『原発を並べて自衛戦争は出来ない』(小倉志郎著)

仲井 富


◆はじめに

 2011年10月に風呂場で急死した、元公害研の『環境破壊』誌編集長だった奥澤喜久栄さんの遺品が、奥澤さんの友人だったKさんから届けられた。遺品と言っても、書きかけの俳句や猫のことなど、気がかりな事とか、残された社会党、公害研時代の写真などである。そのなかに十数ページの小冊子が一冊あった。本の名は『原発を並べて自衛戦争はできない』。原発の技術者の書いたものである。名前は山田太郎となっているが本名ではなかろう。この冊子は福島原発事故が起こる数年前に書かれたものだが、今日的な状況と併せ考えていっそう説得力がある。
 私はインターネットで検索して、山田太郎なる人物の所在を確かめた。山田太郎氏はペンネームであり、本人は福島第一原発の建設に際し、原子炉系の機器のエンジニアリング(技術取り纏め)に携わった元技術者・小倉志郎氏であることが分かった。電話番号を探して著者に直接話を聞いた。そして当時私のブログ「老人はゆく」に転載することを了承していただいた。だがブログではその骨子の身を紹介しただけで不十分だった。今回、オルタで取りあげていただくことになったので、以下にその要約を紹介する。

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 小倉氏の立論は一言で言えば、「日本の原発は平和的な国際環境を前提にして立地された。日本を攻撃する国ができれば、その前提は崩れる。地震国に55基もの原発を立地している日本の原発は、軍事的な攻撃に対処できない」というものだ。小倉氏は言う。
 憲法を改正すべきという人々は日本をミサイルで攻撃するような北朝鮮のような国があるから、正規の自衛軍を持つべきだと、それには、憲法9条を書き換えてそう明記すべきだという。北朝鮮ばかりでなく、どの外国であれ、あるいはアルカイダなどの国籍不明の武装勢力であれ、ひとたび武器を使用した紛争に日本が巻き込まれたら最後、原発が攻撃される可能性を覚悟せざるを得ない。そういう軍事的な攻撃に対処できるようには原発はつくられておらず、まったく防御する手段はない。そして次のことを覚えておいて、できればあなた自身の言葉で、身近な人に伝えて下さい、と以下の二点をのべている。

・A 原発に対する武力攻撃には、軍事力などでは護れないこと。したがって、日本の海岸に並んだ原発は、仮想敵(国)が引き金を握った核兵器であること。
・B 一度原発が武力攻撃を受けたら、日本の土地は永久に人が住めない土地になり、再び人が住めるように戻る可能性が無いこと。

 この原稿は雑誌「リプレーザ」(2007年、夏号 第3号)に掲載された『原発を並べて自衛戦争はできない』という論文である。この論文が書かれたのは2007年であり、当時盛んに論議されていた北朝鮮からのミサイルが発射されるケースなどの有事を想定した場合に日本の原発は「武力攻撃(戦争)は設計思想に入っていない」ことを、原発技術者として、明らかにしたものである。しかしその所論は2011年3月の福島第一原発事故によって脚光を浴びた。多くの方々が小倉論文を、ネット上で学習し拡散し、原発のテロ攻撃の可能性を声を大にして叫んでいる。今号から小倉氏の著書を二回に分けて紹介する。(原著要約は仲井富・公害問題研究会代表)

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小倉志郎著 『原発を並べて自衛戦争は出来ない』(上)
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 この頃、新聞やテレビをはじめとするマスメディアでは、「憲法改正すべきか否か」あるいは「第九条は今のままでいいか否か」などという議論でにぎやかである。実は、このような憲法論議に、私たちの国に原子力発電所(以下、原発)があることが大いに関係しているのだが、その点に触れた議論をほとんど聞いた記憶がない。そこで、原発があるとどういう問題があるのか、それが憲法論議とどうかかわってくるのか、私の持っているイメージを、できるかぎりわかりやすく書いてみたい。

