■研究論叢

非武装中立論再考 (上)             木下 真志


◇◇はじめに◇◇


  日本社会党は、戦後政治の一翼を担い、長らく野党第一党の位置を占めた政党
であったにもかかわらず、研究書は多くなかった。しかしながら、ここ10年程漸
く研究者も、研究成果もともに充実してきている。本稿では、かつて社会党が掲
げた、非武装中立・「違憲合法論」という「政策」について、社会党内の動向を
勘案しながら、社会党がもっていた歴史的意味、政治的意味にも迫り、この分野
における近年の研究の進展に貢献したい。改憲をめざす勢力の新たな動向が気に
かかる折り、歴史の中から再考の素材を見出そう、という試みである。
 
  戦後日本で、自社両党は、防衛政策において、1994年の村山内閣までは相容れ
なかった(1)。社会党は、結党以来、現憲法を支持し、とりわけ、第9条の戦争
放棄・戦力不保持規定に共鳴し、護憲政党として有権者、とりわけ、日教組・国
労・全逓・全電通・自治労等、官公労の支持を集めてきた。自衛隊反対、日米安
保反対、軍事基地提供反対、再軍備反対というスローガンは、支援組織・総評の
全面的バックアップもあって、一定の影響力をもつものであった。
 
一方、自民党は結党以来、自主憲法の制定を掲げ、1950年の朝鮮戦争を契機に
警察予備隊を発足させ、保安隊、自衛隊と組織を拡張・発展させてきた。一歩一
歩着実に軍備増強を実施し、憲法第9条の解釈を拡大する方向で、事実上の再軍
備化を成功させた。
 
  本稿の対象は、時期的には、主として、岸信介(1896-1987)、池田勇人(189
9-1965)、佐藤栄作(1901-75)、田中角栄(1918-93)、三木武夫(1907-88)
、福田赳夫(1905-95)、大平正芳(1910-80)、鈴木善幸(1911-2004)、中曽
根康弘(1918-)の自民党内閣期となろう。財界の要請も手伝って1955年に結党
された自民党が、財界の意向に沿った防衛政策を展開することは、自民党を構成
する議員の心情にも概ね合致するものであった。
 
  選挙制度に潜む問題点や、定数の不均衡の問題等をいま捨象すれば、この時期
の総選挙、参院選の結果は、有権者の多数が自民党に勝利をおさめさせることを
選択してきたといえる。すなわち、社会党、自民党が(有権者の広範な支持を獲
得することを目指していたにしても)掲げていた政策の意味そのものに重点をお
いて検討したいのである。それは、社会党が有権者の方を見ていなかったから、
「非現実的」政策を掲げることになり、選挙に勝てず、政権獲得に至らなかった
のだというあまりにも常識的議論から脱却するためである。加えて、本稿は、当
時の社会党の政策に関し、現在の視角からの評価を意図するものでもない。賛否
や当否を議論しても、何を今さら、である。 
 
  法律家の間で行われている憲法第9条をめぐる論争では、次の2点が重要な争点
だと思われる。憲法第9条2項の規定と自衛隊の保持する防衛力との乖離という点
と、最高法規が遵守されていないことから招来される違法行為、不法行為の蔓延
への不安の2つである。

 まず、私学助成、政教分離、議員定数の不均衡等、憲法の条文と現実との乖離
は他にもみられる。道路交通法や軽犯罪法など、厳密には遵守されていない法律
も多数ある。国民の間の遵法精神と、憲法第9条をめぐる問題との因果関係も定
かではないし、そもそも「測定不能」なのではないか。
  本稿では、政治的意味に絞って非武装中立論を再考し、検討を加えたい。


◇◇I 非武装中立論


  日本の再軍備問題を検討する際、われわれはつい忘れてしまっていることがあ
る。それは、現憲法が制定された当時、日米安保条約も、日米地位協定も、まし
てや自衛隊も存在していなかったという紛れもない事実である。当然、サンフラ
ンシスコ講和条約も締結されてはおらず、日本は占領下にあった。
  加えて、社会党が掲げた「非武装中立」も、自民党が結党以来提唱している「
自主憲法の制定」も、ともに実現されなかった主張であり、いわばともに、「理
想」であった。自社双方が「理想」を掲げていたわけで、社会党だけが現実離れ
した「理想論」を唱えていたのではない。  
 
