【コラム】

あなたがたはいつまで「地球温暖化」と言い続けるのですか?

鈴木 康之

 オーストラリアの森林火災はテレビからボクの中にも飛び火してきました。もはや脂っ気のない体ながらパチパチ燃えあがり、またしても怒りを新たにしたのは、それをネタにするテレビの報道番組や情報番組の旧態依然に対してです。

 日本という四季のある美しい国で母語を学んだ者の語覚からすると「地球温暖化」という訳語は矛盾していて、ありえません。
 十数年前その指摘を小さいメディアに何回か書きました。
 それに目をとめた業界仲間の故・天野祐吉さんが、雑誌『広告批評』2008年4月号の巻頭でこう書いてくれました。

《「温暖化」なんてなまぬるい言葉で、温暖化は防げない。

 コピーライターの鈴木康之さんは、「温暖化」という言葉に文句をつけている。
 だいたい、「温暖化」って言葉には、心地よい語感がある。ぬくぬくしたイメージがある。温暖化? けっこうじゃないの、とうっかり思ってしまう危うさがある。そこが困る、と鈴木さんは怒る。その言葉からは、切実な危機感が生まれてこない、というわけだ。

 ではなんと言えばいいか。
 たとえば「加熱化」だ、と鈴木さんは言う。
 なるほど「加熱化」なら、「熱い!」という感じがする。「危ない!」という思いがわく。「なんとか熱を下げなきゃ!」と感じる。

 「温暖化」という言葉がここまで行きわたってしまったら、もう手遅れかもしれない。でも、ぼくは「加熱化」と言うことにする。できるかぎり言いふらそうと思う。

 それにしても、コピーライターは、言葉にスルドイ。》

 コピーライターと広告批評家、持ちつ持たれつの関係とはいえ持ち上げられ過ぎました。持ち上げられたお調子者のボクは火の粉になって飛び、永田町を目指したのです。
 官邸に設けられていた投書箱 kantei にメールを送りました。

《 内閣総理大臣 福田康夫さま

 コピータライターの鈴木康之と申します。
 この夏の洞爺湖サミットで主要テーマの一つと予定されている「地球温暖化」について取り急ぎ申し上げます。

 「地球温暖化」はアル・ゴアさんの緊急提言「Global Warming」を誰かが日本語に直した訳語ですが、日本の自然感覚を分かっていない者の誤訳です。四季ある日本人にとって「温」も「暖」も「温暖」も、心地よい漢字であり、恵みを表しさえする言葉です。
 タイヘンだという響きがありません。キャンペーン用語としてはボツにすべき不適切訳です。

 ゴアさんはキャンペーン・フレーズ「Global Warming」に語呂合わせのサブフレーズ「A Global Warning」を併記し、警告の気持ちをこめて叫んだのです。政治家、ジャーナリスト、知識人、学者たちが誰1人としてそこに気づかずに毎日繰り返し使っています。首をかしげざるを得ません。
 現在発売中の『広告批評』誌で天野祐吉さんは、「地球温暖化」がここまで行きわたってしまってはもはや手遅れかも知れないが、鈴木が提言しているとおり「地球加熱化」と言い直すことにする、と書いています。

 福田総理は先ごろ、まことに無神経な役人言葉「後期高齢者医療制度」の不適切さに気づかれ、通称として「長寿医療制度」と改めさせられました。
 遅まきながら果敢な世直しでした。

 「Global Warming」問題はまだまだ続く先の長い問題です。いまからでも遅くはありません。洞爺湖サミットのような、国内外の目が注がれるこのタイミングが願ってもないチャンスです。
 議長国のリーダーとして日本での訳語の改正をセンセーショナルにメッセージしてくださいますように。

 心から。》

 反応はありませんでした。政府、省庁、新聞・テレビの旧態依然によって「地球温暖化」は既定感を増しただけで、気づいている者には嘆かわしい結果となりした。
 ならばとお調子者の懲りないボクはTBSの朝のワイドショー「みのもんたの朝ズバッ!」にも書簡を郵送しました。こちらも反応はなし。

 民主党政権になったときもチャンスでしたが、暮らしに追われていて機を逸しました。戦争を放棄した平和国家だと讃えながら「国家戦略」などという戦時用語を役所の名前に用いるような語感乏しい政治家たちには、言っても通じない話だったでしょう。

 日本各地での超異常気象は太平洋のエルニーニョ、インド洋のダイポールモード、南北極地での氷解激化、海水面上昇などと原因を一にして巡り巡って連鎖しています。

 最近テレビで某政治家がラグビーのにわかファン丸出しで「地球は一つといいますように環境問題もぜひワンチームで」と得意げに話していました。「地球は一つ」には「地球は一つしかない」という危機感のある解釈があるのであって、そのほうにはさっぱり頭が回らない能天気人種。

 政治家よ、マスコミ人よ、学者よ、なぜもっと心配性にならないのですか。

 1952年に日本で公開されたイタリア映画で少年と少女の性教育メロドラマ、その象徴的なタイトルを思い出します──『明日では遅すぎる』。

 人の地球との性教育は「もう遅すぎる」でなければいいのですが…。

 (元コピーライター)

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