 まず、日本の原発は、どれくらい、どこにあるかというと、電気事業連合会のHPによれば、商業用として運転中のものが五五基(二〇〇七年五月一一日現在)ある。その内訳は、日本海側に三〇基、太平洋側に二〇基、瀬戸内海沿岸に三基、東シナ海側に二基である。一九九五年にナトリウム漏れ事故を起こした「もんじゅ」発電所は、商業用ではないので、含まれていないが、日本海側にある。原発については、安全性が確保されているかいないかが常に話題になる。推進側は「安全だ」と主張し、反対側は「危険だ」と正反対の意見をぶつけ合い、訴訟まで起きている。それらの訴えの内容は、さまざまであるが、それはさておき、これらの意見のぶつかり合いの焦点は、常に「重大な事故が起きるかどうか」ということについてである。
 そして、それを検討する前提は「世の中が平和である」ことである。大地震が来ても大丈夫か。あるいは、重要な機器が故障を起こしても大丈夫か、などということを平和であることを当然のこととして議論している。しかも、ほとんどの議論では、原子炉の炉心が破壊されないか、とか、原子炉と繋がるシステムから放射能が原発の外部に洩れないか、と言うことが問題とされている。たしかに、そのような議論をすることは、大切であろうが、もし、その当然としている平和という前提条件が無くなってしまう事態になったら、つまり、戦争(最近は、これを「有事」と言うらしい)になったら、原発にはどんな問題が生じてくるのだろうか。この私の文章では、この問題を論じることを第一の目標としたい。

◆◆ 原発の特徴

 ところで、それを論じ、理解していただくためには、原発の原理、構造や仕組みについて、ある程度の基礎的なことを知っておいてもらう必要がある。議論を先に進めるのに最底限必要な、基礎的な知識の中のほんの一部のことにのみ触れておきたい。まずは、火力発電所と原発との違いである。水を加熱し、蒸気を発生させて、その蒸気でタービン(羽根車)を回し、タービンと結合した発電機を回し電気を起こすという発電については、両方とも同じ原理なのだが、違うのは、水を加熱するための熱源である。火力では、石油、石炭、あるいは、天然ガスなどの、いわゆる化石燃料を燃やして熱を発生させて、この熱で水を加熱する。それに対して、原発では、ウラニウム(以下、ウラン)を主成分とする核燃料を原子炉に入れて、核分裂連鎖反応(以下、核反応)を起こさせ、その際に発生する熱を使って水を加熱する。
 もう少し詳しく述べると核燃料は、ウラン235とウラン238と言う同位元素の混じったもので、核反応を起こすのは、前者ウラン235の方であり、後者ウラン238は、原子炉内でウラン235の核反応にともない発生する中性子を吸収してプルトニウムに変化する。このプルトニウムこそ、原子爆弾の材料になりうる物質であり、且つ、半減期が二万四〇〇〇年と言う放射能を持つ、世界でもっとも危険で、取扱いのむつかしい物質の一つなのである。核燃料に含まれるウラン235が熱を発生させるのに必要な核反応とは、どういう現象かというと、ウラン235の原子核が、中性子を吸収して、より小さな原子核に割れること、それが次々に連鎖的に起きる現象である。これは、化石燃料が燃えるのとはまったく違う現象である。同じように燃料という名前がついていても、燃え方の中味がまったく違うことを忘れては議論が進まない。

 化石燃料が燃えると主成分の炭素は炭酸ガスに、水素は水蒸気に、不純物は灰や大気汚染の素になるガス(例えば、亜硫酸ガスなど)になる。核燃料が核反応を起こすとウラン235の原子核は、ウランより小さく、ほとんどが放射能を持つ別の物質の原子核になり、ウラン238の一部は、ウランより重い原子核で放射能のある物質・プルトニウムになる。
 即ち、核反応を起こすと、実に多種多様な放射能を持つ物質が生まれる。化石燃料のように灰を残して、主成分がガスとなって、大気中に放出されるのとは違い、最初に原子炉に入れた核燃料の中に、核燃料の主成分が変化してできた多種類の放射性物質が溜まるのである。この溜まった放射性物質の量は、核反応が十分起きた核燃料の中ほど多い。

