■視点 「03年総選挙総括について」 ─────────────────────────────

社民党の歴史的大敗と終焉 元一党員の感想 仲 井  富

●戦前無産運動が築いた歴史

社民党は劣勢を伝えられていた十一月総選挙で当選者六名という歴史的な大 敗を喫した。明治、大正から築き上げた無産運動は昭和三年二月、初めての普 通選挙に挑んだ。このときの当選者が八名である。民衆党から安部磯雄、鈴木 文治、西尾末廣、亀井貫一郎の四氏。日労党は河上丈太郎氏、労農党は山本宣 治、水谷長三郎の両氏、それに地方無産党で福岡の浅原健三氏である。これら の人々は病に倒れたり、あるいは山本宣治のように虐殺された。生き残った西 尾、水谷、河上氏らは戦後の日本社会党結党に中心的役割を果たした。いずれ も歴史に名を刻んだ先達である。戦後の片山、芦田の連立政権の後、昭電疑獄 など逆風下の第二十四回総選挙で四十八名という大敗北を喫した。しかし次の 総選挙では左右社会党を合わせて百十一名へと急速に回復している。

 村山内閣の後はどうか。自、社、さ連立政権参加時に七十名だった議席は第 四十一回選挙で社民党を名乗って戦ったものの、小選挙区四名、比例区十一名 で十五名の少数党に転落、つぎの第四十二回総選挙でも小選挙区四名、比例区 十九名に終わった。 第四十三回総選挙では土井前党首も落選し、小選挙区一名、比例区五名の六 名当選という結果となった。戦前無産運動最初の当選者よりも少ない歴史的惨 敗である。いまや七十五年前の昭和三年に産声を上げた無産運動、戦後の日本 社会党の歴史は、土井社民党のもとで終わりを告げることになった。土井党首 の跡をを継いだ福島瑞穂党首は土井路線を忠実に継承し、相変わらず「頑固に 平和、元気に福祉」と護憲路線を掲げていく方針のようだ。だがこの十年間の 村山連立政権以降の急速な転落の原因はなにかを問い、社民党指導部の政治責 任が明らかにされなければ、国民の支持回復は不可能である。

●説明責任を放棄した村山連立政権

 村山連立政権発足時、当時の社会党は戦後一貫して掲げてきた「護憲路線」 を一夜にして放棄した。すなわち「安保条約堅持、自衛隊容認」である。連立 政権の首班は当然、三軍の長となるという認識があったのかどうか。総理とし ては当然の見解かも知れぬが、長く社会党を支持してきた国民の側からみれ ば、どうにも納得のできない「変節」と映った。このときに緊急に社会党大会 でも開いて、公開の場で政策大転換の必要性、必然性の大議論が必要だった。 「これこれこういう事情と世の中の動きに対応して大転換が必要だ」という支 持者への説明責任を放棄した。イデオロギー好きで、原理原則に厳しいはずの 協会派などの左派議員も、はやばやと大臣の席にに座って知らぬ顔をきめこん だ。(注参照)  おまけに社会党出身の野坂浩賢建設大臣のごときは市民団体の「もっと議論 を」の声を無視して1995年5月に長良川河口堰の運用を宣言。当時は産経 新聞を除くすべてのマスコミが「世紀の愚行」と批判した。長良川河口堰建設 をやめさせる市民会議の天野礼子は「野坂は党と自分への建設業界からの金と 票に目がくらんで運用を宣言した」と著書のなかで述べている(「巨大な愚 行」風媒社刊)。土井前党首も自社連立政権の安保堅持や自衛隊容認、消費税 値上げや医療費値上げを議決した際の衆議院議長である。本当に「頑固に平和 憲法擁護」なら議長の席をなげうって反対し、しかる後、社民党の党首に就く べきだった。社民党の愚かしさは、そういうことには一切口をつぐんで「昔は よかった。いまは危機だ。平和憲法を守ろう」といまなお叫んでいることであ る。連立政権参加後最初の総選挙では多くの社会党支持者が共産党に投票せざ るを得なかった。昭和三十年の左右合同以来、一千万票以上を得てきたが、一 挙に三百五十五万票へと急落。共産党は前回の四百八十万票から七百三十万票 へと急増した。今回の総選挙でも共産四百六十万票、社民三百万票で、いまな共産党の後塵を拝している。