このような背景を理解したうえで、早速問題の検討に入ることにしよう。最初
に、非武装中立論とはどのような論であったのか、確定させておきたい。
 
  当時第9代社会党委員長であった石橋政嗣(1924-)は、1980年に『非武装中立
論』を発刊し、1990年に政界を引退するまで、黒田寿男、岡田春夫らとともに、
「安保5人男」と称される社会党の非武装論の代表的存在であった。 石橋は、
社会党第34回党大会(1970年)で書記長に選出されて以来、成田知巳委員長との
コンビで社会党を指導した。そして、1977年参院選で改選議席を大きく下回った
責任をとって辞任した。さらに、飛鳥田一雄委員長が、1983年の参院選で敗北し
た責任をとって辞任した後、同年、委員長に就任した。石橋の著書『非武装中立
論』は、その間の、石橋が党安全保障基本政策委員長時代に出されたものである

 
  1986年の第50回党大会において、社会民主主義を志向した「新宣言」採択に尽
力した人物である。ごく簡単に、石橋の非武装中立論を振り返っておこう。
  彼が、なぜ非武装中立論を展開したのか。彼自身が列挙したのは、以下の理由
による。
 
  第一に、「周囲を海に囲まれた日本は、自らが紛争の原因をつくらない限り、
他国から侵略されるおそれはない」、「わが国には、社会主義国を敵視し、米軍
に基地を提供している安保条約の存在を除けば、他国の侵略を招くような要因は
何もない」(2)。
  第二に、「原材料の大半、食糧の六〇%、エネルギー資源の九〇%余を外国に依
存し、主として貿易によって、経済の発展と国民生活の安定向上を図る以外に生
きる道のない日本は、いかなる理由があろうと、戦争に訴えることは不可能だと
いうことです」(3)。
 
  石橋は、さらに、いわゆる「戸締り論」に言及している。彼は、戸締まり論を
批判し、「凶器を持って押し入ってくるのは、空巣やコソ泥ではなく、強盗だと
いうことです。強盗は、鍵がかかっておろうとおるまいと、錠前などは打ちこわ
して侵入してくるのであります。強盗に押し入られたとき、私たちは「抵抗せよ
」と教えたり、教えられたりしているでしょうか。この場合の抵抗は、死を招く
危険の方が強いことを誰もが知っています。」(4)

 以上のような、状況に置かれている日本において、石橋の非武装中立論が現実
のものとなるには、以下の前提条件を要する。

 まず第一に、「政権の安定度」、すなわち、安定した(社会党(を中心とした
))政権を樹立し、第二に、「正しい人事と、正しい教育」により、自衛隊員に
社会党の「考え方なり政策なりを完全に理解させ、協力態勢をとらせる」、すな
わち、「隊員の掌握度」、そして第三に、「ソ連との平和条約締結をめざした関
係の修復、朝鮮の統一に寄与するかたちの朝鮮民主主義人民共和国との国交回復
」、「日米安保条約の廃棄とこれに代わる日米平和友好条約の締結」、「日本の
中立と不可侵を保障する米中ソ朝等関係諸国と、個別的ないし集団的平和保障体
制を確立することに努め」、「アジア・太平洋非武装地帯の設置、さらに進んで
東西両陣営の対峙する全地域に、非同盟中立の一大ベルト地帯を設定する」とい
う、「雄大な構想を実現させたい」、すなわち、「平和中立外交の進展度」、こ
の三つの条件が満たされるなかで初めて、非武装中立論は、「国民世論の支持」
を得ることができる(5)。
 
  故に、「最終目標としての非武装に達するのには、どの程度の期間を必要とす
るか」については、「四つの条件を勘案しながら縮減に努めるという以上、何年
後にはどの程度、何年後にはゼロというように、機械的に進める案をつくるとい
うことは、明らかに矛盾することであるばかりか、それこそ現実的ではない」。
「重要なことは、どんなに困難であろうと、非武装を現実のものとする目標を見
失うことなく、確実に前進を続ける努力だということです」(6)。

