書評

『小さな民のグローバル学――共生の思想と実践をもとめて』

元大学教員 勝俣 誠 2019年4月13日


 本書は脱開発の本である。
 第二次世界大戦後から今日まで、先進資本主義から発せられた「開発」というコトバほどは「南」の人々を翻弄した社会科学用語はない。
 第二次大戦の戦勝国の米国は、自国の裏庭として見なしてきた南米に、「進歩の同盟」といった開発援助を打ち出し、東南アジア対しては折からの冷戦下の東西対立の中で、西側からの援助として、やはり開発というコトバの「反共」対策を取った。
 欧州も然りでアフリカの広大な植民地を有していた英国とフランスはこれらの旧植民地に独立も特権的関係が維持できるよう開発協力政策を開始した。
 日本の場合は、アジア・太平洋戦争で侵略したアジア諸国に対する賠償として対外援助は開始されたが、いつの間にか政府開発援助(ODA)という用語が定着していった。

 この歴史的背景での「開発」という「南」の諸国、地域の介入形態の特徴は少なくとも3つある。
 第1は、国家・政府の開発行為の主体で住民・市民は、その中身、介入方法、事後評価といった開発の目的や運用において直接に参加はできないことである。いわば、遠い中央政府による住民・市民の関与なき公共事業の国際版である。
 第2は、この開発は経済成長を促進することを前提としていることである。確かに社会開発といった直接、生産力の拡大に資さない保険、医療、基礎教育、上下水道整備などの分野も援助対象となってきたが、基本的には、市場経済の主体たる企業のさらなる拡大のための港湾、道路、発電力ダムなどが重視されてきた。
 そして第3は、この開発は、対象地域の人々とはもっぱら援助される人々と定義され、開発の実施側は自らこそを手本とするという片務的介入を特徴としていることである。したがって、援助側は、自らの立場を疑うこともなく、援助対象地域の人々との関係はあげる側ともらう側の二分され、あげる側がもらう側に優位に立つことができる不平等関係が常である。
 この特徴から見える開発とは、国益のために国民の税金を投入し、いずれは、民間企業に利するという営みで、無私無欲の贈与とは程遠い。また、南と北の相互依存関係といわれることあっても、その力関係の不平等は問われることはない。

 この開発という何となくプラスのイメージを持つコトバが本書にはほとんど登場してこない。「南」の地域とその人々の記述のアプローチが全く違うのだ。

 私が気づいた違いをいくつか記してみよう。
 第一は、同じ「南」を対象としながら、目線はあくまでも「小さな民」である。筆者達は彼女たち彼らに寄り添い、日常世界で出会う困難や苦労の考察分析をしている点である。「小さな民」に対して、開発の視点からの効用や生産性の向上を求めていない。国際援助機関決める一日2ドル以下の生活する「貧困層」や「開発」の恩恵を裨益できる人口といった開発業界の用語が不在である。

 本書で登場する小さき人々はあらかじめ「開発」の視線からフレーミングされた対象ではなくて、何よりもまず、とにかく生きるために様々な営みの中で、食い扶持を求めて移動したり、その地に定住したりするごくフツーの無名のひとびとである。
 これらの小さき民の歩くのは舗装のない道だったり、揺れる船内だったり、ややぬるい砂地が広がるマングローブの森の中だったりする。権力とマネーが織りなすネットワークを泳ぎ回る人々が歩き回るコンビニの床のようなピカピカ光るフロアではない。人間が持って生まれた身体の機能をフルに動かして重たい荷物や、波や、土や、樹木を相手に徒手空拳で格闘する限りなくアナログ的生活を送っている。

 さらに気付いたのは、本書は経済発展史観から記述されていないことである。小さき民がその数によって社会・政治変動の主人公となるといった社会科学の教科書的シナリオをベースとした予言が不在であるということである。例えば、鶴見良行さんの作品もそうだった。彼を追悼した雑誌「思想の科学」特集「歩く学者たちで」(1995年九月号)で「豊かな地域はあっても、豊かな国なぞはない」というタイトルの拙文でわたくしは次のように彼のモノ・ゴトの見方を特徴づけたのを思い出す。「社会科学の中でも、時代性(歴史)と特定社会の様々な切り口(構造)をどう整理するかが常に論争されてきたが、鶴見さんの作品では、地域の食べ方、食べ物の調達法の中で、やや教条めいて言えば、統一的に把握されている。そこで人々が、とにかく食べて生きていること、これを正面からなるべく身近に考えよう、これが彼の原点であったと思う。初めから、社会科学の概念で無理に束ねない、くくらない。」

