【コラム】【アフリカ大湖地域について考える(2)】

分断の傷み

大賀 敏子

 ◆ 大湖地域

 アフリカ大地溝帯には、世界第二位の大きさであるビクトリア湖をはじめ、いくつかの湖がある。水は北へ白ナイル、西へコンゴ川、南へザンベジ川を経て、地中海、大西洋、インド洋にそれぞれつながる。この水域と周辺を大湖地域と呼ぶ。
 歴史、文化、気候などで、この地域は一体だ。ウガンダは国土の美しさゆえに「アフリカの真珠」と呼ばれ、「千の丘の国」と言われるルワンダの段々畑は、日本の農村をほうふつさせる。神秘の高山と湖の一帯に、絶滅の危機にあるゴリラが住んでいるのも、緑が豊かで気候が穏やかだからだろう。

 旧宗主国の英語、フランス語以外に、スワヒリ語が国際語として広く通用する。これとは別に、ルワンダで話されているルワンダ語は、ケニア西部出身の人の話だと、自分のマザータング(いわゆる部族語)とほとんど同じだそうだ。
 人々の交流と移動には数百年の歴史がある。ヨーロッパ植民者は、ルワンダ人がよく働くのでコンゴ民主共和国(旧ザイール、ここではDRCと呼ぶ)への移住を奨励し、いまでもDRCで活躍する実業家、富農、政治家にはルワンダ系の人が少なくないそうだ。DRCキブ湖岸のブカブは、平和時なら留学生が集まった文教都市だ。とくにブカブのメディカル・スクール(医大)(写真)は有名で、いまのルワンダやブルンジの医者の多くがこの医大卒だと言われる。

画像の説明
  ブカブのメディカル・スクール

 ◆ 複雑な国際関係

 ところが、大湖地域を説明するのに、関係する国をあげ始めると複雑だ。地理的には、ブルンジ、DRC、ケニア、マラウィ、ルワンダ、タンザニア、ウガンダの7ヶ国だ。一方、大湖地域国際会議(International Conference on the Great Lakes Region)は、平和と国際協調のための地域機構だが、そのメンバーは12ヶ国で、アンゴラ、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、南スーダン、スーダン、ザンビアが加わる。準メンバーも入れれば、西アフリカを除く、大陸のほとんど全部の国が関係していることがわかる(地図参照)。

画像の説明
  大湖地域地図、大湖地域国際会議加盟国分布図~ウィキペディアから

 世界でもまれにみる、流血の一帯だ。ひとまず「アフリカの年」と呼ばれる1960年からだけを見ても、60年代初頭のDRC内戦、60年代、70年代のルワンダとブルンジでの紛争、1978~79年のウガンダ・タンザニア戦争、1975~2002年のアンゴラ内戦、1994年のルワンダのジェノサイド、1996~1998年、1998~2003年のコンゴ戦争、など。この間、4人の国家元首と一人の国連事務総長が、いずれも現職で命を落とした。

 良きにつけ悪しきにつけ、各国が密接に連動した関係にあることが、紛争の複雑化、長期化を招いたと言われる。大湖地域にかぎるものではないが、外国系移民は、ときどきの状況次第で邪魔者になる。追い出したり、殺害したり、抵抗して戦ったり、外国がそれぞれの思惑にかなう側に武器や資金をおくって加勢したり。戦いを止めてもらおうと、国連安全保障理事会で対策を練るにも、外国がアメとムチを組み合わせた外交手段で介入するにも、多国にまたがらず一国だけであれば、だれが責任者なのかはっきりするので、もう少しは簡単だろう。

 ただこれは、いまある国境を前提とするならば、というだけだ。よく知られているように、アフリカの国境のほとんどは、19世紀末のベルリン会議でヨーロッパ諸国が決めたものだ。そもそも大湖地域は一体のものであるのにかかわらず、いくつかの国家の集まりと考えることの方にむしろムリがある。
 この地域が一体であることは、理屈ではない。肌で感じるものだ。

 ◆ エスニック・グループの対立

 エスニック・グループの間の対立が紛争の原因だとしばしば言われる。なかんずく、ルワンダのジェノサイドは、多数派フツが少数派ツチを、100日ほどの間に80~100万人も虐殺したものであり、ツチ政府ができて殺りくが収まると、報復を恐れた大勢のフツは隣国DRCに逃れ、それがDRC紛争の原因となった、と。では、エスニック・グループとは何だろう。

 たとえば、ケニアにはおよそ50のグループがある。英語とスワヒリ語が共通語だが、それとは別に異なる言語をそれぞれ持ち、歴史と地理的出身地が異なる。生活様式の違いや身体的特徴も、外国人にはわかりにくいが、あえて認めようとすればまったくないわけではない。国政選挙のときなど、残念ながら、それが暴力を使った対立につながったこともある。政治家の演説、メディア、教科書などは、おしなべて「tribalism(部族主義)は良くない」、「国のユニティーが大事だ」というトーンだ。グループがあること自体は前提として、国づくりに励んでいる。