 「高度の技術を駆使して、国土改造計画に基づく調査、建設、開発、あるいは
救援活動、復旧作業に従事することを目的とした平和国土建設隊は、自衛隊とは
全く別のものとして創設し、その隊員は主として一般から募集し、本人の希望に
よって、自衛隊からの配置転換をもはかるというようにしたい」(7)。

 以上が、石橋の非武装中立論の概略である。社会党は結党以来、平和主義を掲
げ、後、再軍備反対等の「平和4原則」を総評と共に組織をあげて主張してきた
。石橋の非武装中立論は、この結党以来の基本政策を再軍備反対、中立堅持軍事
基地提供反対という側面から補強する理論であったといえよう。


◇II 違憲合法論-違憲法的存在論


  もうひとつ、この時期の社会党が提示した論点は、自衛隊が違憲ではあるが、
国会においては法的手続きを踏んで存在する合法的存在であるというものである
。これは、社会党が現存する自衛隊を「違憲状態」であるとしていることは現実
的でない、という批判に対して、東京大学の小林直樹教授(1921-)が、現実を
説明するために考え出した(1982年に発表)いわば、苦肉の策といえよう。

 「これまでの自衛隊に関する論議は、主として違憲・合憲の二分論をとり、学
界でも政界でもそのせめぎ合いに終始してきたといってよい。憲法論ないし法的
議論としては、それが当然である。しかし、現実の自衛隊の存在は、学界の大勢
を占める違憲論によって消滅するどころか、着実に成長を遂げて巨大になってい
る。米ソの超大国を別にすれば、世界有数の総合戦力をもつ軍事組織となった自
衛隊は、単に「違憲の事実」にすぎないと見なすだけでは済まない存在となった

まっとうな解釈論からすれば、それは依然として、"憲法上あるべからざる存
在"である。現実には、しかし、それは実際上も形式上もいちおう「合法的」に
存在し、機能している特殊な組織である。」(8)と、自衛隊の持つ「軍事組織
」が世界有数であること、「合法的に存在していること」を指摘したうえで、
  「こうした自衛隊存在の、 、現実は、まさに「違憲かつ合法」の、、、、、
、、、、矛盾を内包したものと捉えることが、最も正確で客観的な認識であろう

この認識は、たしかに法秩序を統一的に考えるべきだとする規範論理的思考に
は適合しないし、実践的見地からみても既成事実の正当化を促進するような危険
な面がないとはいえない。しかし、法秩序の機能的かつ実態的な把握をめざす理
論にとっては、矛盾を矛盾として直截に受けとめることから出発することが、理
論の客観性を確保するための第一条件である」(9)と述べた。

 以上が、小林の「説」の主旨である。しかしながら、社会党としてもこのわか
りにくい理論をそのまま受け入れても、有権者の支持を得ることは難しいと判断
した。 そこで、石橋委員長は、「自衛隊は違憲だが、法的存在」、すなわち、
「違憲・法的存在論」を展開することとなった。
 
  小林は、自らの「説」を補足して、次のように述べている。「自衛隊が「合法
」的存在だということは、第一にそれが法律(自衛隊法、1954年=原文)によっ
て、その任務・組織・編成・権限等を定められており、またその管理・運営にた
ずさわる防衛庁も権限や所管事務の範囲を法律(防衛庁設置法、同年=原文)で
定められていることにもとづく。これらの法律は、制定過程で多くの混乱を生じ
、国会内外できびしい批判を受けたが、いちおう正規の手続きを踏んで制定・公
布されたものであり、また現に法律として実効的に行われている。この現実面に
即するかぎり、自衛隊の「合法」性を否認することはできないであろう」(10)

 
  憲法第9条堅持を主張しているから社会党を支持している、という有権者がこ
の「説」をすんなり受け入れたわけではない。社会党石橋執行部がこれを「違憲
・法的存在論」として党の方針としたのは、彼の掲げた「ニュー社会党」路線の
ひとつの柱となると判断したためである。
 
