【コラム】槿と桜(115)

くすぶる女性徴兵制

延 恩株

 韓国に徴兵制度があることは、日本でもBTSの入隊を巡って話題になっていましたから知らない人は少ないと思います。
 1948年8月15日に大韓民国(韓国)が成立した翌年の1949年8月に兵役法が制定され、1952年には徴兵制度が実施され始めました。
 この間に兵役法は何度か改正されてきましたが、現在、男性は満18歳で徴兵検査対象者となり、19歳になる年に心理検査、身体検査、適性分類、その他の兵役判定の検査を受けます。判定は1~7級に分かれ、1〜3級までは「現役(現役兵)」、4級は「補充役(社会服務要員)」、5級は「戦時勤労役」、6級は「兵役免除者」、7級は「再検査対象者」となります。そして、1~4級者は、満20歳~28歳の誕生日を迎える年までに入隊することが義務づけられています。ただし2018年の兵役法改正で事情に応じて、延期が可能になり、さらにBTSの入隊延期を巡って2020年12月1日には国会が大衆芸術の優秀者に限って国家への貢献度が高いと判断された人材は28歳までの入隊の期限を30歳になる年の年末まで延長できる兵役法の改正案を可決しました。そのため韓国内ではこの改正を「BTS兵役法」と呼ぶ人もいます。
 なぜ「大衆芸術の優秀者」に限るのか、「優秀者」と誰が判断するのかなど、私にはこの「BTS兵役法」には疑問符がつきますが、本題から外れますので今回はこれ以上触れないことにします。

 検査に合格して入隊しますと、陸軍・海兵隊は18カ月、海軍は20カ月、空軍は21カ月の服務期間があります。この約2年間は一般社会とは隔絶されるため、社会の変化や最新情報に触れ、それに対応することができなくなります。しかも軍人としての訓練を受けることが目的ですから給料は毎月せいぜい5~6万円程度です。多くの男性はおよそ2年間という時間が社会との関わりという点では行動が奪われ、失われてしまうと言っていいでしょう。
 20~28歳という年齢は日本の大学生で考えてみますと、専門領域の学びと社会人として巣立つ準備期間、そして社会で活躍を始めた時期にあたります。この貴重な時期を兵役に取られてしまうため、国も徴兵制が生み出す不平等を解消する制度として、1961年から「軍加算点制度」というものを取り入れました。公務員採用試験や教員採用試験、公企業採用試験、一定規模以上の民間企業の採用試験等を受験する際に兵役期間が2年以上だった者には得点の5%、2年未満の者には3%を加算するという除隊軍人を支援する法律がありました。
 しかし、1999年にこの制度は徴兵制度の対象者ではない女性(志願して入隊した女性は除く)や徴兵検査で基準に満たない人や障害者などへの社会的な差別であり、平等権を侵害しているとして、憲法裁判所は違憲判断を示したため、この制度は廃止されました。

 一方で韓国の社会状況を見ますと、1990年代になると民主化運動が盛んとなり、あらゆる領域で見られた男女差別、格差にも目が向けられ、女性運動でも目覚ましい成果を上げるようになってきました。その時々の政府も対応を進め、1995年にはすべての領域で男女平等と女性の発展をうながす「女性発展基本法」が制定されました。さらに1999年には「男女差別禁止法」が制定され、2000年には女性議員数のクオーター制(女性議員数を30%まで引き上げる)が導入され、2001年には国の組織として「女性部」(「部」は日本の「省」に当たる)が創設されました。2005年にはこの「女性部」は「女性家族部」に改編され、女性の地位向上だけでなく、家族政策、女性政策、保育政策など幅広く女性問題に取り組むようになりました。
 このような韓国の女性を取り巻く社会状況は、女性の高等教育進学率の高まり、女性の飛躍的な社会進出、さらに国によるさまざまな女性に関わる政策が後押しとなって大きく変容し、改善されてきています。
 その結果、男性は社会に出て働き、女性は家庭内で家事・育児といった性別分業による家族のあり方から、女性の経済的自立、女性自身の自己実現、さらには家族よりも個人を優先する生き方も可能となってきています。もちろんすべての女性がこのような選択をするわけではありませんが、結婚しない女性、子供を産まない女性が増加してきているのは事実です。

