【図書紹介】
『語りつぐ東京下町労働運動史』
小畑精武著 旬報社刊
下町労働者に流れる権力に対する不撓不屈のDNAを引き継ぐ
井上 定彦
小畑精武さん。皆さんもどこかで聞いたことのあるお名前ではないか。
もともと地域に密着し、地に足をつけた本格派の社会運動家として、早くから(総評時代から近年の連合時代にいたる)広い範囲に知られていたように思う。党派に関わらず、社会的に価値ある労働運動をめざそうとしてきた「地べた」の運動家、活動家にとっては、彼の手によって最初に出版された『コミュニティー・ユニオン宣言』(1990年)はその出発点であったともいえよう。また、『公契約条例入門』(2015年)も広く読まれた。実際にこれは野田市など全国のいくつかの自治体にもひろがり、制度化されたところもある。ここでは、社会、公共部門のあり方、社会・公共サービスの確保と向上をめざしたものでもある。小畑さんは、青年時代の若いうちから、地域の労働運動に入り(江戸川区労協)、現在にいたるまで殆ど50年にわたる地味な運動を続けてこられた。本書、『語りつぐ東京下町労働運動史』で描かれた地域はもともと、彼の活動した地域空間にほかならない。
下町労働運動とは 社会運動の原点
東京下町とは、ここでは主として東京東部の7区、すなわち台東、足立、荒川、葛飾、江戸川、江東の各区をさす。また、関東大震災前後からは、京浜工業地帯の発展の先駆けとなった東京南部・品川等の地域を含むものともされる。中小零細企業の密集するところであった。現在でも、ともにわずかだが、その面影を残している。
この地域は、大阪・神戸地区と並んで、日本で産業が発展し、資本主義が発達しはじめた明治から昭和期にかけて際立っていた工業地帯・産業地帯であった。そこに暮らし、働く労働者、職と生活、人々の地域社会関係から生まれる人間らしい「自然発生的」ともいえる社会運動の発祥の地である。
だから、ここからは、大正期から昭和史の戦前・戦後期における大運動家、そして政治的リーダーともなった山花英雄(化学同盟出身)、加藤勘十(東京毎日新聞記者から関東金属産業組委員長そして戦後は労働大臣、社会党国会議員)、浅沼稲次郎(社会党委員長、長らく江東区に住んだ)、また島上善五郎(東交労組、総評初代事務局長)など、そうそうたる大人物も、そこから育っていったともいえるだろう。
いまでいえば、浅草(東側)、本所、深川、亀有(葛飾)、佃島にかけては、いたるところに繊維産業、鉄工所、化学部門、皮革工場など、大工場から零細工場に至る、多数の工場が立ち並んでいた。そのころは、職住接近があたりまえの時代だったのであるから、労働者、庶民の暮らす居住区、商店街もひしめきあっていた。
しかも、ここは江戸時代からの「職人文化」があり、浮世絵師、歌舞伎役者、作家も輩出している。長屋(当時の集合住宅)も多く、「江戸っ子」気質をうけついでいた。地域の濃密な社会関係、支え合いながら生きてゆく人情のある地域でもあり、同時に、多様で、多感な「自由」な主張が交わされるのが自然な雰囲気だというのも、継承されてきていたともいえよう。
日本で、19世紀末から、都市産業・工業が勃興し、日清戦争前後には、全国から人口の流入がますます増加。多くは貧困層ともいえる人々の層が、『女工哀史』(細井和喜蔵)にも描かれているものに重なってくる。女工・男工の多くは、企業・工場の搾取・収奪、一日13時間労働・週6日労働というのが普通。しかも、機械のスピードに合わせての激しい労働、職制の横暴に耐えながら、それがついに爆発するときがある。早くから、多数の争議、社会紛争も波状的に起こっていた。
これらの「まちの文化」は、どこか、すこし前の時代のフランス、19世紀の「パリ・コミューン」の下町の雰囲気、「労働者文化」を連想させるところがある。
地域に波状的に連動する労働争議 昭和恐慌の下で
本書は、明治からアジア太平洋戦争までの下町の社会運動(戦前・戦中編)を、この東京下町という地域に区切って追っていったものである。著者の小畑さんが、文字どおり「歩き回ってきた『まち』」である。
圧巻の一つは、1927~1937年(昭和恐慌から日中戦争の本格化の時期)の労働運動の高揚期間である。もともと日本の工業地帯は、第一次世界大戦終了前後までは、その大戦が欧州を主戦場とするものであったので、いわば産業として「漁夫の利」の立場で大規模な国際的需要の恩恵に大きくあずかっていたともいえる。いずれにしても、さらに農村から都市への労働力としての人口流入の波が広がった。
また第一次世界大戦終結前後は、ロシア革命が勃発し、成功。すでに欧州社会運動勢力(ドイツ社会民主党、フランス社会党等)が、それぞれの国の多数派に手の届くところまで伸長していた。それを背景にした国際労働機関(ILO)も発足。日本としては、「五大列強」の一角にくいこんでゆくためにも、この流れに乗って、このILO発足当初からの原加盟国(1919年)に。また、内務省に社会局も新設された。この内務省には、この世界のながれを理解し、労働争議・小作争議については、これらをいきなり権力への挑戦・打倒の運動と直線的にとらえるのではなく、社会政策の拡充や社会的妥協の必要性を理解しているものもいた(司法省が権力的弾圧による鎮圧を旨とする体質とは多少違った)。資本家団体にも「協調会」のような(渋沢栄一の呼びかけ、「労・使調和」を主張)、一部には融和的姿勢もうけいれようとするものもあった。
