【オルタの視点】

「68年5月」から50年――「あの時代」はどのように記憶されてきたか

福岡 愛子

 フランスでは「68年5月」という年月表記だけで様々な記憶と解釈を呼び、日本では「五月革命」などと称された50年前の出来事を、小中陽太郎氏が「オルタ」第130号(2014.10.20)で、当時の写真もまじえて語っておられる。拙訳書『1968 パリに吹いた「東風」』について書かれたものだが、それは、書評の枠を超えた当事者証言であり、氏ならではの交友録でもあった。
 今月、季刊『ピープルズ・プラン』80号が「再考「1968」」特集号として発行される。私も寄稿を求められて、この50年をふり返る機会を得た。記憶と歴史に関わる領域で、過去の多様な運動についてそれらが失敗に終わったことを大前提として、同時代の人々の意味づけを無視した「客観的」な研究が進められていることには疑問を感じる。そのような傾向自体を問題化しながら、60年代の運動が「政治」の意味そのものを変えた効果が現在にまで及んでいることを指摘し、「1968」とその後の言説の変容をあらためて「政治化」してみたい。

「68年5月」――フランスでの出来事

 1968年5月1日、フランスで長年禁じられていたメーデーのデモが、フランス共産党と労働総同盟の呼びかけにより数万の規模で行われた。かのバスティーユ広場まで行進したそのデモのなかに、ヴェトナム民族解放戦線の旗もあったという。
 その年の3月には、パリのマンハッタン銀行にプラスチック爆弾が仕掛けられる事件があり、ヴェトナム反戦委員会の学生メンバーが逮捕されていた。それに抗議する学生運動は、パリ大学ナンテール校の管理棟占拠に及び、大学当局の高圧的な措置によってナンテール校が閉鎖されると、ソルボンヌでも抗議集会が始まった。
 5月3日、カルチエ・ラタンで学生と警官隊の激しい衝突が起こり、学生組織のリーダーら600人近くが逮捕された。急遽行われた裁判でデモ参加者に厳しい判決が下ると、教職員組合も学生との連帯を表明した。抗議行動が激化するなか、警官隊の催涙弾と棍棒に対してデモ参加者は投石で応じ、逮捕者が続出した。運動は地方にも波及し、サルトルらの知識人も学生への支持を明言して、各大学で活発な討論が展開された。公共交通などから始まった労働組合のストはゼネストに発展し、自主管理の動きも広まった。
 5月10日以来、市内各所にバリケードが築かれ、機動隊が突入しては乱闘が続いた。やがて政府と大手労働組合との間で、賃金や労働時間や福利厚生の改善が取り決められていった。
 5月30日、パリだけでなく各地に陸軍機甲部隊が配置され、ドゴール大統領はラジオ放送で辞任を拒否する一方、国民議会の解散を告げて「全体主義的共産主義の危険」を訴えた。6月に入ってもデモは続いたが、地下鉄や銀行は徐々に再開され、国民議会選挙の結果は、ドゴール派の大勝利に終わった。

日本の「1968」

 この時期、パリはまたヴェトナム和平予備会談の会場ともなっていた。その取材に集まった報道陣によって、マヒ状態に陥ったパリの模様も世界に伝えられた。素朴な問題意識から始まった学生たちの運動は、「5月」後も各国で過激な政治運動となった。
 日本では1968年の1月、東大医学部自治会が無期限ストに突入し、4月には日大全共闘が結成された。一年を通して、成田空港反対やヴェトナム反戦の運動が広がり、学園や街頭への機動隊導入が大規模になっていった。「パリの五月革命」やアメリカの「ステューデント・パワー」をめぐるリアルタイムの情報は、中国の紅衛兵運動の余波とともに、日本の学生運動の高揚に拍車をかけた。
 60年代当時のフランスや日本で、扇情的な大衆ジャーナリズムの世界においても、学生運動に対する否定的な見方は絶えなかった。『フィガロ』に現場報告的な記事を書き続けたレイモン・アロンは、学生の現状に理解を示し社会変革の必要を認めながらも、5月蜂起のアナキズムを嫌い知識人の左翼情緒主義を批判した。日本の主要メディアは、学生運動を「紛争」「乱闘」「ゲバ」といった見出しのもとに報じがちだった。
 その後50年の間に「あの時代」の記憶は大きく変容し、当事者たちの自嘲的な、あるいは懐古的な語りが漏れ聞こえる反面、それを許さない風潮もうかがわれる。