 ルワンダも、この25年あまり、国民の仲直りとユニティーを国是としている。ツチ、フツ、トゥワ(いわゆるピグミー)というエスニック・グループの名を、公の場で口にすることさえはばかられる。あまりに徹底しているので、言論の自由の侵害ではないかと懸念する国際人権保護団体もある。

 ◆ 支配の道具にする

 ただし、ルワンダのジェノサイドを、エスニック間の対立の結果だと片付けてしまうのは、表面しか見ていない。いろいろな歴史観はあるだろうが、筆者が知りえ、理解する範囲では次のようだ。

 その昔王国だったころ、エスニシティという発想そのものがなかった。一方は遊牧民、また一方は農耕民と、生業の差異はないでもなかったが、identity issue ―あなたはどのグループですか、私はこういうグループです―は存在しなかった、つまり、どうでもいいことだった。なので、平和共存という自覚さえ必要なかった。それがわざわざ issue(問題)になったのは、19世紀以降、まずドイツが、次いでベルギーが来てからだ。常とう手段の分割支配で便利だったのだ。

 少数派ツチの方が多数派フツより優れているとイデオロギーをつくった。背が高い、民族的により進んでいるといった、ちょっと信じられないような基準で。どちらとも言い切れない人も大勢いた。エスニシティを明記した身分証明書を携帯させ、就職、教育などでツチだけ優遇した。こうして、もともとはどうでもいいことが、国の制度になり、一生を左右する事柄になってしまった[注1]

 このような歴史観にたつと、次の疑問がわく。なぜ植民者たちはそんなひどいことをしたのか。相手は手ごわいということを心得ていたからではないだろうか。話せばわかる、道理が通じるはずだ、同じ人間だから仲間だ、などと思っちゃ絶対にダメだと。その意味で、人間に対する洞察は鋭かった。
 他方、なぜアフリカ人はこれを受け入れたのか。銃器を向けられほかに仕方がなかったのは確かだが、イギリス人が来たときのケニア人の記録で、このような趣旨を読んだことがある。彼ら(イギリス人)は旅人だから、旅の疲れがいやされればやがてhomeに帰るだろう、だから食事を出してもてなそう、と。

[注1]THE RWANDAN CONFLICT Origin, Development, Exit Strategies A Study ordered by: The National Unity and Reconciliation Commission

 ◆ ひりひりといたむ傷

 独立してヨーロッパ植民者が姿を消してもなお、ルワンダ社会の分断はそのまま続いた。とある東アフリカのキリスト教宣教師は、ジェノサイド直後、まだ血のりが残るルワンダに救援に入った。人々の話を聞き、手を握り、一緒に祈った。そんな彼女だが、ツチは一般に背が高いといったことを、今でもためらいなく口にする。悪気はまったくない。エスニシティがときに危険な爆弾であることも十分心得ている。ただ、200年もの時間をかけて、じっくりすり込まれてきた意識はなかなか消えない。

 ジェノサイドでは、国連ピースキーパー(国連平和維持軍メンバー)のベルギー兵士10人が殺害された。言葉にするのもためらわれるほどのひどい拷問があったとのことだ。当時の在ルワンダ・ベルギー大使は、キガリ空港の管制官が「ベルギー大使が乗っているのなら撃ち落とす」と言うなか、パイロットの機転で離陸し、脱出を果たしたと回顧している[注2]。ルワンダ兵に「ベルギーだけは許すまい」という強い感情があったのかもしれない。どうだろう。

 歴史の研究者は、本と文献とさまざまな記録をつかって、あれこれと分析する。どの政策が悪かった、だれが責任者だった、と。分断のなかを生きる運命におかれた人々は、命を落とし、生き残っても傷を受け、それはいつまでもひりひりと傷む。分析や論評は傷みを説明できない。それは肌で感じるものだ。

[注2]The Brussels Times “25 years after the genocide in Rwanda many questions still remain unanswered”, Wednesday, 04 September 2019

 ◆ 職場でも分けて支配

 ここで、筆者が国連で経験したことについてふれたい。元同僚のAはとあるアフリカの国出身で、そこの一流大学を卒業したエリートだった。ところが、働いているうちに顔つきと目の色がくすんでいき、数年年たつ頃にはAはすっかり壊れてしまった。原因の一つは職場の人間関係だ。数人からなるチームにいたが、しばしばほかの全員と対立した。きっかけは仕事の量、情報が回ってくるかどうかなど、当人には重大事項だが、どこにもありそうな、ささいなことだった。チームのなかに上下関係はなく、全員が一人の上司(Bとする)の監督の下にあった。ただ、Aだけ給与レベル(等級)が一ランク低かった。

