【宇治万葉版画美術館】(4)

                            宇治 敏彦


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(16)死者を弔うには山道を行こう
 「あしひきの山道を行こう。風が吹くと高い波が行く手を塞ぐ海側の道は行くまい」。作者不詳。万葉集第13巻3338の歌で、前後には挽歌24首が掲載されている。死者を弔う場所に運んでいる情景を詠んだ歌の反歌だが、「波の塞(さや)れる海道(うなじ)」という表現が故人の厳しかった一生を想起させる。

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(17)宇治川の急流を見て旧都を偲んだ
 柿本人麻呂が近江大津宮(667年に遷都)の旧都跡を見て、白村江(はくすきのえ)の戦いで亡くなった人たちを偲んで詠ったとみられる。「勢いよく流れる宇治川のように、旧都で仕えていた人々の行方は分からない」と、人生のはかなさを強調している。「八十氏(多くの人々)」と「宇治川」でウジを語呂合わせしている

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(18)天の河は昔から多くの歌に詠まれた
 大伴家持の作。「天の河(川)に橋が架かっていれば、牽牛星と織姫星は秋を待たずに会えただろうに」との意。七夕といえば8月下旬だが、旧暦では秋の季語である。万葉集第10巻には「秋の雑歌」として98首の七夕関連の歌が収容されている。万葉の時代から「天の河(川)」は、恋の歌の主要テーマになっていたようだ

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(19)大伴家持に片思いを続けた女性の歌
 笠郎女(かさのいらつめ)という女性は、名門育ちで歌の達人でもあった大伴家持にぞっこん惚れ込んでいたようで、彼に29首の恋歌を贈っている。だが、モテモテの家持がなかなか自分の方を向いてくれないので、とうとう痺れ切らしてこんな一首を詠んだ。「思ってもくれない人を思うなんて、大きな寺院にあっては役にも立たない餓鬼の像をひれ伏して、しかも後ろからおがむようなものよ」。相当アタマに来ていたのだろうが、それでも愛さずにはいられない女の性(さが)が伝わってくる。

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(20)大阪の海岸で鯨捕りが行われていた
 作者は千年(ちとせ)という女性ではなかったかとみられている。聖武天皇の難波行幸に2度随行した際に大阪・住吉の浜で鯨捕りが行われていることを聞いてつくった歌のようだ。「鯨もとれるという浜辺がきれいで、朝夕には美しい藻に波が押し寄せる。毎日見ても見飽きないだろう」などと歌っている。

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