大正から昭和に移るころ(1926年)、日本は昭和恐慌に直面する。それまで急成長した産業・企業は、不況の大嵐が襲いつづけることになった。これは、わずか3年後には1929年の世界大恐慌にも連続して、「米騒動」、小作争議に加えて、都市部では労働争議など新たな広がりのある社会経済現象がひろがった。
すでに、大正期後半、あるいは関東大震災(1923年)前後から、下町ではいくつもの争議、例えば、東京市電(1911年)、東京モスリン(1914年)の争議があった。他方、こうした動きに対する弾圧も激しくなり1923年の秋の大震災のなか、どさくさにまぎれて大杉栄一家、そして普通の労働組合運動家多数の虐殺事件(亀戸事件)が陸軍とその憲兵隊によってひきおこされた。また、流言飛語(デマ)により、朝鮮人の大量虐殺がいくつもの地域で起こっている。
他方、大正時代から盛り上がってきた普通選挙件運動のひろがりによって普選法が成立(男子のみ、25歳以上の選挙権)。1928年には第一回普通選挙も実施された。466議席中、労働農民党 2議席 社会民衆党 4議席 日本労農党 1議席など、無産政党各党派も、はじめて議席をえた。
昭和恐慌から、世界恐慌につながるこの不況続きのもとで、中小零細企業から大工場にいたるまで、このうねりに巻き込まれ、社会的反発も生じた。もともと、それまでもひどい長時間労働と職制の強圧的な管理が続くなかで、今度はさらに大幅な賃下げ、手当の全面カットにはじまり、大量解雇通告が一方的にだされる事態が相次いだからである。経営側は、まずは抵抗するものを冷酷に解雇処分。そこで、生まれ広がりつつあった労働組合への弾圧とそれに抵抗する争議団運動が、東京下町全域に広がった。この地域での労働運動のひろがりは、治安警察法に加えて治安維持法が法制化され、共産系を含む左翼諸党派への大弾圧も何波にもわたり続けられるなかのことであった(1928年の共産党弾圧やそれに名を借りた大規模検挙など)。
他方、そのときには下町で働く人々には、地域での労働現場から育ってきたリーダーに加え、新たな知識人指導者たちの支援もえた。たとえば東京大学新人会(1918年設立。当初は広い思想潮流をふくみ1921年ころからは一部は先鋭化)の活動、セツルメント運動に加え、自主的な労働学校の組織(末広厳太郎校長)も加わり、そこでは、さまざまな系統からなる支援、指導者をえて広い影響力をもった。この社会運動勢力には、明治期からのキリスト教系、そして社会民主主義系、労働組合主義やサンディカリズム系、ロシア革命につらなる先鋭な共産主義派、それに加えて、労働組合主義派のなかには国家主義的傾向を持つ運動など、多様であったことも特徴のひとつとしてあげられよう。左翼諸潮流の間でも、普通選挙実施においてもその相互間の抗争も同じ地域のなかにおいても、激しいものもあった。
そのなから、合法左派勢力として、加藤勘十、山花秀雄(ともに戦後社会党の指導者)、島上善五郎(総評初代事務局長)のような大衆運動のリーダーも頭角をあらわしてきたのである。
1920~30年の下町大争議の波 東京・東洋モスリンの闘いをはじめとして
亀有周辺には、大正期から東京モスリン、東洋モスリン、日清紡などの紡績の大工場が林立し(ここでは女工が多い)、また、すこし南側には大島製鋼所など男工の多い金属加工工場もひろがっていた。また、墨田の皮革工場、日本セルロイド亀戸工場等々の波状的な労働争議も生じていた。多少距離は離れていても、そして、また争議開始の時期、動機、指導層は違っても、1924~1930の間には、地域全域にまたがる大きな運動のうねりが起こり、またそれぞれの争議団のあいだでの友誼組合間の支援もはじまっていた。
なかでも、1930年(昭和5年)の東洋モスリンの大争議は、下町運動史のハイライトとともいえるものとなった。すでにこの「洋モス」工場では、1927年には多数の組合員の組織化と要求(「嘆願」という形式での)で、はじめて「女工外出禁止」の解除などの成果をあげていた。そこに1930年2月には綿紡部の廃止と大量解雇の経営側の動きに対し、連日の構内デモ、サボタージュから同盟罷業(ストライキ)にいたる運動がひろがった。会社は一部の要求をみとめたものの、その半年後には組合リーダーを含む500名の大量解雇を強行しようとする。そこで、この労働争議は亀戸町ぐるみにひろがる。
