【図書紹介】

『高校生運動の歴史』 高橋 雄造/著―高校生運動は消え去った過去のことなのだろうか

  高橋 雄造/著 明石書店 2020年10月/発行
      ――高校生運動は消え去った過去のことなのだろうか
井上 定彦

画像の説明
 筆者はこの分厚い本を「紹介」するには適任だとは思えない。というのも、1950年代の後半に地方の普通科高校にいて、高校自治会といえば、運動部の応援と動員、放送部の活動、コーラス・グルーブ、演劇・絵画などの通常のサークル活動しか知らなかったからである。むしろ、父のような旧制中学の世代で、学校運営や学規違反との処分への抵抗、また敬愛する先生に関する人事への異議申し立て運動が(「大正デモクラシー」を背景にしてか)、時折りにあったことを聞いていたくらいだ。

 だから、1960年4月に上京し(いわゆる「第一次安保闘争」のとき)、文字どおり「右も左も」わからないまま、全学連の「主流派と反主流派」の区別も知らないときに、他大学のグループからのオルグをうけたことを思い出す。その男子大学生に混じって高校生らしい女生徒がおり、しかもするどい「やりとり」をしているのにとても驚いたものだ(残念ながらその論理・思想についての記憶はないが、どうも「主流派」のグループからのアプローチだったようだ)。

  ◆ 「高校生運動」のひろがりと歴史

 本書は、その高校生運動(「安保条約」やヴェトナム戦争反対のような、学内をこえた大きな政治課題・社会課題を意識した運動)の、戦後での全国的広がりを、かなり広範囲にわたりたどったものである。戦後初期にはじまり、1980年代の「管理主義」教育への反発が生じていた時期にわたる長い期間の事象を対象としているという点では、あまり他の例を知らない(1969~70年については『高校紛争1969~70』小林哲夫の新書版がある)。本書の副題が「新制高校・生徒会連合・60年安保・“高校紛争”・反管理主義」とされているとおりである。

 高校生運動は、短期間での切断と、また再び出現するいくつもの波が特徴かもしれない。多くは進学校としての有名校が拠点であっただけに、高校三年生ともなると、活動家であっても受験勉強体制に入り、かといって一年生が主導するというのは難しい、だから1年かぎりにリーダーが交代するということになる。入れ代わりが激しく、運動の記録も引継ぎもないままとなる。
 大学の学生運動では活動家が、学部だけでオモテ・ウラ8年間は続けられ、他学部に学士入学し直して殆ど中年になるまで続けることができる(プロ化)。これとは違うわけだ。むろん、大学生の学生運動については、かなり早くから多くの本、記録が出され、いつぞやは国立歴史民族博物館で「1968年」の特設展示場が置かれて、筆者も見学する機会をえた。これは1968~70年代はじめにかけての全国的に高揚した全共闘運動に焦点をあてたものだった。

 著者・高橋氏は、これよりも少し上の世代だが、日比谷高校での高校生運動の洗礼をうけた方である。だから、高校生運動がピークに達した1969年に近接しており、おそらくは当然に学生運動の活動家にもなったのだろう。おなじく高校生運動、学生運動に深く関わり、積み上げてきた情報・資料、多くの友人達の協力もあったと思われる。
 本書では、そのうちのもっとも先輩格の中村光男さん(社学同のリーダーをつとめ、転じて文化人類学でも業績をあげた方)が丹念に集め続けてきた資料(国会図書館に寄贈)に負うところが大きいと、記されている。ここでは、なかなか系統的には入手しがたいと思われる全国の高校の運動記録が、新聞社調べの統計(おそらくは公安情報も加わり)を含めて、丁寧に具体的資料にもとづいてフォローされている。

  ◆ 高校生運動の5期区分

 高橋雄造氏は、この高校生運動を5期に区分して記述している。すなわち第一期を戦後直後の数年間、1948年の東京都高校自治会連合ほか。第二期は50年代前半・わだつみ会の高校生運動から、地域をこえた全国高校生会議の時期。第三期は1950年代後半のプレ60年安保闘争期。砂川闘争、原水爆禁止高校生会連協、勤評反対行動委員会など。そして第四期は、1960年安保闘争、安保阻止高校生会議。第五期は、この60年安保闘争以後、1969-70年の「高校紛争」から近年まで。管理主義教育進行の時期、ということだ。

 いずれも学生運動の潮流と共に、その時代毎の課題に敏感に影響をうけていたとはいえよう。もとはといえば、GHQの指導にもとづき「自治」の教育の実践の場としての高校の生徒会活動が奨励され、転じて「自治」を求めるだけでなく、「平和」や原爆反対、安保反対のような政治課題に向かうこととなる。だからそこでは、当初は日本共産党などの党派の影響、あるいは1960年ころ以降は、新左翼運動の各潮流(セクト)ごとの高校生への浸透があった。1969年には、文部省が指導を強化し、高校生の政治活動を強く禁止する考えが全国でもゆきわたり、それまで生徒会・自治会を単位とした活動から、性格が変わりはじめたということもあった。