 しかし、このように男女の平等化が推進され、さまざまな生き方が可能となりつつある女性たちを目にしてきている男性側からすれば、男女不平等を理由に「軍加算点制度」が廃止されましたから、除隊後の社会復帰では女性より不利になるとの声が一握りだとしても上がってくるのは避けられませんでした。そうした声に連動するように女性に対する徴兵制導入について徐々に関心を持つ人が増えてきています。
 2006年と現在とでは、韓国の女性を取り巻く状況はかなり違っていましたが、この年にすでに男性だけに兵役義務を課すのは性差別で、憲法に違反しているという憲法訴訟が起こされていました。憲法裁判所はこの訴えに対して2010年になって憲法に違反していないとして訴えを「棄却」しました。しかし、このときの裁判では9人の判事のうち2人が憲法に違反しているという「違憲」の判断をしていました。
 また、文在寅前大統領時代には直接民主主義の実践ということから「国民請願掲示板」が設けられていました(現在は廃止。尹錫悦現大統領は「国民提案」を設け、システムを変更)が、その掲示板に女性に兵役の義務を課すべきという請願が何度も繰り返されて出されていました。そして2021年には30日間で20万人以上の同意という条件を満たし、政府や大統領府が請願に回答することになっていましたので、「国民的共感と社会的合意を得るための十分な議論が必要」として女性徴兵制を否定していました。
 2010年の違憲訴訟棄却以降も何回か男性のみの徴兵制は違憲とする訴訟が起こされてきましたが、2023年9月の訴訟でも、やはり兵役義務は男性のみとして、性差別には当たらないと訴えを「棄却」していました。
 でも、この女性徴兵制がくすぶり続けている背景には、単に「軍加算点制度」の廃止に対する反発だけでなく、フェミニズム運動の台頭や異常な少子化といった社会問題も絡んできているのです。

 たとえば、「イデナム(이대남=20代男)」現象と呼ばれている状況が存在しています。「イデナム」とは、反フェミニズムを主張する20代の男性を指した言葉で、「差別を受けているのは女性ではなく男性」との認識を持っています。このような男性が韓国の20歳代男性のたとえ少数であっても男女平等化のためのさまざまな政策に反対し、フェミニズム運動に反対する集団としての声になっているのです。
 「イデナム」にとって「徴兵制」は男女不平等の象徴と映っています。なぜなら男性が兵役終了までのおよそ2年間、自分の時間を失ってしまうのに、女性はその間に早く社会に出ることができるからです。男女平等を訴えるフェミニスト運動が盛んになり、その成果を女性たちが手にすればするほど、若い男性が徴兵制に不平等を感じ始め、男女平等を言うなら女性も徴兵制を受け入れるべきだとの主張になるわけです。

 20歳代の男性がこうした発想をする背景には韓国の激しい競争社会があります。現在の韓国では、若者は深刻な就職難に直面していて、就職競争は激烈で、たとえSKY(韓国の三大名門大学のソウル大学、高麗大学、延世大学)出身者でも安閑としていられないほどです。そのため、就職で少しでも有利になるように早くからインターンシップ制度の利用や資格の取得などに取り組まないわけにいきません。
 さらに金のスプーン、泥(土)のスプーンなどという言葉が象徴していますが、生まれながらに横たわる格差社会への不満、その裏返しとしての誰もが同じ土台に立って競争できる「公正な社会」を特に若者たちは強く求めることになります。20〜30歳代男性の正規職就労が容易でないことが大きな要因としてあるのは言うまでもありません。

 また、最近の少子化現象も女性徴兵制への言及につながっています。
 2024年2月28日 、韓国統計庁は2023年の「合計特殊出生率」が、0.72だったと発表しました。一昨年の0.78から0.06ポイント下がって過去最低を記録して8年連続の下降となって少子化に歯止めがかかっていません、去年1年間に誕生した子どもは約23万人で10年前の半分近くにまで減少しています。
 さらに30歳代の未婚率は2020年に男性で初めて5割を超え、女性は30%台に上昇し、およそ30年前の8倍以上にもなっています。
 徴兵を所管する兵務庁によれば、1年に必要とされる兵士は20万人で、このままでは遅くとも2032年以降は維持できなくなると予測しています。そのため、現在の兵力規模を維持するには、兵士の服務期間の延長や女性の徴兵、職業軍人の大幅な増員などが必要だとしています。しかも、出生率の低下によって軍務に適していない人まで現在では徴兵対象となっていて軍の質が落ちているとも言われています。

 男性だけに義務化されている徴兵制、軍加算点制度の廃止、フェミニズム運動の中で強まってきた男性を潜在的な加害者と見なす空気などから、差別を受けているのは男の方だと捉える「イデナム」のような人びとや少子化による兵士不足を懸念する人びとなど、女性徴兵制度導入にまだ少数とはいえ、目が向けられ始めているのは間違いありません。
 このような状況を掴んでいるからこそ、政府は2024年1月30日に国防部の報道官が記者会見で、兵士不足の対策として女性の徴兵制を求める主張が一部にあることを認める一方で、慎重に検討して決める事案であり、女性の徴兵制を検討したことはないと語っていました。
 どうやら現時点で韓国に女性徴兵制が導入されることはなさそうです。多くの韓国人が女性徴兵制は時期尚早と見ているのでしょう。でもこのまま少子化が続いていきますと、女性の徴兵制導入の声が強まってくる可能性は否定できません。

 大妻女子大学教授

(2024.4.20)
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