争議の応援団長・加藤勘十は運動を政治運動にまで高めるため、「争議を契機として地域的ゼネスト体制をつくろう」と考え指導。組合員と暴力団の衝突・乱闘も続く。女工たちは寄宿舎を飛びだし、街頭で労働歌を歌いながらデモを敢行。それに同情した町民1万人の人出・応援で、多くの差し入れもあったという。この9月から11月にかけての攻防は、騒擾罪の適用をへて、争議団も警視庁官房主事との連名の調停をうけいれざるをえないことにはなった。
しかし、この動きは近隣の下町地区にとどまらず、労働争議の波は全国的にもひろがり、1930年の争議統計は、908件、参加人員8万1329人と、戦前最大のものであったことが記録されている。下町では、デモンストレーションの展開を含め文字どおりの地域労働運動といえるような大きな波となった。早くから労働組合の組織化がすすんでいた、東京市電、東武鉄道、京成電車、東京市従、東京ガスなどの公共部門での争議の波も相次いで広がったのである。
女性リーダーの活躍と戦後への継承
この下町労働運動の特徴のひとつとして、日本社会に根強い性差別(たとえば女性には普選法でも投票権なし)のなかで、女性の活躍が目立ち、その後も長きにわたってひきつがれ、戦後の女性政治リーダー輩出につながったことがある。早くは東京モスリンの山内みなは、職場の活動から友愛会の存在を知り、会員をつのる活動を始めて友愛会亀戸支部がうまれる。そこで第一回ILO総会への労働側の一員に市川房枝が推薦したものの実らず、彼女の運動は戦後の高度成長期までも続けたという。帯刀貞代(元教員)は、堺利彦、丸岡秀子などの支援もえて、東大新人会の織本利とともに「労働女塾」を設立(1929年)、みずからも主事をつとめた。女性の自立をうながし、労働問題をふくめた授業計画をすすめて、東洋モスリンや周辺の工場での女性の活動をささえた。戦後には、羽仁説子、平塚らいてうなどと共に、新日本婦人の会の代表委員をつとめた。また、丹野セツは、南葛労働会のリーダー、渡辺政之助とめぐりあい(「渡政」はのち弾圧で難死)、非転向を貫いて、働きながら戦後まで活動をつづける。また1933年には、松竹でも女優たちの待遇改善の先頭に水ノ江瀧子(戦後にテレビ番組でも活躍)が立ちあがった、とのこと。江東は「女性運動の出発点」との本も出ているのだそうだ。
地域労働運動とは
「コミュニティ・ユニオン」のひろがりに期待
当時の困難な政治状況のなかで(大河内一男『暗い谷間の時代の労働運動』)、この地域に広がり、波状的に連鎖していった運動は、例外的なものではなく、そこで働き、暮らす人々にとっては、自分たちをまもろうとする誠に自然な人間性(人権)の発露であったということなのだろう。
だから、権力に潰されても、つぶされても、すぐにまた新たな運動がたちあがってきた。また、当時の多様な思想潮流とその間での激しい対立の存在にもかかわらず、それらが生まれ根づく、より大きな基底としての、庶民・労働者の文化・精神がひきつがれてきているのだろう。
そこで、本書はその地域での運動を丹念にひろうとき、どこかの流派に偏ることなく、広く、「左」翼諸潮流から、産報(産業報国会)にも帰着した「右」の運動についても、記述しているのも特徴の一つだ。
1937年の鈴木茂三郎、山花秀雄、加藤勘十などの、「人民戦線派」の一斉検挙。次いで国家総動員法施行のなかでの、産業報国会運動についても、独自の仕方で対応をしようとした動きも紹介されている。運動が壊滅させられるなかで、表向きは「産報」への協力はやむをえない、権力に屈しながらも、他方では「労働組合としての自主性」を残そうとする、松岡駒吉などの「二本建て」構想という「抵抗」の動きもあったことが紹介されている。
1940年になると、権力主導の産業報国会に、総同盟も東交も解散というかたちで組み敷かれたのちにいたるも、加えて、太平洋戦争突入後においても、労働争議は続いていたとの記録もある。戦中においても、表立った政治的抵抗は困難でも、とぎれることのない運動家たちのたくましい生活のも営みがあったというわけだ。だから、それが、戦争終結後、わずか1~2か月後には、戦後労働運動と革新勢力諸党派の動き・復活が可能になったということなのだろう。
こうした「下町労働運動」の精神は、一地域に、またある時期に限定されるものではなく、むしろ、近代市民社会において普遍性のあるもの、一般的なものとしてとらえることができるだろう。
小畑さんは、この精神を引き継ぎ、ずっと運動現場に立ち続けただけでなく、こうして、それまでの先人たちの記録を「語りつごう」とされているわけだ。
是非、小畑さんの次著として、この「戦後篇」に期待したいものである。
(『語りつぐ東京下町労働運動史』)旬報社 2024年6月発行)
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※なお加藤勘十は、本メール・マガジン『オルタ広場』の前身の『オルタ』創設者・加藤宣幸氏の父にあたる。
(2024.8.20)
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