【横丁茶話】

カバラのこと—神の劣化

西村 徹


●ボルヘスにいざなわれて

 カバラのこと、などといっても何も知らないも同然である。テレビの放送大学で「表象文化研究」というのがあって、なんとなく15回通して見た。というか聴講した。ミシェル・フーコーの『言葉と物』という本がたいへん重要視されていて、講師のうち三人が三人ともに、読みこんで十分にくたびれた Les mots et les choses 原本を披いて見せた。その本はその「序」の初っ端に「この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ」とあった。そしてフーコーは「序」の半分をボルヘスに費やしている。しかし放送大学の講義はさかんにフーコーには触れてもボルヘスには触れなかった。

 フーコーの序を読んで、横好きの私は先ずボルヘスを読んでみたくなった。ボルヘスが、二度も来日している名だたる英文学者でもあることを知らずにいたのだから私がいかに怠惰であったかということでもあるが。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの本は、集英社の「二十世紀の文学」というシリーズで『伝奇集』というのを知ってはいた。「ユダについての三つの解釈」という数ページだけは、ユダに立つ瀬のあるらしいのが小気味よくて、膝を打つ思いで読んだのだったが、あとは歯が立たずツンドクしていた。

 このほど気分を改めて岩波文庫の『七つの夜』というのを読んでみた。これは小説でなくて講演集だから取っつきやすく、たちまち私はハマってしまった。わかる、わからないというのでなくて、ほとんど酩酊とか陶酔とかいうに近い快感の伝わってくるものだった。とりわけ第四話「仏教」はなんども繰り返し読んだ。老耄ゆえにすいすいと頭から抜けていくからでもあるが、繰り返しても、繰り返しても新しかった。たぶん、本当はよくわかっていないからかもしれない。だから面白いのかもしれない。

●カバラはちょっと仏教風、というか密教風

 第六夜の「カバラ」という言葉は、どこかで見た、たぶんユンクの『ヨブへの答え』のなかでのことだったと思う。それだけのことで、それ以上は縁遠い感じで読まずにいたが、今にしてふと読む気になって驚いた。これは、これは、ほんとにおもしろい。おもしろいといっても分かるからではなくて分からないのにおもしろいのだ。ちょうど真言密教が、分からないのにおもしろいのと似ているかもしれない。というわけで「カバラのこと」など大きく出たのだが、カバラについて知るところはこれでおしまいである。ボルヘスから抜き出してみる。

 まずボルヘスが西洋人にとっては頗るショッキングなこととして挙げているのは「カバラにおいては、文字の方が先であり、神が道具としたのは文字であって、文字によって意味を成す言葉ではないと想像されている」ことである。なるほどこれは非科学そのもの。経験則に真っ向から反している。しかしこれも、つい神人同形同性説の罠に落ちているからであり、言語史の真理は人間にとっての真理にすぎず、ベヘモットやレヴィアタンのように人には不可測の、怪獣まがいの神には当てはまらないのかもしれない。

 また、ひとつには、仏教の、宗派によるのかもしれないが、位牌や卒塔婆の天辺に梵字を書いたり、時代は新しくなるが、お筆先など、書をありがたがったりする慣わしがあって文字をありがたがるのには私たちは割合に馴染んでいる。写経などといって意味などそっちのけとは言わないが後回しで、般若心経を書き写して枚数を積み重ねることをよしとする風もある。だからカバラが神の道具として文字を優先することに私たちは西洋人ほど驚きを感じないのかもしれない。

 第六夜でなく第五夜「詩について」の初めに出てくるのだが、「スペインのあるカバラ学者は、神はイスラエルの人間ひとりひとりのために聖書を作った。だから読者の数だけ聖書はあるのだ、と言いました」とある。これもそんなに驚かなくても普通に理解できる。それに続いて「このことは、もしも神が聖書の作者であると同時にその読者各々の運命の作者でもあると考えるならば、認めることができます」まで読めば、ますますよく理解できる。

 「わが神」という言い回しからもわかるように、神は人間ひとりひとりが想像するもの、つまり心理状態なのだから、ひとりひとりの顔立ちや表情がそれぞれ違うように、ひとりひとりの頭の中の、神のイメージも違っていて不思議はない。ただし、他人のそら似というものがあり、「ところ変われば品変わる」を裏返した程の集合的類似はありうるだろう。「ところ」に加えて「とき」も働くだろう。その程度の括り方はできても結局個人によってそれぞれちがうだろう。聖書でなくても読者の数だけ本はあるとよく言われる。

●神は、存在しない存在である

 第六夜「カバラ」冒頭で「カバラという名で知られる、多様にしてときに矛盾しあう一群の聖典解釈原理」とボルヘスも言ってくれているので、神はあると言ったり、ないと言ったりしても驚かなくてもよい。まず初めにプレロマとかいう十全なる神がいたという。その神は限りなく豊かだったが、「エン・ソフ(神)は私たちにとって限りなく貧しいものとなる」という。豊かだった神が貧しくなるというのははなはだ興味深いが、その詳細に入る前に神の「存在」論が続いていて、これまたおもしろい。

 「その神について私たちは、それが存在するとは言えません。なぜなら、それが存在するというのなら、星も存在するし、人や蟻も存在するからです。それらが同じ範疇に属することがどうしてありえるでしょうか。もちろんありえない。その基本的な神は存在しないのです」という。思考することも、欲することも、働くこともない。存在しないのなら当然だろう。無限である神が「自分と混同されるかもしれない別の無限なる神以外の何を創り出すことができるでしょうか」という。尤もだと思う。

