■書評:

「鉄の歴史家・中沢護人 遺したこと遺されたこと」

   新時代社 定価 2980円    加藤 宣幸
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「鉄の歴史」は「人間の歴史」であると言われるように鉄の歴史を知ることは人間の社会・技術・文化・文明を知ることでもある。石器時代から鉄器時代への移行は人類の生産力が発展した証であったが近代国家発展のシンボルもまた鉄の生産高であり技術力であった。

わが国の歴史を見ても官営八幡製鉄所の創業で産業近代化の幕があき、「鉄は国家なり」のスローガンのもとにヒト・モノ・カネは製鉄業に集中し、戦前の軍国時代は言うまでもなく戦後の政治・経済すべてを強力な鉄鋼産業が主導した。しかも戦災で壊滅した鉄鋼業は世界最新鋭の設備をもって沿海地区に再建され日本経済の奇跡的復活の立役者となった。

これらは「たたら製鉄法」「日本刀の玉鋼技術」など日本の風土に根ざして長い歴史の中ではぐくまれてきた「鉄」の技術が近代産業を支える「産業の米」として一挙に開花したものと考えることもできる。日本の例に見るまでもなく鉄の歴史は人間の匂いの濃い歴史なのである。

この意味で、人類は19世紀までの鉄の歴史について古典的な名著を三冊持ち、これらの本には19世紀20世紀の鉄の科学がすべて凝集されている。その第一はベックの『鉄の歴史全5巻』1884年~1903年。第二はスミスの『金属組織学の歴史』1960年。第三はタイルコートの『冶金の歴史』1976年。である。

本書は、その『鉄の歴史』(原題:技術的および文化史的にみた鉄の歴史)の訳業に心血を注ぎ、生涯を捧げつくした男の物語である。『鉄の歴史』は全5巻17分冊の大著で昭和43年から始まった刊行は昭和56年に終ったが、索引の別巻が完結したのは昭和61年になるという実に18年に及ぶ大事業であった。

この出版事業が関係者による不屈の奮闘によって達成されたことに違いはないのだが『翻訳文化賞』の栄誉に輝いたのは大著であったことだけによるものではない。その内容において「そのなかには19世紀の化学と物理と機械学と工学のヨーロッパにおける最新の学問のすべてが流れ込んでいる」と評された技術史的な側面とともに著者が「頭脳の聡明さよりも心情の聡明さ」と「愛」によって語る「人間の歴史」そのものが訳者の人柄を真っ向に映す鏡面となって、人々の心を捉えて離さなかったからであろう。

マルクス主義的ヒューマニズムはキリスト教的ヒューマニズムに歩み寄ってこなければならないという信念に到達した著者の遺稿と友人・家族たちの暖かい筆は『鉄の歴史』=「人間の歴史」を語るのに中沢護人ほどふさわしい人物はいないことを何よりも物語っている。

ちなみに『鉄の歴史』の著者ベック氏は1944年にヒトラー暗殺計画に失敗したドイツの将軍ベック氏の父であり、新進宗教学者中沢新一氏が中沢護人氏の甥で歴史家網野善彦夫人が実妹であったりするのに「知の連鎖」を感じないではない。

この書の刊行を推進した松尾宗次氏は「鉄を通して歴史を見る入門の書でもありたい願いをこめて編成した」とあとがきでいわれているが一人でも多くの若い人々が中沢護人氏を通して鉄と人間の関わりに触れてもらいたいものである。

{書評補遺}
「鉄の歴史」は「人間の歴史」だと一口に言われ、直感的に石器・銅器・鉄器と進んだ人類の歴史を連想して殆どの人は納得してしまう。しかし、その人々も、この人間生活に最も関わりが深い金属としての鉄そのものがいつごろ、どこで、どのように作られ、そして私達のところにどこから運ばれてきたのだろうか。となると案外に知識は乏しい。

