【コラム】槿と桜(50)

お米とことわざ 韓国と日本

延 恩株

 韓国も日本も米(穀物)を主食とする民族ですから、私たちの食生活上、お米は切っても切れないものとなっています。稲を収穫するまでには、田の準備から稲刈りまで、つまり春先から秋まで、およそ半年という長い時間が必要です。最近は機械化が進んだとは言っても、稲作に従事する人びとの苦労は大変なものです。稲の出来具合は日照時間、雨量の多寡、気温の高低、湿度の高低といった天候から、肥料、害虫、稲の病気などまで、それぞれが微妙に絡まり合いますから半年間は気が休まるときがないはずです。

 近代化される以前、韓日両国とも農耕が中心の生活でしたから、米など農作物の生産を主な柱にしていました。そのため韓国や日本の人びとの意識の中には、今でもお米への愛着と、その存在感が非常に大きいことは間違いありません。その証拠というと変ですが、お米は我々が生きていく上で欠くことのできない重要な食物という認識から、韓国、日本、そして中国にもまったく同じことわざがあります。
 ○「벼는 익을수록 고개를 숙인다」(ビョヌン イグㇽスロッㇰ ゴゲルゥㇽ スギンダ)がそれです。「稲は熟すほど首を下げる」という意味です。日本では「実るほど頭をたれる稲穂かな」と言いますし、中国では「成熟的稻穗低着头」(チョンシュウ デ ダオスイ ディジャ トウ 成熟した稲穂は頭を下げる)と言うようです。

 韓国も日本も、田が身近にあり時期ごとに変わる稲の匂いを知ることなど、今や都会に住む限りできなくなってしまっていますが、かつては秋になると実った稲穂が重そうに垂れている姿をごく当たり前に目にしていたはずなのです。
 ですから人間の生存を支えてくれるお米はありがたい、感謝の対象となっていました。それにもかかわらず、お米は実るほどにかえって頭を垂れていきますから、その姿に人間は一種の感動を覚え、人間の生き方に引きつけて、学ばなければならないということわざが生まれていったのではないでしょうか。
 稲作文化を培ってきた遠い昔の人びとが韓国、日本、そして中国で共通した稲への感慨を持っていたことを教えられたようでなんだか嬉しくなります。

 ところで韓国には、お米は素晴らしい食べ物だという認識があるからこそ今でも使われている次のようなことわざがあります。
 ○「밥이 보약이다」(パビ ボヤギダ)
 直訳すれば「ご飯が補薬だ」となります。きちんとご飯を食べるような食事をすれば、何よりも身体に良いわけで、そのほかの薬や栄養剤などは必要ないという意味です。

 さらにお米が常に傍にある食べ物だったことから、とかく他人のことが気になる人間の習性と結びつけた、次のようなことわざもあります。
 ○「남의 밥에 든 콩이 굵어 보인다」(ナメ パべ ドゥン コンイ クㇽゴ ボインダ)
 字義通り訳せば、「他人のご飯に入った豆は大きく見える」です。
 日本では何か特別な日でもないと、小豆の入ったもち米のお赤飯など作りませんし、うるち米に豆を入れたご飯というものもあまり作らないようです。でも韓国では比較的よく豆ご飯を作ります。入れる豆は黒豆や小豆、大豆などさまざまです。そのため、お米と豆を結びつけた、生活感覚十分な格言ができ上がったのだろうと思います。

 日本では現在は「隣の芝生は青い」という言い方で、「自分のものより他人のものの方がよく見える」ことを表すときに使います。でもこの格言が日本の風土から生まれたものでないことは、容易に想像がつきます。もともとは「The grass is always greener on the other side of the fence」(フェンスのあちらの草は常にグリーンだ)という英語の日本語訳が定着してしまったようで、それまで使われていたはずの日本らしい表現が後退してしまったのは残念な気がしています。
 今でも使う人はいるようですが、かつては「隣のぼた餅は大きく見える」、「内の米の飯より隣の麦飯」といった言い方が主流だったようです。でも最近、日本でこれらの表現があまり使われなくなった理由も容易に想像がつきます。今や「ぼた餅」も「麦飯」も日々の生活に密着した食べ物ではなくなってしまい、「芝生」の方がより身近な存在になってしまったからでしょう。

 ところが韓国では今でも上述しました「남의 밥에 든 콩이 굵어 보인다」と同じ意味で、
 ○「남의 떡이 커 보이다」(ナメ トギ コ ボインダ)とも言います。
 直訳すれば「他人の餅は大きく見える」ですから、日本の「隣のぼた餅は大きく見える」とほとんど同じ言い方です。日本であまり使われなくなった表現が韓国では現在進行形なのは、お餅が日常の食生活で大変身近な食品だからです。ちなみに韓国のお餅は、普段食べているうるち米から作ったものが主流です。この点は韓国と日本のお餅の大きな違いだと言えます。