 国連職員は仕事の内容に応じてレベルがあり、レベルごとに決められたサラリーを受け取る。昇給には、上司に職務内容の再点検、リバイスをしてもらい、レベルアップになるような手続きをとってもらう必要がある。ただしこれは、個人のサラリーの問題とばかりは言えない。時代と需要に伴い変化する実勢に即して、職員の職務内容をときどき再評価するのは、健全な組織運営のひとつだ。
 しかし、Bは何もしなかった。「次の機会には必ず」と立派な説明をしながら。部下たちの内紛が起きるままにさせていたのは、その方が管理監督しやすいからだ。つまり、分割支配だ。Bは、アフリカではない、とある途上国の出身だ。

 人ひとりをダメにしてしまうとは、AのチームもBもとんでもない意地悪であり、年がら年中けんかしているのかと言うと、そんなことはない。難しい仕事をいくつもこなし、チームの評価はけっして低くはない。ただ、みながそれぞれ、お互いは手ごわいということを心得ているだけだ。自分もいつ難しい境遇に置かれるかわからない。だから誰かの弱みを見つけたら、ぜったいに手放さない。合法的に抑えつけられるかぎり、徹底的に抑えつける。多文化環境では、世の中への構えがそもそも鋭利なのだと言うべきだろうか。
 後日談だが、Aの精神的負担は軽減した。Aがレベルアップしたのではない。学生インターンとボランティアが雇われて、チームの政治関係が変わったのだ。

 ◆ きしみ音

 国連憲章にはこうある。「職員の雇用及び勤務条件の決定に当って最も考慮すべきことは、最高水準の能率、能力及び誠実を確保しなければならないことである。職員をなるべく広い地理的基礎に基いて採用することの重要性については、妥当な考慮を払わなければならない。(第101条第3項)」
 だれでも、同僚すべてを自分で選べるわけではない。きっとみんな、厳しい競争で選抜されてきた、最高レベルの人たちなのだろうと推測できるだけだ。なぜなら憲章にそう書いてあるから。ただ、そのような推測に、自分をゆだねてしまうかどうかは別だ。

 国連ができたばかりの1946年、加盟国数は51で、5大国のほか、南米、東・南アジアが顔をそろえていた。当時の事務局職員の実に8割が西欧と北米の出身者だった。なぜか。日本は未加盟、アフリカのほとんどはまだ独立もしていないころだ。単純にいまの尺度をあてはめてはならないが、文化的背景が似通った者と一緒に働くのがどこか安心だったからだろうか。その後1963年(加盟国数111)、1980年(同、154)では、西欧・北米職員はおおむね半分弱となった[注3]

 どの民族にもどの文化にも、人と人がお互いに敬意を払い、譲り合い、けんかをしないようしようとする秩序がある。儒教の教え、釈迦の教え、ヒンドゥー教、イスラム法、ユダヤ教のトーラー、キリスト教の福音書、アフリカの相互扶助など。長い長い年月をかけ、それぞれの気候風土に育まれてきた珠玉の教えだ。ところが、世界の異なる社会規範をいっしょくたに集めるとどうだろう。がたぴしときしみ音が聞こえてくるような気がしてならない。単なる杞憂だろうか。

[注3]JIU/REP/81/10“Application of the principle of equitable geographical distribution of the staff of the United Nations Secretariat”, Geneva, July 1981

 ◆ 分断はどこにでもある

 2020年、米ミネソタ州ミネアポリスを発端に再燃したBLM運動は、ケニアでも高い関心を集めた。米国の行方は、アフリカの政治経済に大きな影響をもたらすからだ。ただし、大勢ではないが、なかには「白人に対して戦う黒人」に単純なシンパシーをもつ人もいた。SNSには、モノクロの映像や古い記録を編集し直して、「奴隷貿易、植民地支配を通じて、白人は黒人にこんなひどいことをしてきた」という趣旨をわかりやすく訴えるビデオクリップがまわった。

 これを執筆するいま、ミャンマー情勢が揺れている。そこにはロヒンギャ問題がある。こうしたグループ分けは、どうしても世界のあちこちにある。人間の自然な感性に響きやすいのかもしれない。ガードを固くして、安易には他者に自分をゆだねないことは、良し悪しは別として、いつも重要だろう。ただし、グループに分かれること自体がまずいのではない。それが不適切なイデオロギーや偏狭な考えと結びつき、対立の道具になるから問題なのだ。
 筆者はどうだろう。どうでもいい価値観にしばられて、いつのまにか敵意と対立に大事な時間を使ってきたことはないだろうか。

 (元国連職員・ナイロビ在住)
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