その後の「記憶」の変容

 1970年代のフランスでは、政治的平常が戻るにつれ、元左派ら当事者たちの幻滅がシニカルな解釈となって現れた。「68年5月」は、ヒエラルキーに挑むことによりかえって組織文化の一層の合理化と効率化を進めただけだった、というものだ。
 1980年代特有のナルシスト的個人主義の視点から、その源を68年にまで遡り、学生反乱も要は個人主義の運動だった、とみなされたこともあった。そのことを嘆く立場から、あの運動は端的な消費社会の表れに過ぎず、虚ろな「ライフスタイルの選択」を広げる準備をしただけだった、とも言われた。
 同様に日本でも近年、あの時代の若者たちの叛乱は「高度経済成長に対する集団摩擦反応」であり大衆消費社会への適応だった、と結論づける「1968」論が登場した。それに対して全共闘世代からは反発が続出し、また佐倉の国立歴史民俗博物館では昨年「無数の問いの噴出の時代」としての「1968年」展を初めて開催した。

「60年代」の記憶の政治利用

 洋の東西を問わず見逃せないのは、あの時代の記憶の政治利用である。
 アメリカでは、都市暴動・ドラッグ・離婚率上昇・権威失墜など、社会の不安要素の根源を60年代に求め、アメリカ史上まれにみる惨憺たる十年だった、とみなすことが新保守主義の常套句となった。2008年の大統領選で反オバマ陣営は、オバマ候補が元60年代ラディカル派の人物とつき合いがあったことをネガティヴ・キャンペーンに利用した。
 2007年のフランス大統領選では、「68年5月」がフランスの道徳的無政府状態の始まりだったと決めつけるサルコジに対し、社会党候補は、5月の反乱現場のひとつシャルルティ・スタジアムで、キャンペーン最終日の集会を盛り上げた。日本の場合は、たとえば2015年の安全保障関連法案に反対する学生たちの行動について、第二次安倍政権の菅義偉官房長官が、自分も「全共闘世代」だったと言いつつ、あの頃はこんなもんじゃなかったなどと現在の運動を矮小化するような保守言論のなかで、「60年代」の意味が横領された。
 そうした傾向に対抗して、あの時代を包括的に再評価する試みが、研究と運動の双方から始まっている。それらは、あの時代らしさそのものを否定する現時点の認識の制約を超えて、あえて現状への問題意識を反映した取り組みとなっている。先述の歴博による企画展示「1968年」は、当時の活動家の継続的な問い直しの努力と、若手研究者による運動論・運動史上の成果にもとづいて、かつて噴出した根源的な問いが、今なお有効であることを実感させる内容だった。

「1968」再評価による現在への問い

 冒頭にあげた『1968 パリに吹いた「東風」』の著者リチャード・ウォーリンは、60年代の重大な遺産のひとつが「文化の政治」という概念なのだと言う。あれ以降、政治とは選挙や議会だけに限られたものではなくなった。自己変革の行動と自分らしさの探究こそが政治的意味をもつようになったのだ。「私」という個人が、日常生活に張り巡らされたミクロの権力に抵抗する闘いは、世界を変えようとしてマクロな権力を剥き出しにさせた闘いから学んだ歴史的教訓だともいえる。
 ウォーリンはまた、フランスの左翼急進主義がテロに行きつかなかったことに注目し、安易な革命願望を脱して、マイノリティ擁護の運動や日常生活の革命へと進んだ点を評価する。
 ドイツやイタリアと同様に、ファシズムの過去をもつ日本においては、革命を標榜する集団ほど男権的軍事的傾向に陥った。そしてポピュリズムが顕著になった現在、支持基盤も政策理念も脆弱ながらやたら強気な指導者のもとで、横暴な政治が押し進められていることに対して、日本をはじめ、かつて学生運動が過激化した国こそ、「非暴力平和主義」にこだわっているように思われる。それが教条主義的なお題目に終わらないためにも、一人一人の創造的な参加のあり方がますます重要になっている。

                                                                   (社会学者・翻訳家)

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