【日本の歴史・思想・風土】

もうひとつの敗戦後論を

室伏 志畔
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 九〇年代の後半に加藤典洋は『敗戦後論』(講談社刊)を著し、そのねじれについて云々したことは今も記憶に新しい。広島・長崎に原爆が落とされたように、日本人の上に日本国憲法の草案をアメリカは落としたのである。その強制が問題とされる一方、新憲法をありがたがる他方を生んだところに、現在まで続くところの戦後ねじれがあり、日本人の間に人格分裂を生むことになったと加藤は言う。つまりそこにアメリカの強制を見たものは自主憲法の制定を唱え、擁護さるべき普遍性を新憲法に見たものは護憲論者となって、半世紀以上も対立してきた。しかし、それは日本人の半身同士の対立なのだと加藤は言う。

 それは現在、享受されている自由と繁栄は、戦後七年に及んだアメリカの占領なしにありえなかったが、その屈辱を見まいとする防衛機制が、お上を中心に、敗戦を終戦と言い換える姑息な動きを戦後生み出してきた。

 政府はアジア諸国との友好関係を維持するためには、大戦における二千万人のアジアの犠牲者に謝罪するほかないことを、仕方なく承認するほかなかったが、その立場表明は、アジアを侵略した自国の三百万人の死者への弔いと両立させることができない矛盾に突き当たった。そのため事あるごとに閣僚の間から、先の戦争を聖戦とする本音が飛び出し、慌てて政府は諸外国に謝罪するというみっともない図を繰り返してきた。

 加藤はそれを、自国の三百万人の死者を通して、アジアの二千万人の死者の弔いをする公論理の構築を通しての公共の場の創造なくしてはありえないとした。それは靖国神社の戦犯を含む英霊と広島の犠牲者を同時に弔う場の設定が難しいのと同じである。そのため死者は公然と選別、差別されるほかない状態が今に持ち越されている。
 私はこの加藤の敗戦後論に概ね賛成しつつも、異和があるとすれば本邦における「もう一つの敗戦後論」の欠如を指摘すれば足りる。それは今次の敗戦後論のねじれ以上の、王朝交替を隠した驚くべき古代敗戦によるねじれなのだが、日本人は大和中心の皇統一元の記紀史観の洗脳にあって、何も見ていないのだ。

◆ 一.白村江の倭国敗戦

 それはほかでもない六六三年の白村江での倭国敗戦(図1)である。この戦いは朝鮮三国の争乱に、新羅が唐を呼び込んだため半島は激震し、六六〇年に百済が、六六八年に高句麗が滅亡する。その間の六六三年に百済再興を期した倭国が余豊璋を擁立し、唐・新羅に対し白村江の海戦で唐軍に倭軍が大敗を喫したことにある。『旧唐書』はそれを「煙焔、天に漲り、海水、皆、赤し、賊衆、大いに潰ゆ」と倭国軍の壊滅を簡潔に記す。しかし、正史『日本書紀』はこの古代の倭国敗戦を大和朝廷の外交関係における失策程度に扱い、全く敗戦の危機感を示さない。そこにある秘密を史家は探ることなく、敗戦の真実を見逃してきた。
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  (図1 白村江の戦い)

 しかし、この白村江の倭国敗戦によって九州王朝・倭国は激動し、この敗戦から四〇年近くして、七〇一年に倭国に代わる日本国がそそり立つに至った秘密を、今に至るまで見逃して来た。それは「倭国はかつての日本国の亦の名」とした正史の詐術に陥り、倭国から日本国への王朝交替を見逃したことにある。加藤の『敗戦後論』もその線上にあるため、古代敗戦後論に言及することなく終わり、その欠点を引き継ぎ近年の白井聡の『永続敗戦論』(太田出版)もあるわけだ。

 しかしこの敗戦によって九州王朝・倭国は解体に向かい、それに代わり日本国・大和朝廷が本邦の盟主に取って代わる王朝交替があったと、日本古代史を東アジア史に開き、我々は認識を新たにしてきた。実際、六六三年の白村江の倭国敗戦から七〇一年の日本国の成立までに、六六七年の近江遷都、六七二年の壬申の乱と激動し、列島の天下の中心は唐の占領化に置かれた九州から畿内に移ったが、通説はもとより九州王朝説さえもが、古代敗戦後論を大和朝廷内の天智・天武の皇位継承争いとする記紀史観の流れの内に見てきた。

◆ 二.唐の倭国占領と筑紫都督府

 九州王朝説の古田武彦は、壬申の乱の舞台を九州にとしたが、主舞台はやはり近江湖畔で、天智が六六七年に近江に移るまでは、天智・天武が九州にあったことを、大和一元史観にある我々は見逃して来た。『日本書紀』は斉明が六六〇年の百済滅亡の報を聞き、天智・天武を同道し、大和から九州に向かったとする。それは正史一流の詐術で、彼らは九州の原大和の倭(やまと)を中心にあったので、倭国の百済復興の支援のため、行宮を九州の朝倉宮に構えたわけだ。
 そのとき唐は六六〇年に百済を破り、熊津ほか馬韓、東明、金漣、徳安に、唐制の占領機関である都督府を設置し占領支配した。また六六八年に唐は高句麗を破ると、安東都督府を設置し、高句麗を占領している。その唐が白村江で倭国を破ると、翌六六四年に唐使・郭務悰を派遣したことを正史は記す。それは倭国占領政策の遂行で、その郭務悰が帰唐する六七二年に至る九年間、九州王朝・倭国は唐の占領下に置かれた。
 この一事を正史『日本書紀』は、「倭国は日本国のかつての亦の名」とすることで、倭国から日本国への王朝交代を隠した。日本国の初見は六七一年で、その主体は天智の近江朝であるが、その近江朝に天武は翌六七二年に鉄槌をくれている。いわゆる壬申の乱である。壬申の乱は通説や九州王朝説がする天智・天武系の皇位継承争いではなく、唐に取り入り倭国に代わる日本国の立ち上げをはかった傀儡政権・天智皇統に、倭国側の天武が鉄槌をくれた倭国対日本国の戦いであったのだ。

