【書評】

『官僚階級論 霞が関といかに闘うか』

佐藤 優/著  モナド新書

三上 治


<テント日誌11月25日(水) 経産省前テントひろば1537日>
さよなら、いや、ありがとう原節子さん…

 毎朝、テントからはその日の様子の知らせが来る。それを日課のようにみているのだが、変わらぬ日々の中、年末がいつの間にか近くなったという思いもする。どこか心身がせかされる気分もするのだ。特別にやらねばならないことも、やりたいこともないのだけれど、体の方がそういうリズムになっているのだろう/Users/kimiosan/Desktop/07【自由へのひろば】古田武彦追悼_室伏U漢字2.txtか。朝、早く目がさめたので、新聞を見た。原節子さんが亡くなった記事が出ていた。寝床に潜り込みながら、彼女の映画のことを思った。彼女の出ていた作品を全部観たというわけではないが、小津安二郎監督での紀子三部作(『晩春』・『麦秋』・『東京物語』)は何度も観た。山口淑子(李香蘭)とともに好きな女優であり、彼女について書かれた本もよく読んだ。小津の日記には「このころしきりに原節子との結婚の噂がある」と記されているが本当はどうだったのだろうか。二人の間に恋愛感情のようなものがあったのだろうと推察できそうだが、大正ロマンを地で行ったようにも思える。そう僕らに思わせるものを残してくれたのが素晴らしい。

 僕は前に佐藤優の『霞が関といかに闘うか—官僚階級論』に何か励ましのようなものを受けたと書いた(テント日誌11月21日)。それは経産省との闘いに壁を感じていて、その闘いの突破口というか、ヒントのようなものを欲しているからであるが、テントから見上げる経産省が寒々とした景色に没して行く中で自問を繰り返してきたことへの答えのように思えたのだ。経産省や財務省、あるいは農林省などの霞が関を見ても、あるいはその周辺を歩いても、ここが権力の中枢であるとはなかなか思えない。そういう実感はわかない。これはこれらの機関が政府(行政)の執行組織であり、国民的な代行機関であるということが無意識も含めて刷り込まれているというか、そういう意識が僕らに沁み込んでいるからだ。ここが政治的決定をなす、権力の中枢機関なんて思えないのである。権力という意味で、国家意志を決定するのは永田町というか国会周辺であるという意識が強いのである。日本の官僚組織の権力的性格に気が付き、そのことが意識の俎上に登ったことはあるが、例えば、民主党政権が誕生したころ、現在では忘れ去られている状態にある。

 ここ何年間の間に原発の再稼働と存続が決定され、エネルギー政策が原発推進の方に逆行して行く動きを見ていると、やはり官僚の動きを考えざるをえない。政府がそこに関与していないとはいえない。しかし、実質は官僚が動かしていると見なければならない。それは沖縄の辺野古新基地建設についてもいえることだ。外務省や防衛省が背後で大きな動きをしており、それを安倍政権は一体になって進めているのである。原発政策の場合はそれがより明瞭ではないか。この間の原発再稼働と原発存続の推進は、政府が強力に推し進めたというよりは、経産省の官僚たちがそれをしたのである。政府は民主党政権から安倍政権になって原発再稼働や原発存続のエネルギー政策を明瞭にしてきてはいる。それは自民党の動きとして全面的なったとはいいがたい、不透明な中にある。こうした中で、原発再稼働と原発存続を強力に進めてきたのは経産省などの官僚である。