◆◆ 原発で最も危険なのは原子炉ではなく使用済み核燃料

 専門外の方なら、ここまで読んだだけで、いいかげんうんざりされると思うが、ここが急所なので我慢をしてほしい。つまり、原発で最も危険なのは、原子炉そのものではなく、核反応が十分に起きた核燃料、特に、原子炉内で核反応をさせた使用済核燃料なのである。原子炉自体も、核暴走事故(例:チェルノブイリ事故。一九八六年四月二六日、ウクライナ共和国─当時はソビエト連邦ウクライナ共和国─のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた。)や原子炉の冷却不足による炉心溶融(例:スリーマイルアイランド原発事故。以下、TMI事故。一九七九年三月二八日、アメリカのペンシルバニア州スリーマイルアイランド(TMI)原発の二号機で発生した。)などの大事故を起こす危険性はあるが、原子炉の外部に取り出された使用済核燃料だけでも、それが破壊されて、その中に溜まった膨大な放射性物質が、万一環境に放出された場合の危険性は言葉で表現することも至難なくらい大きい。
 上記のような事実があるにもかかわらず、これまでの原発の安全性論議が、原子炉自体、あるいは、その中心部の炉心の安全性に集中してきたのは、実におかしい話である。多分、原発の運転中、核反応が起きている箇所が原子炉だけであり、日本に原発が導入される時期(一九六〇年代)に、もっとも難しい技術が、核反応を安全に制御することであったことから、原子炉本体にかかわる技術がもっとも注目を浴びていた頃の思考習慣によるのではないかと私は推測している。ここでは、原子炉の危険性と共に、使用済核燃料の危険性についても視野に入れながら、平和という前提条件が崩れた場合、原発にどういう問題があるかを考えて行きたい。

◆◆ 平和の下での原発の安全性

 まずは、平和であるという前提の下での原発の安全性について、発電所が市民向けにつくったPR資料などでどのような説明をしているか見てみよう。そこでは、「放射性物質を封じ込める5つの壁」という表現が使われている。これは、次のようなことを意味している。

第一の壁:ウランは酸化ウランの粉末を焼き固めたペレットの形になっているから、それが分裂した後の放射性物質に変わっても、そのペレットの中に封じ込められる。
第二の壁:ペレットは、金属の管(以下、燃料被覆管。一般にジルコニウムという金属製の管)の中に詰められているので、この管が破れないかぎり、放射性物質は封じ込められる。
第三の壁:核燃料は原子炉圧力容器の中にあるので、この容器が破れないかぎり、放射性物質は封じ込められる。
第四の壁:原子炉は原子炉格納容器の中に置かれているので、この格納容器が破れないかぎり、放射性物質は封じ込められる。
第五の壁:原子炉格納容器は、原子炉建屋の中に置かれているので、この建屋が破れないかぎり、放射性物質は封じ込められる。

 これを見て、原発の安全性の要は「放射性物質を確実に封じ込める」ことと発電所の管理者が考えていることがわかる。それにしては、原子炉から取り出した使用済核燃料については何も触れていないのは不可思議である。これについては後ほど触れたい。

 平和時の原発の安全性については、その他、次のような条件に対して、設計的に対処している。

1.地震に対する安全性:地震に耐える強度や機能を持たせるような設計をする(耐震設計)。
2.単一故障に対する安全性:例えば、原子炉と圧力的に繋がっている重要な配管が一ヶ所破断したと仮定して、原子炉を安全に保てるようにシステムを設計する。結果として、普段は待機していて、非常事態にのみ使うたくさんの補助のシステム(工学的安全システム)を付属設備として備えることになる。
3.過渡現象に対する安全性:例えば、発電機の負荷が急に無くなった場合には原子炉を急速にストップさせる必要があるが、そのような場合に原子炉を安全に保てるようにシステムを設計する。このためにも、2.に準ずる補助システムを備えている。
4.発電所を運転するのに必要な電源の喪失に対する安全性:複雑な発電システムを運転するために沢山の機械や計測制御系統が電気で動いているが、その電源が切れても、原子炉の安全が保てるように、バックアップとして非常用電源設備を設ける。特に、2.と3.の安全にかかわるシステムの電源は全て非常用電源によっている。

◆◆ 武力攻撃は設計条件に入っていない

 いよいよ、平和という条件が崩れた時のことを考えたい。まず、一番先に知っておいてほしいことは、原発の設計条件に、武力攻撃を受けても安全でなければならない、などということは入っていないということである。先に記した現在ある商業用原発五五基は、いかに発電コストを小さくできるかという経済性を最優先で設計されているから、武力攻撃を受けた場合、どうなるかは少なくとも設計上はわかっていないのである。従って、日本に対する仮想敵国から武力攻撃がありうると考えるのであれば、そのような場合に、原発はどうなるかは、今から考えておかねばならないのは当然であろう。とはいえ、現在、私たちの前に、仮想敵国の武力攻撃にはどんな種類・規模のものがあるのかなどというメニューが揃っている訳ではないし、今後、それが揃う保証もない。なぜなら、そもそも、武力攻撃の方法などは、国家の軍事機密であって公表などされるわけがないからである。そういう事情から、以下の検討は、武力攻撃のすべての場合についてではなく、私が思いつくことのみを前提に論じることになる。