 倭国の首都であった九州の太宰府の都府楼跡を訪れると、否応なく都督府古址の石碑(写真2)を見ることができる。それは白村江で倭国軍を壊滅させた唐の占領機関・筑紫都督府がそこにあったことを物語る。それは九州王朝・倭国の存在証明で、倭国王家が唐の占領下に置かれたことを疑うことができない。それは今次敗戦で皇居前の第一ビルに連合軍総司令部(GHQ)が置かれ、天皇制が温存されたのとちがい、倭国の王都の中心に唐の占領機関を置き、倭国権力機構を完全解体したことを意味するが、歴史家も思想家もそれを一切、見ることなく、列島王権の王朝交替を見逃して来た。なんという体たらくか!

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  (写真2 太宰府の都府楼跡・都督府古址の石碑)

◆ 三.唐の傀儡政権・日本国

 この敗戦後の唐の倭国占領という混乱が、天智を九州の朝倉宮(写真3)から六六七年に近江大津に走らせのだが、『日本書紀』はそれを畿内大和からの近江遷都と嘘をこね、それが朝倉宮の変での斉明崩御と天智称制に接続しあったことを隠すために、朝倉宮の変を六六一年に造作し、切り離した。この朝倉宮の変は、斉明・天智皇統が白村江の戦いで唐に通じ、倭国軍を助けることなく見殺しにしたことが明らかなったため、倭国残党の復讐にあったのである。天智は命からがら近江に逃亡したことを隠すために、『日本書紀』は先のごとく変と近江遷都を切り離した。

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  (写真3 朝倉橘廣庭宮跡)

 その朝倉市にある朝倉宮址を訪ねると、隣接して朝闇<アサクラ>神社があり、朝闇はチョウアンと読め、長安寺址もある。この唐信仰は敗戦後の倭国権力機構の解体の裏で、皇統勢力が唐の覚えがめでたかったことを語り、白村江の戦いで皇統は唐に通じ、戦後、唐の手を借り倭国に代わる日本国の建国を目論んだのである。この謀略が戦後四年して明らかになり、六六七年に朝倉宮を襲われ、斉明は崩御し、天智が近江に逃亡したわけだ。しかし、『日本書紀』はこの天智の近江逃亡を招いた朝倉宮の変と天智称制を六六一年に造作したのには、もうひとつの意味が隠されている。

 それが六六〇年の百済滅亡の翌年であることは、天智ははや列島で百済復興の先頭に翌年に立ったとするもので、天智皇統が百済王統であることを忍びやかにここ宣言していたわけだ。しかし、倭国残党の皇統への追求の手は厳しく、朝倉宮の変の二年後の六六九年には中臣鎌足の死が、六七一年に天智崩御が記され、六七二年に壬申の乱が勃発し、近江朝が灰燼に帰した。なぜ、唐はこの皇統の雪崩を打つに似た瓦解の危機を救わなかったかは、このとき唐が吐蕃との戦いに破れ、半島と列島から唐軍を引き上げざるを得ない緊急事態に追い込まれていたことにある。

 天武の六七二年の旗挙げが唐使・郭務悰の帰国から一ヶ月を待たずにあったことは、唐の近江朝への救援がないことを見越して、倭国側の天武が立ち上がったことを意味し、唐の傀儡政権樹立をはかる天智皇統の日本国に鉄槌をくれたわけだ。勝利後、天武が新羅使・金王実に船一艘の宝を送ったことは、新羅が天武勢力に加担したことを物語る。

 ともあれ唐による倭国占領の恐怖は、天武をして畿内大和の新天地で、倭国を再興する大和朝廷をここに実現したが、それは倭国再興を当然、九州でと疑うことなかった倭国住民を心底、裏切るものであった。これが天武崩御後の敗戦後の第二ラウンドの背景となった。

 六八六年に天武崩御するや持統は称制を引き、大津皇子を処刑し、皇統系譜を天武系から持統に流れた天智皇統系譜に、持統は藤原不比等の手を借りねじった。その十五年後の七〇一年に大宝を建元し、日本国がそそり立った理由はここにある。その間に、六八六年の大津皇子の変と六九六年の高市皇子の死は、倭国勢力の粛清であるが、それが皇統一元史観にあってぼかされている。なかなか日本国が立ち上がらないのは、列島盟主の象徴たる三種の神器が皇統に入らなかったためで、七〇一年の大宝建元の大宝は三種の神器の獲得を意味し、誇らしげに語るものだが歴史家は気づかない。列島は悠久の昔から皇統支配にあったわけではないのだ。

 古代敗戦後論を無視した現在の敗戦後論では、王朝交替を伴った列島王権の流れを皇統一元史観の流れを引き継ぎ語るもので、敗戦後論は白村江の倭国敗戦から生じた日本国誕生の根源から語り直す必要があるのだ。いつまでも『竹取物語』をお伽噺に貶め、それが九州王朝の「竹斯(筑紫)盗り物語」の寓意であることに気づかない馬鹿によって、かぐや姫はUFOに乗って月に帰ったと吹聴させておいていいわけはない。(2017.7.1)

 (幻想史学の会主宰)

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