わが心の支柱・加藤宣幸さんを追悼する

久保 孝雄

 2月18日夕方、加藤さん逝去の報が入ったのは竹中一雄さんからだった。闘病中の妻に野菜ジュースを作っていた私は、一瞬愕然として作業を止めた。米寿を超えた身で介護生活7年、厳しい日々が続いているが、いつも心の支えになってくれていたのが加藤さんだった。90を超えてなお矍鑠として高度に知的作業である政治理論誌の編集に没頭しておられる加藤さんの姿は、まさに「人間国宝級」(竹中さんの評)であり、私にとって最大の励ましでもあった。今その心の支柱が突然倒れた。しばし呆然するしかなかった。

 ここ数年、私が都心に出られないため、加藤、竹中の両氏が日吉まで来てくれ、初夏、晩秋の2回、懇談の機会を作っていただいていた。場所は慶應日吉キャンパスの銀杏並木の奥にある「ファカルティラウンジ」—加藤さんはここをとても気に入ってくれていた。会食後は新緑の中、または落ち葉を踏みながら別棟に移り、仄暗いイギリス風パブで懇談を続けた。一昨秋の懇談の後、「枯葉舞い、黄金の落ち葉敷きつめる最高の場所、最高の酒、最高の懇談—素晴らしいひと時を有難う」のメールをいただいた。昨秋は妻の体調が思わしくなく、懇談の機会を持てなかったのが悔やまれてならない。

 いつか加藤さんに介護生活におけるメンタルケアの話をしたことがある。加藤さんはすかさず「それは一番難しいが一番大切なことです。しかもそれはあなたにしかできないことです。私にも経験があるが辛くとも頑張ってください」と励まされた。この言葉が今も心の糧になっている。

 政治の面では、加藤さんは私の社会党入党への仲介者であり推薦人だった。私は外語大在学中、共産党に入党し、除名や復党を経験したのち、スターリン批判直後に28歳で離党し、佐藤昇さんとともに社会党構造改革派(江田派)の加藤さんはじめ貴島、森永、舟橋さんらとの交流を深めていた。そこへ降ってわいたように私の取手町議選への出馬問題が起きた。茨城で小学校教員をしていた女性と結婚し、東京・中野から取手に移り住んだとたん、町長選に惜敗したばかりの高橋英典さん(全学連初代書記長、この時、実家で家業を継いでいた)に強引に口説かれ、町議選に出る羽目になった。

 無所属は嫌で社会党公認をとるため党籍をとるべく加藤さんに頼んだ。選挙ポスターの推薦人に江田さんの名前までもらった。その結果30人中8位で当選してしまった。多くの友人が冷笑気味だったが、竹中さんが「政治やるなら町議からがいい」といってカンパを集めてくれたのがうれしかった。のちに長洲神奈川県知事の補佐官になった時、最大のレガシーだったのが、一期4年の町議体験だった。確かに「地方自治は民主主義の学校」だったし、政治の原点があった。

 竹中さんは加藤さんを「人間国宝」と言ったが、船橋成幸さんは「怪物」と言った。「あの年であの明晰な頭脳と行動力。彼は怪物だ」と。「安倍内閣の前に死んでおけばよかった。しかし今は安倍を倒すまで死ねない」と言っていた船橋さんも逝ってしまった。「ボクは間もなく女房のところに行くが、こんな世の中にした責任を問われたら何と言えばいいんだ」と嘆いていた伊藤茂さんももういない。

 夢の中でもいい。もう一度加藤さんを囲んで、みんなで「最高の場所、最高の酒」で「最高の懇談」をしたいと、切に想う。

 (元神奈川県副知事、アジアサイエンス協会名誉会長)

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