【コラム】酔生夢死

お上に決定を委ねる民主

岡田 充

 「屋外では、周りの人との距離が確保できなくても会話をほとんどしない場合には、(マスク)着用の必要はない」 コロナ対策としてのマスク着用について、政府見解が発表(5月20日)された直後のNHKテレビ・ニュースの内容だ。
 コロナ感染を防ぐ上で、マスク着用が効果的なことは誰もが知っている。でも人通りの少ない屋外での着用の是非までお上に判断を仰ぐって、なんやねん! 極端な話、人通りのない砂漠を歩く時、あるいは同乗者のいない車を運転する時でも、政府方針がないとマスクは外せないというのだろうか。
 これ、自分の判断で決める問題じゃないの? 判断基準は「感染防止」。なのに「空気」を読んで「同調圧力」に従うのが習い性になっている。お上の決定が出るまで、マスクは外せない滑稽な「コンセンサス」に支配される。

 個人主義が強い欧米社会からすれば、「これって民主?」という疑問がわくに違いない。コロナの爆発的感染の中でも、マスク着用を拒否する人の割合が約半分を占め、ワクチン接種の強制に反対して、国境の橋をトラックで封鎖する社会からすれば、個人の判断を放棄し、お上に政策決定を委ねるのは「専制」にみえるのではないか。
 ことほど左様に「民主主義」の中身は多様で普遍性はない。民主には「法の支配」「複数政党制」「自由と人権」など、制度的要件はあるけれど、運用方法や政策決定のプロセスは千差万別。文化や伝統が、民主の性格と内容を決定するのだ。

 5月末、日本を初訪問したバイデン米大統領は、ウクライナ戦争や対中政策で「民主か専制か」の二分法的選択を各国に迫った。これになびくのは、外交・安保政策の決定権をほぼ米国に委ねている日本ぐらいのもの。空疎な「理念」より「実利」から政策決定するアジア諸国の多くはなびかない。

 マスク着用に話を戻す。多くのメディアは政府決定を大々的に伝えたが、自己決定権を放棄し判断を政府に委ねるあり方自体を問題視する報道は見なかった。政府に決定権を委ねるのを、メディア自身が当然視していたことが分る。これじゃあ、政治を含め、あらゆる政策決定を政府にからめとられても文句は言えまい。

 日本赤軍元幹部の重信房子さんが、20年の刑期を終えて出所した時、「今一番感じていること」を聞かれ、ウクライナのゼレンスキー大統領の国会演説を挙げながら「国民はそうでなくても、政治家が一方向に流れているというのが実感」と答えた。
 同感だが、彼女の意見と異なるのは、同じ方向に流れているのは政治家だけではなく、国民もそうなりつつあるという点だ。日本社会は今、政治も世論も一方向へと流れる「翼賛化」が進んでいると思う。メディアが政府と一体化して「世論」作りをしているためである。1930年代の日本のように。

 (共同通信客員論説委員)

(2022.6.20)
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