 実際、各章を読み進めながらもし本書の記述対象が賃金労働が圧倒的な日本のような先進資本主義国だったら、大都会のコンビニ人間的居直りをリアルに描写ができても、かくも豊かで、多様な小さき民の記述はできなかったのではないかと思った。また経済開発の遅れた、そしてそれゆえ追いつかなければならないという強迫概念で邁進するクニ造りと「国民」造りに立った近代国家像を下敷きにしてその成功と課題を記述するいわゆる「開発文学」ないし「国際協力文学」の手法とも本書は違った。

 むしろ「開発」の及ぼす小さき民の生業破壊が報告されている。それどころか、これらの「南」世界は「海や、森や、顔の見える市場(いちば)」などの天然色的世界をいまだ残し続ける「南の豊かさ」を読み手に示唆する。日本のような「北」の世界ではモノや記号があふれ、ヒトとヒトの関係はデジタル化され、未曽有の規模と速度でつながりながら、本書で登場する小さき民が織りなすような無限に人間臭い関係性は逆に希薄になっていく。わたくしはアフリカやアジアを変えようと「南」地域に赴いて、逆に「南」の人々からより生きる力をもらったり、今の日本社会に戻って違和感を感じるようになった何人かの友人を知っている。
 これは「南」という先進資本主義地域が生んだ現代史分析枠と集団的交渉単位(1955年のアジア・アフリカ会議ないしバンドン会議は、東西対立軸とは一定の距離を置く南北交渉の枠組みを立ち上げようとした試みだった)を否定して、「南」地域での貧困や暴力を後景に追いやるということではない。実際、本書でもその実態は報告・分析されている。

 小さき民の、小さき民による、小さき民のための世界しか、この地球に存在してならないのだ。私はあるときから村井さんが好きだったこのコトバを、自分が12年間通った(通わさせられた)ミッション・スクールでよく暗唱させられた「天にましますわれらの父よ」で始まる祈り「我が父」のなかの一節「われらに日用の糧を与え給え」とよくつなげて思うようになった。自然内の人間は自然に頼って生きていけるようこの世界に生まれてきた。この自然を壊さず、次の世代に残す限りにおいて人間は生きていける。自分はこのようにこのメッセ―ジを解釈すると、その人間像とは「小さな民」以外にいなくなる。

 かくして、この小さな民とは、ある世の中の仕組みの中で上昇に失敗した敗者でもなければ、時代の出世思想(経済成長のための働き方ないし働かせ改革)に追いついていけない要領の悪いダメ人間のことではない。むしろ世俗的富や権力を支配と被支配の関係に立脚する秩序体制を作り上げようとする人びとに対する「無限に美しい人びと」のことではないかと思うようになったのである。

 大きくなり過ぎた社会の仕組みを小さき民がコントロールして、共生できる規模までダウン・サイジングする新しいデモクラーシーの形と実践形態を考え出すこと、利便性の名において、IT/AI革命で代表される技術の新たな開発によって小さき民の世界をシェープさせないような政治的想像力を働かすこと、換言すれば、あらゆる技術開発(純粋科学者は教養として、かつ倫理が許す範囲内でその先端知を競い合えばよい)とその社会への応用は小さな民が生きていける範囲内で正当化できる政治的合意を探ること、などなど。

 本書はこうしたますますデジタル化するグローバル経済下で部品化され、データ化される人間に対して「小さき民」の復権を探る新たな社会運動の課題を私に確認させてくれている。
 以上、研究対象地域の専門家でもない私の読書感想であるが、今回は本書を執筆した19人の研究者による15章と4つのコラムの一つ一つに立ちいった個別の引用や考察は紙面の制約でしなかった。当面、一本、一本がムライ・スクールの生んだ楽しい作品だった、ということだけは最後に付け加えておきたい。

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