 いつの間にか原発の再稼働が決定され、原発の存続も政治的に決められ進行していることは、誰の目にもあきらかである。これは単に電力会社が原発を稼働させたということではない。国策として国家意志が働いたことは明瞭である。多くの国民の再稼働や原発存続反対の声を知りながらである。だが、この重大な政治的決定が、誰の目にも明瞭にならないということもあきらかである。誰が、どこで、どのように決めたのかは不明瞭なままに、この重大な政治的決定はなされたのである。この不明瞭なまま、いうなら、密室で国民の目の届かないところで決定されてきたことは、政治的な責任を曖昧にしたままことが進行していることと同義である。原発事故が起きても、その推進母体だった原子力ムラの官僚たちが、誰一人責任を取らなかっただけでなく、責任を取ろうともしなかったことに対応するといっていいのだ。仮に再稼働で事故が起きたにしてもその責任は問われないことが推察できる構造になっているのだ。政治的行為には政治的責任が随伴するものだが、その構造が予想されるような仕組みになっているのである。福島原発事故のあとの当事者たちの無責任な対応が問われ、日本の政治構造(権力構造)の無責任性が問題とされたが、これらも忘れ去られた状態であるのだ。何故、こうしたことが続くのか、その権力の構造を変えなければと、僕らは意識してきたがこれがなかなか困難な中にあるのは先に述べた通りである。

 この本は官僚という存在に、そして同時に日本の権力構造について明瞭な形を言うなら、理論的な形で示してくれた。官僚権力は国民が必要としてうみだした公的機関のようにある存在だと思い込まされているが、国民の外部にある存在であり、それは国民の収奪(税という形態で)の上に成り立ち、階級としてある存在であることが指摘されている。官僚が国家の肉体であり、機関であり、国家の実体をなす。これは誰もが知ることだが、この実態と本質がなんであるかは誰も明瞭にはしてこなかった。官僚は公僕という公的な代行存在であるという通念があるが、これはそうではないのだ。にもかかわらず、国民の意志に反する行為をするのだろうという疑問をもつだろうが、(たとえばこれだけ国民の意志が明瞭なのに、それに反する原発再稼働をやるのだろうかとか、辺野古新基地建設の推進をするのかなど)、これは彼らが、国民の外部にあって独自の論理と利害で動くからだということになる。封建時代というか、前近代であれば、官僚や国家が国民の外にあって国民を支配する階級的存在であることは明瞭だ。それが、現在では明瞭ではないのは、国家が国民(市民や地域住民)の基盤から発生する公共的なものを吸収することで、(国民は公的な世界を解体され、ばらばらな諸個人にされていることだが)公的な装いを強めているからだ。官僚は伝統的な自己の階級的利害に基づく行動をとるのだが、公共的な幻影でそれを隠すから、その実態が見えにくいのだ。

 この官僚の階級という形での抽出は興味深い。僕は権力分析として今後の糧となるものを提示されたと思うが、これは別にしてやはり関心は彼らとどう闘うかにある。ここまでくると、佐藤さんの提起やその参考にしたと思われる柄谷行人さんの考えと、僕は同じではない。それは当然のことだが、僕は官僚の階級的存在(伝統的存在)と公共性を吸収して行かざるを得ない内的矛盾に注目する。この矛盾への着目は僕らの運動が国民の公共性(共同性でもいいが)を形成し、それで官僚と対峙しつつ彼らの内部矛盾を広げて行くように展開することを志向する。政治的な意思表示は公的なものの表現であるが、それを陣地戦的—持久戦的方法で展開することを目ざすのである。これまでの運動形態の狭さや上からの党派性を解体し広げながらということになる。例えば、テントは原発についての公共的な考えを結集し、その陣地戦的—持久戦的展開である、その可視化された形態である。経産省側が土地の管理の公共性で対抗してきていることに、公共的意志の結成(いうなら一つの公共圏の形成)であり、本質的にはここで対峙しているのである。それがどんなに小さくてもである。

 かつて東大闘争のことをその一つは「大学を解放区」にすることであったと山本義隆は『私の1960年代』で述べていたが、これは明治以来の官僚の養成の場であり、官僚の公共性の吸収あるいは形成過程であった大学を国民の公的なものに変えようということだった。この闘いは象徴的には成った面があり、現在まで地下水脈のように続いていると言える。官僚は公共性を吸収し、それを拡大することを未来において不可避とする。そこにこそ、それが権力的な暴走とともに負う矛盾でもあるのだ。かつて吉本隆明が官僚制を開いていくと提言していたことにも通じるが、その矛盾に向かって陣地戦的—持久戦的闘いを挑むことが必要だと思う。こうした闘いはあらゆる領域で広がるはずである。

 (筆者は政治評論家)


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