「ニュー社会党」路線は、諸政策の現実路線を掲げ、加えて、公明党、民社党
(当時、中道政党と言われた)との連繋を強化し、「社公民」路線を展開する中
で、自民党を過半数割れに追い込むことであった。1986年の党大会では、マルク
ス・レーニン主義との決別を宣言した「新宣言」を採択させることに成功した。
石橋が「違憲・法的存在論」を取り入れたのは、こうした「現実」路線推進の一
環であった。
  これが可能となった背景には、既に、江田三郎が提示した社公民(江公民)路
線、成田、飛鳥田委員長時代の地方選挙における社公民路線の定着等の背景があ
った。


◇III 自主憲法制定論 


  保守勢力は、現行憲法が、短期間に立案されたものであり、しかも、占領下で
、反対が許されない状況下で制定されたものであるとの主張を展開してきた。い
わば、GHQに「押しつけられた」憲法だから、自主憲法の制定が必要なのだ、そ
れが日本人としての誇りを取り戻すことにつながる、と。
 
自民党は、1955年の結党以来、政綱に、平和主義、民主主義及び基本的人権尊
重の原則を堅持することを掲げていると共に、現行憲法の自主的改正も唱ってい
る。結党直後、鳩山一郎や岸信介総裁は、憲法調査会の設置や、憲法改正に必要
な3分の2の議席を獲得するための公職選挙法の改正をめざした。60年安保闘争を
契機に、池田内閣以後は(11)、公然と改憲を唱える勢力は青嵐会など稀に表面
化する程度で、中曽根康弘内閣まで少なくとも内閣発足段階において、「改憲」
を口にすることはなかった。
 
  中曽根は、政治家になって以来、総理を目標として活動し、首相に就任したら
実行したいと考えている項目を箇条書きにしていた。その中に当然のように、憲
法改正は記されていた(12)。
  中曽根の持論を、彼の著書から拾っておこう。
  「憲法をよく読んでみると、そこに「国家」や「国民」という言葉、言い換え
ると、歴史と伝統の匂いが感じられないことに疑問を持つのです。歴史と伝統を
持つ共同体である国家は厳然と存在しているのに、憲法は無国籍なのです。」(
13)
 
  「占領体制の脱却を悲願に1955年11月、自由民主党が結成されてから約50年、
9・11テロの衝撃、北朝鮮拉致犯罪が現実のものとして実感される今日、国民の
間に生活と歴史の共同体である祖国日本への意識が回復され、健全なナションリ
ズムが勃然として湧いてきたと感じるのは私だけではないでしょう。言い換えれ
ば、日本人が憲法改正を自覚的に捉え出したのです。/政治は国民に対して、積
極的かつ歴史的な夢を与えながら、前進しなければなりません。私たちがかつぜ
ん豁然(ルビ原文)と、日本人としての純粋な発想で憲法改正に取り組むとき、
第三の維新がスタートするのです。そのためには、与野党の垣根を超え、国民の
勇気を結集しなければなりません。」(14)。
 
「現在の憲法論議はどちらかというと、現状に固執し、技術的所見が多すぎ、
時代の流れの先を読んでいません。この背景には、アカデミズムの世界で主導的
立場にあった宮沢俊義教授ら東大法学部の左に偏った先生方の影響があります。
その結果、多くの国民は、憲法改正は絶対不可であり、自衛隊は違憲であるとい
う意識を植えつけられてきたのです。」(15)

 このようにみてみると、理論的に憲法改正を提唱するというよりも、どちらか
といえば、情に訴えている側面が強い。日本国民(しばしば「日本民族」ともい
われる)自らが、自ら憲法を制定する、そのこと自体に意味がある、というわけ
である。
  しかしながら、現行憲法下でも、自衛のためならば、核兵器までもてるという
発言もこれといって問題化しない状況において、なぜそこまで改憲に拘泥するの
か、明確な説明に欠けるといわざるをえない。
       (以下 次号に続く)

                  (筆者は法政大学研究員)

                                                    目次へ