私などもその一人で、この「鉄の歴史家―中沢護人」を手にするまで「鉄づくり」にまつわる言葉としては溶鉱炉・高炉・転炉・平炉・電気炉・コークス・キューポラ・鋼・鋳物・銑鉄・鉄鉱石・砂鉄・日本刀などの単語が雑然として頭の中に並んでいたにすぎなかった。

ところが、この本は鉄づくりに興味をもたせ、その歴史を調べてみたいと感じさせてしまったのである。

 勿論、この本は鉄づくりについて教えているわけではなく中沢護人氏その人を語っているのだが、わたくしは、これを読んで、まず中沢護人氏という人に惹かれ、その人自身が生涯の仕事として取り組んだ「鉄の歴史」とは何なのだろうか。と引き込まれつつある。

 中沢護人氏は戦争末期に検察によるでっち上げ事件として有名な横浜事件に引っ掛けられ検挙された。これがきっかけとなり戦後いち早く共産党に入党したのである。

 党本部に勤め、当時徳田球一氏と並んで党を代表していた志賀義雄氏の秘書や機関紙アカハタの記者などを歴任した。しかし、心の中ではキリスト教的ヒューマニズムとマルクス主義的階級闘争の葛藤に苦しみ、結局『日本共産党の「科学的」社会主義は本当に「心情の聡明」を大切にしているのだろうか。自分が共産党に同調する必要はない。共産党が私のヒューマニズムに近づいてくればよいのだ』と考えるようになって党を離れ自分の道を歩み始める。

 人物のスケール、学識の豊かさ、偉大な訳業の達成などすべてにおいて比べようもないが私自身も日本社会党が結党されるとすぐ入党して党本部の書記となり、青年部・組織部・機関紙局などを歴任、60年安保闘争の前後にはいわゆる構造改革派として活動し、1968年ごろ自然離党した。党も諸条件もまったく違うのだが、「科学的社会主義」について中沢氏の心情が揺れ動いたことについては深く共感するものがある。

 中沢護人氏はアカハタ記者時代、のちに党の戦略路線として構造改革路線を主張して共産党を追われる政治部長竹村悌三郎氏の薫陶を受け、その人格識見について深く敬意を表している。

 私達はその竹村氏個人やグループの人々と、党はちがっても接触する機会があったから、中沢氏と直接お会いする機会はなかったが、政治的意見は意外と近かったのであろうか。

 政治的意見といえば、著名な宗教学者中沢新一氏は護人氏の甥(兄の子)にあたるのだが近刊の『僕の叔父さん網野善彦』のなかで「父の男兄弟3人は共産党に入っていて中ソ論争では2人が中国派で父(中沢厚氏・日本共産党除名)だけがソ連派だった」と書いている。

 山梨の自宅で、3人がぶどう酒を酌み交わしながら激しい論争を繰り広げるのを子供の新一氏は網野善彦氏とともに聞きながら護人氏らについて次のように描写している。

すこし長いが彼の考えを理解するために紹介すると。

 「ルードウイッヒ・ペック著『鉄の歴史』の翻訳者であり、近代技術の果たした啓蒙的な役割を賛美していた護人さんが、農本主義的な毛沢東思想を支持する中国派の急先鋒となり、田舎に住んで民俗学の研究をしながら政治活動をしている父がそういう中国の農本主義的マルクス主義を否定するソ連派の代弁者となって口角泡を飛ばして議論しあっているのである。

そして網野さんはといえば、対立する両者の間でくりひろげられている、ねじれにねじれきった議論をじっくりと聞きながら、問題の本質をつかみ出そうと努力している賢い牛のようだった。」

 「私の理解では護人さんは農業を主体とする社会に科学技術を結びつけたときに「理想」の社会形態がつくり上げられると考えていた。科学技術そのものには、道徳・倫理を発生させることのできる内在的な原理が欠けている。

そこには啓蒙のマイナス面がいつもつきまとっている。そのために個人主義の発達した近代社会では、科学技術の暴走を食い止めることができないのである。水俣の悲惨を見てみれば、そのことがはっきりわかる。

