない。その戦前の活動は、さほど規模の大きくない経済誌『東洋経済
新報』を中心にした執筆にほぼ限られている。だがそれは、日本が第1次大戦に
参加、中華民国に「21か条要求」を突きつけるなど大陸侵略を本格化させ、一
路、軍国主義の道を辿っていた大正初期のことである。言論界も民衆の世論もそ
の勢いに流され、大正デモクラシーを支えた政党でさえ軍部の野望と暴走を抑止
できない状況のなかで、石橋は敢然と当時の「国策」に異議を唱えた稀有のジャ
ーナリストであった。
その論説・論文は数多く残されているが、筆者は、とりわけ1921年の夏、
『一切を棄つるの覚悟―太平洋会議に対する我が態度』と『大日本主義の幻想』
と題する二つの長大論説を代表的なものとして紹介、後者については全文を巻末
の付録に掲げている。そのなかで、例えば「朝鮮・台湾・樺太も棄てる覚悟をし
ろ、支那や、シベリヤに対する干渉は、勿論やめろ」と説き、しかもその根拠を
イデオロギーや抽象的な理論に求めるのでなく、当時の社会・経済・国際の状況
を具体的に分析、いかなる選択が日本の利益にかなうかを追究し、論証するとい
う、すぐれてリアルな視点に立つ主張に特色があったという。
石橋は第2次大戦後、政界に入り、1972年には首相の座につくが、病弱の
ためわずか2ヶ月の短命政権に終わり、見るべき業績は残せなかった。しかし筆
者は、戦前の石橋の主張が、第2次大戦後、平和憲法のもとめざましい経済発展
を遂げた日本の現実に、みごとにつながり、生かされたと見ている。
この本のエピローグで、筆者は、朝鮮王朝最後の君主であった高宗の生涯を振
り返りながら、それと同時進行的に強行された日本による朝鮮侵略の歴史を克明
に記述している。1875年の「砲艦外交」に始まった軍を使っての内政干渉、
王宮占拠、王妃である閔妃の暗殺、1910年の韓国併合の強行、その前後にわ
たる民衆反乱・独立運動への苛烈な弾圧など、韓国主権への蹂躪ぶりは、日本国
民として直視するのに胸痛むものがある。
現在、竹島(韓国名は独島)の帰属をめぐって韓国の世論が沸騰しているが、
日本側は、政府は勿論メディアに至るまで韓国側主張の根拠に全然ふれようとせ
ず、国民は日比谷公園ほどの面積しかないあの孤島の問題で、なぜ韓国民が燃え
、国交までが緊張するのか、何も知らされないために、ほとんど理解できずにい
る。せめてこの本が示すような歴史への知見があれば、問題に対する日本国民の
目線は、大きく違ってくるに違いない。
総じて、この本の特色は、「キーマン」に挙げた4人の政治家と1人のジャー
ナリストの生涯の記録を基軸として、それぞれの時代に深くかかわった政治・外
交上の業績と周辺の事象を掘り下げた点にある。引用された諸資料の豊富さなど
すぐれた近代史書ともいえるが、主軸に「キーマン」たちのライフ・ストリーが
配されることによって、立体的な彫りの深い「歴史物語」となっている。
ただ、あえて言えば、大正デモクラシーと軍国主義が交錯していたこの時代に
「国策」を動かした側だけでなく、それに異議を唱えた側の人物が石橋湛山ひと
りしか紹介されないのは、いささか物足りない思いがある。とりわけ、この時代
の無産政党の運動をどう見るのか、農民や労組などの大衆運動についても、米騒
動に若干触れられているだけだが、これらの点、筆者の評価はどうか、問いたい
思いも残る。教科書でも史書として完結したものでもないのだから、読者それぞ
れがその答えを見つけるべきかも知れないのだが・・・・。
(評者は元日本社会党中央執行委員)
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