 「しかし不幸にも世界の創造が必要であるため、十の『流出』、セフィロートがある。それは神から生じますが、神より後というわけではありません」となると、もはや目がまわってわけがわからなくなる。なぜ「世界の創造が必要」だったのか、そもそもそれが分からないが、「それら十の流出を常に保ち続けてきた永遠の神という概念を理解するのは困難です」とボルヘスも言う。ボルヘスにも困難なことが私に容易であるはずはない。そのうえ十の流出といっても複数の流出が繰り返されて最後には365の天が塔を作っているというのも三千大千世界にくらべればスケールは小さいが。

 しかし、初めに豊かだった神がいたというところに戻って考えると、神が流出して貧弱になるというのは、けっこう納得できる話だと思う。発電された電気が送電線から漏れて次第に減衰するのに似ている。万物は朽ちる。個人的にも末路とか末期とかいうが、現世についても末世とか終末とか、たった今の世界状況に照らしても辻褄が合う。「そして最後の流出、神性がゼロに近いその流出に至るとき、私たちは、この世界を創造した、エホバという名の神と出逢うことになります」と、ボルヘスは書き、段落を改めてこのように断じている。

 「どうして彼は、こんなにも多くの過ち、こんなにも多くの恐怖、罪、肉体的苦痛、罪悪感、犯罪に満ち満ちたこの世界を創ったのでしょうか。それは、神性が、次第に少なくなっていきながらエホバに到達し、そのとき、誤りを犯しがちなこの世界を創ったからです」と。ボルヘス自身が相当に強い共感を込めて綴っている。「恐怖、罪、肉体的苦痛、罪悪感、犯罪に満ち満ちたこの世界」とは、なんと生々しく現実のおぞましさを描き出していることだろうか。

 その世界というのは「誤りだらけで、不幸にさらされ、幸福は瞬時しか味わえないそんな私たちが住む、この世界です。これは不合理な考え方ではない。フロイトは『ヨブ記』を、ありとあらゆる文学における最大の作品とみなしていますが、その中で見事に扱われている、悪という永遠の問題と、私たちは向き合っているのです」と。悪の存在という問題を、このカバラの「流出」はなかなかうまく説明しているように思う。

●悪は積極的な何かである

 悪は消極的で、単に善の欠如であるというのは間違いで、「いかなる肉体的苦痛も、あらゆる快楽と同じくらい、あるいはもっと生き生きとしています。不幸は幸福の欠如ではない。それは積極的な何かである。自分が不幸である時、そのことをひとつの不幸として感じる」のは、初めにあった豊かな神が劣化に劣化を重ねて、なれのはてのエホバという、最劣等の神がこの世を創ったのなら納得できるというものである。

 ソクラテスは臨終のとき「生きることは長患いをすることだ」と言ったという。つまり長生きは不幸の長期化だと言ったわけだが、個々人の不幸以上に悪の存在を如実に感じさせるのは、今起きているガザでの、シリアでの、またイラクでの悲惨である。レバントといわれた土地、多くは聖書に出てくる、多少なりと聖書に接近したことのある者なら、日本文学でいう歌枕に当たる由緒深い土地の被っている悲惨である。ガザといえば先ず想起するのはエロチックでもありヒローイックでもあるサムソンとデリラの物語であり、サン=サーンスの同名オペラであり、ジョン・ミルトンの「闘技士サムソン」の「ガザに盲いて」の一節である。

 これらの土地で起きていること。とりわけガザで起きていることの直接の原因はイギリスの三枚舌にある。とにもかくにもオスマン帝国の緩やかな支配の下に保たれていた平和をぶち壊したのはフランスとロシアも噛んだ、しかし主要にはイギリスの三枚舌であった。それはそうなのだけれども、人間がこんな酷い殺戮を繰り返してきたについて、巨大軍事産業のあるかぎり、これからもますますそれは激しいものになるであろうことについては、神性のもっとも衰弱した段階でこの世が創られたというところで納得せざるをえないように思う。

●神は育ちつつある

 以上で一巻の終わりかというとそうではないらしい。未熟な神は育ちつつあるというのだ。「流出」という教説にはついていきかねる「けれども、不完全な神、この世界を不適当な材料でこね上げなければならない神という概念なら受け入れられます」とボルヘスは言う。「私たちは、寛大で、しかも知的で、明晰であるなら、たぶん神の成長の手助けをしているのです」と言う。

 その証拠にアレキサンダーの時代には勝者は捕虜を皆殺しにし、占領した都市を焼き、破壊しつくしたが現代の捕虜は収容所に入れられる。行きつ戻りつではあるが人類は少しづつ進歩しているとボルヘスは言い、そして、「ありとあらゆる被造物は、長い転生の果てに、かつてそれが現れ出たところの神性と、ふたたび混じり合うことになるのです」とカバラの章を結んでいる。

 なにしろ第七話「盲目について」のなかで「憎しみなしで暮らしていくことは容易です。なぜなら憎しみを感じたことがないからです」というような、怨憎会苦から生来自由な聖人だから、またこの講義を行ったのが1977年のことだからで、到底凡俗の私には、この最後の楽観論には付いていけない。しかしボルヘスには、なにやらつい笑ってしまうしかないような後味のよい飛躍があって、つまり、理屈抜きに言葉、文章の美があって、ついついこんなラプソディーを書いてしまったというわけである。 (2014.8.10)

 (筆者は大阪女子大学名誉教授)


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