■【北から南から】

  米国 マジソン便り                   石田 奈加子
   『マヂソンにはどんな人がすんでいますか。』
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 マヂソンには大きな総合大学がありますので、世界各国から大学生、大学院生、
研究者、教授等が集まります。大学のキャンパスの一部に大学院生と研究者、
教授の家族用の住宅群があり、そこに住んでいますと各国からの老若男女に日々
出会い、いろんな人、いろんな風習があるということが少しも不思議に思われま
せん。この住宅街の区域の小学校はもう国際連合の会議場そのものです。

 研究者、教授住宅を数年の後に出て市の西方の住宅街に家を買って移りました。
1976年のことです。所謂Suburb(郊外)というほどの町外れでなく市内で
すがご近所はみんな白人のアメリカ人家族ばかりでうちだけがまあ外国人・有色
人種でした。4年生の息子は国際連合的小学校から地域の学校にうつりましたが、
全校でうちの息子のほかにはもう一人しか有色の生徒が居ないのにはちょっと
びっくりして、心配になったものです。

 2・3年ほどして右隣の家族が家を売りあとにカルカッタからのインド人の家
族(大学の統計学の先生)が入りました。道の向こう側の人がもうこれ以上外国
人(有色人)に移ってこられては困るということを言ったとうちの主人(パキス
タン出身)が聞いてきました。

 現在右隣は四代目のインド家族(チェナイ、旧マドラス出身)、左隣は奥さん
が台湾からの女性、裏隣のご主人の弟さんのお嫁さんが韓国の女性、お向かいの
娘さんのご亭主はインドネシアから。こういった変化は15年ぐらい前から顕著
になったと思います。それでふと気が付くのはこの辺の有色人種はみんなアジア
系で黒人家庭が一つもないということです。

 今マヂソンの人口の6.2%がアジア系、6.6%が黒人だそうです。全国的
には黒人人口の比率は13%ぐらいですからここでは黒人はずっと少ないわけで
すし大都会のように日常黒人・人種問題が大きく表面に出るとか人々の意識に上
るということはあまりないのですが、貧困・犯罪・麻薬問題に関連して潜在的に
市の一番重要な課題の一つであるようです。

 30年ほど前から市の開発が西と南の方向へ進むと同時に黒人人口のシカゴや
ミルオーキーからの移動が増えたのですが、ゲットーとは言わないまでも市の端
のほうに集中してしまう。子供たちは長時間スクールバスに乗って自宅から遠く
離れた市内の学校に送られるということになる。黒人・貧困人口の市民融和を図
るためにくりかえし、くりかえし住居地域の平均化がスローガンになるのですが
さっぱり実現しない。

 現マヂソン市長が2003年に初当選してからinclusionary zoning(高所得
者と低所得者が隣り合わせで住める住宅地域)をいくつか開発するのに市が予算
を出して協力するといっていたのですが現在そのアイデアそのものが無効になっ
たようです。市の予算には低所得者が家なりアパートなりを借りられるように補
助金を出す基金は少しあるのですが。

 マヂソンは市立の学校の優秀なのが誇りなのですがどちらかというとエリート
教育に偏する傾向があります。同じ少数民でありながら総じてアジア系は学校の
出来が良くて大抵成績の上部を占めてしまう。一方黒人組みは、殊に男の子はほ
ぼ半数が高校卒業前に脱落する。昨今全国的にアメリカの義務教育改革議論がか
まびすしく、Charter School (公立自治学校とでもいいましょうか)をつくる
のが有効な解決策と言う声が優勢です。

 マヂソンではUrban League(都市連盟黒人の組織)の会長が黒人子弟の教育を主
目的に男生徒ばかりのCharter Schoolを設立するのに奔走しています。現存の教
育システムでは色々な面で疎外されている黒人子弟を教育することが出来ない。
殊に特訓のような集中教育を目指すには教組の団体交渉が障害になるので教組に
属さない先生を雇う。本来なら私立学校になるところをCharter Schoolの波に
乗って公立としてやる。いまだに陰に陽に隔離されている黒人社会の必要はよく
分かりますが、近頃の公共機関のプライべタイゼイションとあいまって公私の区
別がなし崩しにあいまいにされていくのには複雑な思いになります。

 ヒスパニックの人口は4%。社会問題としては黒人社会に似たようなこと(貧
困・犯罪・麻薬)ですが、共同体としてはもっと統一していて市政にも積極的に
参加できているようです。数年前に市立小学校の一つが英語・スペイン語のバイ
リンガル教育になり、この一月(2011年春学期)から市立中学の一つが二か国
語のイマージョン教育を始めました。

 1970年代の後半にヴェトナム戦争終結の一環としてアメリカ軍を補佐して
避難民になった原住民を米国本国へ受け入れる必要がありました。ウィスコンシ
ンはラオスのモン族をうけいれることになり北部の農業地域にモンのコミュニテ
イが出来ました。周辺の白人社会と人種風習の違いで時々軋轢があることが報道
されます。マヂソンには極少数だけだと思いますが話題になるのはやはりうまく
いかない時だけ。

 近年では大学の法科の教授が授業中モン族の男性を侮辱したとかが問題にな
り、市立小学校の名前をラオス軍の有名な将軍の名にすることをマヂソン市の教
育委員会が提唱したところその将軍がラオス現政権の転覆に加担して米連邦政府
から訴追されていることが分かり取りやめになったいきさつがあります。

 余談になりますが昨十月に大学であった国際会議に出席したローマからの女性
が「マヂソンはWhite Town(白人の町)だ。」と感嘆したことを付け加えておきま
す。 
            (筆者はアメリカ・ウイスコン州・マヂソン在住)

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