 そのほかにいくつかお米を使ったことわざを、あまり説明を加えずに紹介しておきます。
 ○「밥값을 하다」(パッㇷ゚カブㇽ ハダ)
 「ご飯の値段がする」という意味から、それ相応の働きをするといったときに使います。
 ○「밥이 입으로 들어가는지 코로 들어가는지」(パビ イブロ ドゥロカヌンジ コロ ドゥロカヌンジ)
 「ご飯が口に入るのか鼻に入るのか」という意味ですが、気持ちが焦って、気が気ではないようなときに使います。
 ○「밥 먹고 하는 일」(パッㇷ゚ モッコ ハヌンニㇽ)
 「ご飯を食べてやること」という意味から、日頃からきちんとするべきことをする、というときなどに使います。

 ところでお米を多めの水で柔らかく煮たものがお粥(お米だけでなく、麦、そば、芋、豆などでも作ります)ですが、韓国ではお粥も大変身近で、ごく日常的な食品です。お粥は日本では病気をしたときや胃腸の調子が悪いときなどに食べるものと思っている人が多いようで、その点は韓国とは大きく異なります。

 お粥(죽 チュㇰ)とご飯(밥 パㇷ゚)が日常的な食べ物だからこそ、この2つを比較するようにして使うことわざが多く生まれても当然でしょう。たとえば、
 ○「죽도 밥도 안 된다」(チュㇰト バㇷ゚ト アンデェンダ)
 「お粥にもご飯にもならない」という意味です。中途半端な状況を表現するときに使いますが、この言い方でしたら日本の方にも理解できるのではないでしょうか。韓国ほどではないにしてもお粥も食べられているのですから。日本では「帯に短し、たすきに長し」が同じような意味で使われているようです。
 ○「죽이 되든 밥이 되든」(チュギ デドゥン パビ デドゥン)
 「粥になろうがご飯になろうが」という意味で、結果はどうなるのかわからないけれど、それを受け入れるしかないといったときに使います。日本でしたら「賽は投げられた」「あとは野となれ山となれ」あたりになるのでしょうか。
 また次のようなことわざもあります。
 ◯「쑨 죽이 밥이 될까」(スン チュギ パビ デㇽカ)
 意味は「粥はご飯にならぬ」で、確かにご飯をおかゆにしたら、もうご飯には戻せません。体験から生まれたことわざとも言えそうで、日本では「覆水盆に返らず」「後の祭り」になるでしょうか。

 お粥に関わることわざはまだほかにも多くありますが、日本で「朝飯前」と言えば、物事が簡単にできると言った場合に使います。「お茶の子さいさい」とも言いますが、若い人ならことわざでなく、「楽勝」「余裕」などと言うかもしれません。

 韓国にも「朝飯前」と同じ意味のことわざがありますが、興味深いのは、韓国人に大変身近なこれまで見てきた食品を使った表現がいくつかあることです。たとえば、
 ○「식은 죽 먹기」(シグン ジュッㇰ モッキ)
 「冷めたお粥を食べる」という意味ですが、日本の方なら冷めたお粥は美味しくないのになぜ「朝飯前」の意味に使われるのだろうかと思われるかもしれません。
 確かにお粥は熱いものが美味しいのですが、熱いですからゆっくり食べるしかありません。でも空腹のときには早く食べたいですから、冷めたお粥の方が一気にいっぱい食べられるということから、このようなことわざが生まれたのでしょう。

 次の言い方も日本的に考えると、「お行儀がよくありません」とお叱りを受けそうな表現ですが、
 ◯「누워서 떡 먹기」(ヌウォソ トッㇰ モッキ)と言います。
 「横になってお餅を食べる」という意味です。ちょっと変な表現ですが、人間にとって横になるのは楽な姿勢です。またお餅は韓国人の食べ物としては、これまた手軽に手に入ります。そこでこの2つを結びつけて「簡単にできる」ということわざになったのではないかと私は思っているのですが。

 今回はお米に関わることわざをほんの少し紹介しました。ことわざは一般の言葉以上に、そこで生活している人びとの共感を呼ばない限り、長い命を保つことは難しいようです。
 ですから同じお米という食べ物を使っても、韓国と日本のことわざに違いが生まれるのは当然とも言えます。
 そしてもう一つ、はっきりしていることがあります。それは言葉と同じように日々の生活から離れていくにしたがい、ことわざも使われなくなっていくということです。逆に言えば使われなくなったことわざ(言葉)は、その時代を知ることができる歴史の証人にもなり得るということでしょうか。

 (大妻女子大学准教授)

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