 その前後には、高校生運動は、中核派、革マル派、社学同、解放派そして民青などの、党派別に個人単位で属する横の運動部隊となり、「高校紛争」として目立つ局面となる。すなわち、各校、各地域で、数は少なくとも学校占拠などの突出した激しい運動が噴出することになった。文部省・教育委員会の学校指導は、最初は長髪禁止などの校則と処罰の厳守・執行にはじまり、生徒の生活指導にますます踏み込むことになる。これへの反発が「高校紛争」をさらに激発する悪循環ともなった。「管理主義教育」の時代に移ったともいわれている。

  ◆ はたして「管理主義教育」の支配のせいなのかどうか?

 このような学校管理の様相は、地域毎にも、学校側の対応によっても相違が大きく、ごく一部には、服装、髪型などについてのリベラルな合意が、校風として引き継がれていったところもあった。しかし、多くは生徒会活動そのものが、担当教員の配置、強力な指導、そして学校を超えた生徒間交流の制限・禁止ともあいまって、自発的で創造性ある動きが消えてゆき、沈滞していったように思われる。

 しかしながら、ここでももっとも大きな影響は、社会の表層で起こった大きな変化だった。1960年安保闘争では、まぎれもなくそれを牽引した「主役」だった学生運動が、普通の学生にも自然に影響を与えていた時代から、人々に理解しがたいような言辞、行動へ。暴走にもみえる動きが日常化してしまうと、社会へのインパクトどころか、逆に世論の反発を強めることになった。当初は共感をよんだ行動も、次第に人々から遊離していき、さらに左翼諸潮流のなかでの相互の対立・抗争が激しくなると、その溝がさらに大きくなっていった。
 殊に戯画化されるような動き、たとえば、日航機「よど号」乗っ取りと北朝鮮への亡命事件、あげくのはてに起こった連合赤軍の内ゲバ殺人は、いっきょに学生運動・高校生運動全体に対する、反発・抑圧する世論へと転化した。いわば巨大な「市民の壁」が立ち上がる結果となってしまった(演じたのは「国家」権力だったとしても)。

 市民運動一般については、その後も環境運動、消費者運動としても続き、革新自治体などの地域運動もそれなりに続いていった。しかしながら、社会運動の重要な担い手であった労働運動は、1975年秋、ストライキ決行によって「スト権」の奪還をめざすも、要求自体は正当だとしても、やはり、世論の反発を生んだ。これも、1986年の国鉄労働組合運動の崩壊につながってゆき、日本には「まっとうな〈bona fide〉」対抗的労働運動そのものの存在感を希薄化させる帰結となってしまっている。そのころから集団的交渉事項としての労働争議行為そのものが殆ど消え、労働審判等の「個人紛争」に縮減してしていった。

 学生運動の全国的広がり、学生自治会の結集力も、「タテカン(立て看板)」が消えていったように、人の眼にふれることは稀になった。このなかで、かつての自発的・創造的な自治をめざすような高校生運動は、当分はみられそうにはない。
 しかしながら、本当にこのまま日本だけが、韓国の学園や労働運動、また香港の青年達の民主主義をもとめる運動のようなことは再びおこらないようになった、といえるのだろうか。

 ハイティーンという重要な「人格形成期」の青年が、いまや「保守化」しているようにいわれている。しかし、もっと長い期間を視野において振り返ると、若い青年層には、感性豊かで、理想や正義を直截に表現したい、という特性がある。管理社会化が進展してきたことは認めるとしても、「管理主義教育」や企業の人事管理の強化が一方向に人々の自由と自治をもとめる動きを抑制できるようになった、ということはできないように思う。

 私たちの世代は、その後、ソ連の崩壊を目撃し、1989年の「北京の春」を知っている。いままた、香港や台湾、またタイの伸びやかな青年世代の活躍・登場をみることができる。日本でも、社会に強い課題が突きつけられ続けた時には、反発する若い青年の力があらわれるかもしれない。おそらくは、そのかたちは新たな多様な姿をとるかもしれないとしても。
 著者もこのようなことを思って、本書に膨大な力を注いだのではないだろうか。
 (なお、出版事情の厳しい折、この大部の384頁の立派な装丁の本が出せたのは、やはり同世代の運動家で本出版社の石井昭男氏の尽力があってのことであろう。)

 (島根県立大学名誉教授)
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