●辻本問題と北朝鮮での責任回避

 本来ならば、自社連立政権後の総選挙で大敗した時点で解党して支持者にお 詫びして出直すべきだった。にもかかわらず、党首を村山党首から土井再登板 でかわそうとした。国民への説明責任を欠いたやりかたは辻本問題、北朝鮮拉 致問題でも同じだった。「知らぬ存ぜぬ」で押し通そうとしたが、世論全体を 敵にまわす結果となった。辻本問題が発生する一年前、社民党内で「秘書給与 の流用」を警告する文書が出回った。明らかに書記局か秘書などの手になるも のだった。そのときに適切な修正申告などの手続きを行っていたら辻本問題な どあり得なかった。すでに秘書給与の流用で、自民党や民主党の現職議員が逮 捕され実刑判決を受けていた時期である。あきれた脇の甘さである。  かつて天安門事件が全世界を揺るがしたとき、当時の山口鶴男社会党書記長 は即座に「中国共産党との交流凍結」の方針を発表した。昨年、拉致問題を北 朝鮮が正式に認めた後も、土井社民党はぐずぐずとつきあいをつづけた。やっ と二ヶ月後、世論の批判がかわせなくなってから「交流凍結」を打ち出した が、すでに遅しである。土井党首の責任を求める議員は遠ざけられ、ついには 離党する始末である。  地方組織はどうか。各ブロックの長に支給される年間八百万円の交付金が足 かせとなって、中央には反抗できなくなり、まともな議論さえしなくなった。 二度にわたる選挙大敗や北鮮問題でも一人として地方組織から土井党首の責任 を追及をする声は出なかったという。そのうえ社会党時代の悪しき与党意識が わざわいして、地方首長選挙で自、社、公、民、連合という既得権益擁護の仕 組みのなかに埋没している。長野県の田中康夫知事の改革路線に反対する自民 や民主系議員と同調した姿勢に象徴される。総選挙後の高知県知事、市長選で も橋本打倒を掲げた自民党候補の推薦をいち早く決めた。過去十年間の村山連 立政権以降の社民党の身すぎ世すぎの総括、清算、解党のみが新しく立ち直る きっかけをつくるだろうが、望みは薄い。  七十五年前、はじめて男性に普通選挙権が認められた時、無産運動各派はま さに決死の選挙戦だった。当時の新聞は「官憲の弾圧に対抗して血眼の無産各 派、一網打尽の検挙説にどの本部も空になる」の見出しで「無産党の潜在力が 存分強く当選者予想も十名以上になるので官憲の弾圧が当選圏に有る無産党候 補者に対してますます加わりつつある。各党本部はもちろん各候補者とも決死 的様相をなして戦っている。本部員の目は血走り顔面は蒼白となり両三日より 不眠不休の有様である」(時事朝刊昭和三年二月二十日)と報じている。先達 が決死の覚悟で築いた歴史は社民党の終焉によって幕を閉じようとしている。 社民党指導部の議員たちは連立のおかげで、みな大臣など与党の恩恵にあずか り、ついには勲一等まで授与され晩年安泰である。まさに「一将功成って万骨 枯る」である。泉下の先達たちの慟哭が聞こえるが、「勲一等」の耳には届く まい。(野坂氏はいま郷里鳥取に、勲一等建設大臣の碑を建立しているそうで す) 

  (注)中曽根康弘氏は次のように言う「社会党の大転換を歓迎するが、ドイツ の場合はゴーデスベルク党大会で、新しい綱領を正式に決定して、国民に公表 した。社会党の場合にはそういう手続きをしないで、突如として政権をとっ て、国民に無断で勝手に憲法問題や安保問題の考えを変えてしまった。その怒 りが選挙に出て社会党はひどい目に遭った。つまり民主主義というのは手続き なんです。国民との契約を誠実に実行していく問題で、大失敗した」。