【書評】

『日本会議の研究』

  菅野 完/著  扶桑社新書  定価800円+税

岡田 一郎


 昨今、日本の出版界では日本会議ブームと呼ぶべき現象が起きている。日本会議に関する本が次々と発売され、その多くが刊行するやいなやたちまち初版が売り切れ、増刷している。そして、そのブームの火付け役となったのが本書である。

 著者の菅野は、もともと民間会社に勤める普通のサラリーマンだったそうだが、マイノリティに対する在特会などの差別活動に反発して、それへのカウンター(反対者)として活動しているうち、差別主義者が拠り所にしている言論に興味を持った。そして、それらを分析しているうち、日本会議の存在に行き当たり、会社勤務を辞め、本格的に日本会議について研究するようになったという。そのため、プロのジャーナリストや学者と比べて文章がこなれていなかったり、時系列順に話が進まず、内容がとりにくかったりする部分が散見される。ざっと読む分には面白いが、よく読むと(日本会議に関する知識を持っていない者には)理解するのが難しい部分がある。日本会議について詳しく知りたい者は本書を入門書として読んだうえで、他の筆者による日本会議に関する本(個人的には青木理『日本会議の正体』平凡社新書、2016年がよくまとまっていると思う)に目を通したほうが良いと思う。

 本書の意義は、それまで誰も取り上げなかった日本会議の存在を可視化したこと・その日本会議の運営を一手に引き受けているのが、1983年の生長の家の路線転換に反発し、自らが谷口雅春の意志を継ぐ者たちであると自覚する生長の家原理主義者とも言うべき人々(本書では「一群の人々」という言い方をしている)であること・生長の家原理主義者の力の源泉はマネジメント能力の高さ(対立している宗教団体を1つの目的のために協力させ、集会に必要な人員を確実にそろえること)にあること・生長の家原理主義者たちは憲法9条改正よりも憲法24条改正(個人としての尊厳・個人の尊重を削除し、家族保護条項をいれる)に重点を置いていることを明らかにしたことである。

 特に本書の意義として評価されるべき点は生長の家原理主義者の行動様式を明らかにしたことである。彼らはかつて左翼が使用していた、地方議会に自分たちが望む法律の制定を要望する請願などを採択させ、それを圧力として国会に法律の制定を促すという手法を十年一日の如く繰り返し、自分たちの要望を実現してきた。このような熱意を菅野は高く評価している。菅野の twitter を見ているとわかるが、彼は生長の家原理主義者の考え方に全く賛同していないが、清貧に耐えて地道に政治活動にいそしむ生長の家原理主義者たちを愛おしんでいる。そのため、日本会議の椛島有三事務総長の名で出版元の扶桑社に抗議文が送られてきたときに、(いわゆる「つくる会」の教科書を発行するなど、日本会議と親和性の高い扶桑社から発行することで日本会議を挑発した)自分の思惑通りに日本会議が動き、本書の宣伝に一役買ってくれたことを喜ぶと同時に、日本会議の対応に戸惑った、あるいは心外と怒っているようなつぶやきを残している。それは、日本会議の抗議文の次の一節が、菅野には心外だったからではないだろうか。

 「日本会議の研究」は、一部の学生運動・国民運動体験者等の裏付けの取れない証言や、断片的な事象を繋ぎ合わせ、日本会議の活動を貶める目的をもって編集された極めて悪質な宣伝本であり、掲載されている団体・個人の名誉を著しく傷つけるものである。」(抗議文の一節。抗議文の内容は以下を参照した。「菅野完氏『日本会議の研究』(扶桑社)の発売日に、日本会議が「出版停止を求める申し入れ」を扶桑社に送付」 http://matome.naver.jp/odai/2146186642025158801(2016年6月22日更新、2016年11月11日閲覧)

 ただ、生長の家原理主義者に対する菅野の思いが強すぎ、彼らの言動の紹介に重点が置かれているため、本書における彼らの姿がフリーメーソンやイルミナティといった都市伝説やフィクションの中で現れる秘密結社のように見えてしまう。菅野の twitter を見ると、日本会議に対抗すべき勢力が弱体化したことが、日本会議や生長の家原理主義者が跋扈した原因と彼自身は考えていることがわかるが、本だけを見れば、少数の生長の家原理主義者が裏から政治家などを動かしているように読者に思わせてしまうだろう。

 また、菅野は第四章で生長の家原理主義者たちが若者を勧誘して勢力拡大していると主張しているが、例に挙げているのが、彼らの思想の浅薄さに反発して、彼らが大学に作ったサークルなどを破壊してまわった人物なので、まるで説得力がない。私は生長の家原理主義者が若者にまったく浸透しきれておらず、二世・三世に頼っているのが現状と菅野が言おうとしていると思いながら読み進めていったところ、四章の最後にこう書いてあって当惑してしまった。「早瀬氏(菅野が例として挙げた人物。引用者注)のように、違和感を抱き、その違和感から問題意識を持ち、彼らの輪から抜けられた事例は他にもあるかもしれない。しかし圧倒的大多数は、そのままずるずると日本会議/日本青年協議会の進める『国民運動』のスタッフとして、活動していくのだろう」(本書161頁)圧倒的大多数云々というのは菅野の想像でしかなく、全く説得力に欠ける。せめて、「友人たちは皆、日本会議にからめとられてしまったが、自分だけは抜け出せた」という人物を探し出して、例に挙げるべきではないだろうか。

 菅野は本書の最後で、形式的な「民主的な市民運動」の積み重ねによって生長の家原理主義者が日本国憲法を殺しにかかっているので、それに反対する人々もまた「民主的な市民運動」によって対抗しなければいけないという趣旨のことを訴えている。「民主的な市民運動」というのが具体的に何を指すのかは明らかではないが、生長の家原理主義者の考え方を広く喧伝し、それに賛同できない人々(日本国民の大多数は賛同できないであろう)を結集して、立憲主義を踏みにじるような改憲の阻止(改憲を容認するにしても、立憲主義に反する改憲は許さない)を目指そうという意味なのだろう。

 ならば、生長の家原理主義とは相いれない人々を、主義・主張・趣味などの違いを超えて、団結させる必要があるだろう。すなわち、生長の家原理主義にあいいれないという一点さえ共有するならば、どんな人々も仲間として迎え入れるべきである。にもかかわらず、菅野を含む、日本で「反差別」を標榜する人々が漫画・アニメの愛好家を「右翼」「レイシスト」と決めつけて、口汚くののしるのは、なぜだろうか。私は漫画・アニメ愛好家だが、思想的には中道左派であり、在日外国人の方々をののしったり、罵倒したりしたこともない。同じような人間は私の周囲にもたくさんいるし、表現規制反対派の中には民進党や共産党あるいは自民党リベラル派の議員の選挙の手伝いをおこなっている人々も多い。在日外国人を十把一絡げにして誹謗することは許さないが、漫画・アニメの愛好家は十把一絡げにして誹謗してもよいという態度をとっている者がどうやって、立憲主主義を守るための大同団結をなし得るというのか。

 菅野らの姿勢を見ていると、地方の産業を振興し雇用を創出するというドナルド・トランプの主張に共鳴した白人労働者たちを包摂する努力をせず、「無知なレイシスト」として十把一絡げにして誹謗し、結果として多くの白人労働者たちをトランプ陣営にはしらせた、アメリカのエリート・リベラリストと同じ轍を踏んでいるような気がしてならない。

 (小山高専・日本大学非常勤講師)


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