◆◆ 武力攻撃下の原子炉の安全性

 原子炉が安全か否かの評価は、一般には、第二の壁、即ち、核燃料のペレットを詰めている燃料被覆管が破れないかどうかで行っている。原発が武力攻撃を受けた時にもそのような状態が保てるかが問題である。ここで、また、火力発電所と原発の決定的な相違点に触れねばならない。火力発電所の場合、武力攻撃によって、発電できなくなったとしたら、ボイラーへの燃料の供給を止めさえすれば、発電所の運転は無事に止められる(但し、重油タンクや天然ガス貯蔵タンクなどを攻撃された場合は別である)が、原発の場合、原子炉内にある核燃料は、核反応が止まっても、核反応によって新たにできた放射性物質が、放射線を出すとともに、発熱もするので、その発生する熱を水で冷却してやらねば、核燃料の温度は上がり続け、最後には燃料被覆管が溶けて破れてしまうのである。さらに温度が上昇すれば、管の破れに止まらず核燃料自体が溶け炉心が崩壊するという事態になる(その実例がTMI原発事故)。
 TMI事故では、運良く事態がそこまでであったが、もし、崩壊した炉心が原子炉内に残る水と反応して、水蒸気爆発をすれば、原子炉の破裂という事態にもなりかねなかった。原子炉を内部に納めている原子炉格納容器は、こんな過酷な条件で設計などしていないから、そんな想定外の状況では、原子炉格納容器も破損する可能性がある。その外側の原子炉建屋にいたっては、実際は、気密はそれほど厳密に保たれてはいなくて、原発の運転中は、空調設備の運転制御によって、建屋内部の気圧をわずかに大気圧より下げ、万一内部に放射性の物質が拡散しても、建屋の外部には洩れないように工夫しているが、空調設備の電源が、武力攻撃の際に維持できる保証はない。

 ところで、肝心の原子炉が停止の後に行わねばならない冷却は、武力攻撃を受けた場合にできるのだろうか。冷却には、原子炉内の水の循環とその原子炉内の水から熱を海に運び出す、補機冷却システムの働きが必要である。例えば、海水を取り入れ、原子炉水から熱交換器を介して、熱を受け取り、海に戻すには、海水用ポンプ、配管、熱交換器、電動機、非常用電源(多くはディーゼル発電機)、ディーゼルエンジン用燃料(多くは軽油)タンクなどが必要であり、それらの多くは、原子炉建屋の外の補機建屋、あるいは、なんと屋外にむき出しで置かれているものも多いのである。屋外にあるこれらの機器は、おそらく、小さな通常爆弾でほとんどが破壊されるか、機能停止にいたるであろうし、補機建屋などは、機器を風雨から護る目的で、武力攻撃に対する強度など持っていない。
 こういう現状を見たら、武力攻撃を受けたら、ほぼ確実に原発の原子炉の冷却ができなくなると考えるべきであろう。すなわち、原子炉の安全が保てないということである。原子炉が安全に保てない事態が発生するなどということは、もともと設計上考えていないのだから、それから先、どういう事態に発展するかは未知の世界である。

 私の想像では、大量の放射能が屋外に放出される可能性があると発電所管理者が認識すれば、公的な機関を通じて、地域住民に避難勧告、あるいは、避難命令が出され、地域の交通機関は大混乱におちいるに違いない。戦時ではなかったが、チェルノブイリ事故時には一〇万人と言われる人口の街が一挙に無人になったというその避難の様子はどうだったのか、私は見ていない。先日、見た映画「見えない雲」(グレゴール・シュニッツラー監督作品)に原発事故で避難する市民の混乱の様子を示す場面があったが、これも平和な時であった。これが、「有事」であったら、さらに混乱はひどいものになるだろう。鉄道は、停電のためにストップし、道路はいたるところで閉鎖され、実際には、市民が避難することなど不可能に近いのではなかろうが、誰にも想像がつかないと思う。(以下次号)

※初出:季刊誌『リプレーザ・No.3 2007年夏号』掲載

 (筆者は公害問題研究会代表)


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