 科学技術の発達を正しい方向に導いていくためには、それを包み込む社会が強力な道徳原理をそなえているのでなければならない。文化大革命をとおして今日の中国がめざしているのは、そういう方向ではないだろうか。農業を基盤とする共同体からは、彼の尊敬していた二宮尊徳が語っているように(この尊敬を護人さんは、自分の父親から受け継いだのである)道徳が自然な形で発生することができるからである。

 だから農村的な家郷に残されているものを守ることこそが重要なのである、と護人さんは語っていたように記憶する。」とある。

また、『歴史の話』(朝日新聞社刊)で網野善彦氏と鶴見俊輔氏が対談しているなかでは護人さんとその家族について網野善彦氏は次のように語っている。

鶴見>> 山梨だと、前回にあった無所有というのがよくわかるんです。中沢厚氏の石を訪ねる旅もそうですね。石なんて無所有だし、ブローデルの『地中海』じやないけど、石が置いてあるところまで沢を渡って行くというのは、歩いていくあいだ、所有というものにぶつからない。石というのは誰のものでもない。
中沢厚氏の著作を読むと、底のほうに、無所有の共同所有の、誰かわからない、祖先からの系図とは関係のない連続性があるでしょう。あれはよくわかるんです。

  私は中沢護人(科学技術史家、中沢厚の弟)をわりあい古くから知っているんです。彼も掘り起こせば底に共産主義があるというか、共同所有という考えがある人ですよね。中沢さんご一家の共同性の感覚というのは、権力者打倒のマルクス主義の運動とはちょっと違う、無所有の感覚のような気がしますね。

網野>> たまたま私の家内が中沢家の人間だったということでして、家内の父というのが

鶴見>> 生物学の人でしょう。荒俣宏(作家、博物学者)が書いている(『大東亜科学綺譚』1996年)中沢毅一ですね。

網野>> そうです。もう亡くなっていたので、私は会えなかったんですけれども、なかなか立派な人だったと思うんです。この父が中沢家のあの兄弟たちに与えた影響というのはじつに強烈ですね。

   とある。

 これらの資料からうかがえるのは「鉄の歴史家」として生涯をかけた訳業にとりかかる以前の中沢護人氏についてのプロフィールである。

 私がそこに強い関心をよせるのは、単に戦後期日本の社会主義運動がくぐりぬけてきた「混沌」が護人氏の歩みに表徴されているように思えるからだけでない。同時代に生き、社会主義運動の末端に加わった者としての共感、さらに幼少期から「アカの子」として周囲から特異な目で見られながら育ったことの共通体験などがある。

 しかし、それら以上に現在の私をとらえているのは戦前・戦後を通じ日本の社会主義運動にキリスト教がどのような強い影響を及ぼしたかと言うテーマである。

 明治・大正・昭和をとうして日本の社会主義運動には名前を列挙するまでもなく立派な人格者で、かつキリスト者である指導者は教多い、そして大きな足跡も残されている。

  中沢家は中沢徳兵衛・毅一・護人(厚)と3代のクリスチャンが「無所有の思想」ないしマルクス主義を理念として実践活動に取り組んだ。護人氏の表現によれば「『キリスト教的社会主義』と『共産主義的理想主義』は合致すると信じてきたが、どうしても私の中でキリスト教的ヒューマニズムとマルクス主義的階級闘争とが重なり合わなかった」ということで党を離れ、厚氏もその理由はわからないが党から除名されている。

 私の身近には社会民主主義運動の先達であり、かつキリスト者である何人かの尊敬する方々がいるのだが、もしも中沢護人氏が『キリスト教的社会主義』の立場から戦後の激動期に日本共産党に入党しなかったとしたら、どのような道を歩かれたのだろうか。

 その場合『鉄の歴史』の翻訳は完成したのだろうか。と考えるときもある。