中国単信(6)

ふたたび「子どもを救え」 

南雲 智

 日本では「微小粒子状物質」との名称もあるが、「PM2.5」と言った方がわかりやすいだろう。人間の呼吸器系に沈着して、健康に影響を及ぼすとされている物質である。粒子径が2.5マイクロメートル以下であるので、こう呼ばれる。髪の毛が70マイクロメートル程度の太さらしいから、その約30分の1の微小粒子である。

 今や中国の専売特許のように、マスコミなどで報道されている観が強い。ただし、PM2.5だけではないのだが、大気中の汚染物質濃度の高い地域は中国だけではない。北アフリカ、中近東、インドそして中国と世界地図を広げると、横一線状にその地域が広がっているのがわかる。

 しかし、なんと言っても中国での量の多さと、汚染範囲の広域度は群を抜いている。しかも日本へ飛来してきているだけに、中国のPM2.5に対して、日本人が非常に神経をとがらせているのはやむを得ないだろう。

 「PM2.5」などの深刻な大気汚染に苦しむ北京について、中国の政府系研究機関が「すでに人類の居住に適さないほどのレベルに達している」と指摘している。ただそれは北京だけに限られていないのは言うまでもない。また中国社会科学院は、PM2.5などの大気汚染で「死亡率が上がり、呼吸器や心臓の悪化を招き、生殖能力と免疫にも影響を及ぼす」との見解を示している。李克強首相が今年2月12日の閣議で「国民の心臓と肺の憂いを取り除く必要がある」と強調したのも大いに頷ける。

 有害物質を含んだ大気汚染が、それを生成する一国に留まらず、国境を越えて広範囲に及ぶからこそ、日本でも神経質になっているのだが、日本以上に悪影響を被っているのが韓国である。それは昨年12月上旬、北京での私の体験が再認識させてくれた。

 北京に滞在した3日間のうち、2日間は太陽がオレンジ色にぼんやり見え、まるで濃いもやに覆われたような市街地だったが、その2日目の午後から強い風が吹き始めた。夜には気温も氷点下近くにまで下がって、マスクを通して白い息がわかるほどだった。そして翌朝。抜けるような青空が上空に広がっているではないか。半日以上の強風が北京の汚染された大気を吹き飛ばしたからにほかならない。

 北京でもこれほど美しい青空が見られるのだと嬉しくなり、身体までがきれいに洗われたような思いになったのだが・・・。あの汚染された大気は消滅したわけではないのだから、どこへ行ったのか。

 その答えは韓国である。みごとに連動していて、即座に影響が出てくるのは、北京とソウルが日本よりずっと近いからである。北京で強風が吹き始めるや、韓国では次第にPM2.5の観測値が上がり始め、翌日のソウルでは、北京で体験したような大気汚染の様子がテレビに映し出されていたのである。

 大気汚染は地球全体、つまり人類生存の問題として私たちに重い課題を与えているように思う。中国は環境先進国と手を携えて「国のかたち」を再形成する必要に迫られてきている。しかし、現在の景気を刺激して経済成長率を7〜8%維持しようとする経済政策を放棄しないかぎり、その転換は難しい。

 ある政府高官は汚染の根本的な原因が中国の非合理的なエネルギー構造などにあると認めた上で、石炭や石油の消費を抑える対策を進めていくと強調したという。もしこれが本当に実現できたなら、中国の環境や大気汚染解消につながる道が開かれるかもしれない。

 だが一つ、気になることがある。それは一般の人びとの考え方の変化である。改革開放政策、経済成長政策は、人びとに物質的、金銭的な豊かさと、それに伴う個人的な潤いを与えた。だが必ずしも精神的な豊かさをもたらしはしなかったのである。次のような二つの戯れ歌は、極めて冷めた目で、中国人の意識の変化を苦々しく見ている人びとがいることを教えてくれる。

  金の儲け方知っているが、生き方わからなくなった。
  寿命は延びているが、生きる楽しみ増えていない。
  宇宙まで征服したのに、内心世界征服する術なし。
  清浄な空気知っているが、自己の魂汚されてしまった。
  自分の収入大きく増えたが、道徳水準大きく落ちた。

  体格大きくなったが、品行地に堕ちた。
   利潤大きくなったが、友情薄くなった。

  家は立派になったが、家庭は崩壊した。

 こうした金銭第一主義や利己主義が跋扈する限り、環境や大気汚染問題がなおざりにされるのは明らかだろう。
 それでは最近、ネットで見つけた、次のような、大気汚染を俎上にあげた、こばなしを紹介しよう。

 「北京の人がスイスに旅行した。スイスについて飛行機から降りて新鮮な空気を吸ったら、頭がくらくらして倒れてしまった。救急車で病院に運ばれると、医者が車の排気ガスを詰め込んだ袋をその人に吸わせたら、回復した」

 「北京とハルピンの人がそれぞれ故郷の大気汚染の深刻さを自慢しあっていた。北京の人が「天安門広場から見ても、天安門楼上に掛けられた写真の毛沢東の顔が見えない」と言うと、ハルピンの人は「財布の百元札を取り出して目の前にかざしても、お札に印刷された毛沢東の顔が見えない」と言い返した」
 ネット上ではこれらのこばなしを自虐ジョークとして紹介している。中国人みずからが自国の大気汚染のひどさを、こうしたこばなしに仕上げているのだから、自虐と言えなくもない。

 しかし、すでに紹介した戯れ歌もそうだが、やはり揶揄、皮肉、批判といった中国人が長い歴史の中で培ってきた含意が、その言葉遊びの中に潜んでいるように思う。むろん自分の身に危険が及ぶかもしれないことを巧みに避けながら、痛烈に時の政権の政策を批判したり、抵抗したりするためでもある。

 そしてもう一つ忘れてならないのは、金銭第一主義を優先し、利己主義に走るようになってしまった中国人への揶揄、皮肉、批判にもなっていることだろう。
 今から百年近く前、儒教道徳が中国人を食いつぶす元凶として糾弾し、「子どもを救え」と叫んだ魯迅の言葉が、久方ぶりに思い起こされる。
  PM2.5を含んだ大気や環境汚染が中国人だけでなく、人間を食いつぶす元凶になろうとしている現在、あらためて叫ばなければならないのかもしれない。「子どもを救え」と・・・。

 (筆者は中国文学者)


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