【コラム】槿と桜(40)

ガラスの天井

延 恩株


 「ガラスの天井」という言葉、日本で比較的記憶に新しいのは、昨年のアメリカ大統領選挙でトランプ氏に敗れたヒラリーさんが、支持者を前にこの言葉を使ったときでしょうか。
 「極めて高くて、強固なガラスの天井が打ち破られませんでした。でもそう遠くない将来、誰かが実現してくれるはずです」と演説したことがマスコミなどで取り上げられていました。ヒラリーさんには、女性に対するアメリカ社会に存在する差別意識への異議申し立てがあったと思われます。

 でも日本ではこの言葉、マスコミなどでもそれほど多く使われていないようです。そのせいか、流行語には敏感な学生たちの口からもほとんど聞こえてきません。

 それでは「ガラスの天井」とは?
 英語の「glass ceiling 」の訳語です。働く女性が職場でその女性の資質や成果が評価されず、昇格・昇進が妨げられている状況を指す言葉です。ただヒラリーさんが使った「ガラスの天井」には、マイノリティー差別なども含んだ、大きな女性差別の意味があったと思われますが。

 ところで韓国では、この「女性に対する差別意識」が日本以上に強く存在していると私は感じています。私が日本で生活しているだけにいっそう、それを強く感じるのだろうと思います。
 韓国には「ガラスの天井」という言葉を持ち出すまでもなく、伝統的な家父長意識が依然として色濃く残っています。つまり生活そのものに浸透しているわけですから、家庭の外で働く女性に対して、さまざまな障壁が立ちはだかるのは当然かもしれません。

 2017年3月8日の「世界女性の日」に、国際労働機構(ILO)などの資料に基づいて『フィナンシャル・タイムズ』が公表した韓国の男女の賃金格差は、2015年で37%だったそうです。韓国の女性は男性に比べて約4割近く、賃金が安いことになります。
 平均的数字とはいえ、女性が上級職位に就き、高額賃金を得る人が大変に少ないこと、また出産・育児などでによって職場を離れざるを得ないケースが多々あるらしいことを数字は伺わせてくれます。

 一例を挙げますと、韓国統計庁が2017年2月27日に「2015年人口住宅総調査」を公表していますが、職場からの退職理由として結婚時より妊娠・出産を機に退職した女性の割合が高く、特に35~39歳では43.4%にも上昇しています。
 会社勤めの30歳代は、これから上級職位へ昇っていく年齢で、男性は結婚してもそのまま勤務し続けられますが、女性は育児に時間が取られ、子どもの面倒を見てくれる家人もいない、保育施設などにも預けられないとなれば、退職、あるいは休職に追い込まれてしまうのでしょう。
 この数字からは、いま述べた出産・育児という状況で働く女性をサポートする社会的制度や仕組みが整備されていない韓国社会がいみじくも映し出されています。

 また2017年10月19日の『中央日報』(日本語版)には、アメリカのコンサルティング会社マッキンゼー社の調査を参考に、韓国の「女性役員の比率」が、男性10人に対して1人で、なんでもアメリカやオーストラリアの7分の1以下だったとのことです。
 つまり男性に比較して、給料が安い、上級職者数が少ないという現実は、狭い意味での「ガラスの天井」という要因だけではないことがわかります。

 ところで、2017年7月24日付けの『ハンギョレ新聞』には「女性長官30%「ガラスの天井」破る道しるべに」という社説が掲載されていました。
 文在寅(ムン・ジェイン)大統領が長官(大臣)の30%を女性に割り当てるという公約を掲げていていて、公共機関での女性幹部登用の拡大が一般企業に存在する性格差の解消につながり、韓国社会の「ガラスの天井」を破る道しるべになることを期待するというものです。

 この公約実現に向けて、文在寅大統領は外交部長官にカン・ギョンファ氏、環境部長官にキム・ウンギョン氏、女性家族部長官にチョン・ヒョンベク氏、国土交通部長官にキム・ヒョンミ氏、雇用労働部長官にキム・ヨンジュ氏、国家報勲処長(長官級)にピ・ウジン氏など女性を大臣に任命しました。
 社説はさらにこうした文政権の積極的な女性登用が、韓国の企業や公的機関にありがちな〝彩りを添える〟程度という発想の転換になることを期待していました。

 確かに韓国は男性と比べて賃金、雇用率、上級職者数など、いずれも「ガラスの天井指数」は、2017年3月現在、経済協力開発機構(OECD)加盟国中で最下位という不名誉な地位に甘んじています。ちなみに日本も「ガラスの天井指数」は韓国に次いで2番目の悪さです(『中央日報日本語版』)。

 つまり女性の社会進出を妨げる「ガラスの天井」がもっとも頑丈な国、それが韓国というわけです。この「ガラスの天井指数」は、賃金、雇用率、上級職者数だけでなく、高等教育と企業等への参加率、賃金と育児費用、女性と男性の育児休業といった10項目によって判定されたとのことです。

 ハンギョレ新聞社説はさらに、世界経済フォーラム(WEF)の昨年度報告書によると、144カ国中、韓国の男女格差指数は116位、類似職種の賃金格差は125位、管理職の比率は114位、女性長官の割合128位と最下位圏だとして、雇用上の男女平等実現はもはや先送りできないとしていました。
 この社説が、女性長官の多数登用が男女平等の実現に向けた政府の意志を広報するだけにとどまってはならないと主張するのは当然でしょう。でも私が気になるのは、政府と公共機関が女性の差別的雇用慣行の改善に積極的に乗り出すことで、手本を見せれば企業も社会全般の雰囲気も変わるだろう、と結んでいることでした。
 政府が率先して差別的な雇用慣行を改めたという手本を示せば、企業や社会全般の雰囲気が変わるとするのは、あまりにも安易で、楽観的過ぎるように思います。

 つまり単に女性を雇用するだけでは、韓国の「ガラスの天井」指数は下がりはしないからです。その女性にとってどれだけ働きやすい環境を政府や公共機関が整えられるのか。制度的な平等だけでなく、意識変革がどれだけできるのか。それを手本としてどのように国民に実践してみせられるのかがなければ、とても「道しるべ」などにはならないだろうと思うからです。

 では女性にとって「安心して働ける環境」とは何か、です。職場での女性差別意識の排除は当然でしょう。でももっと根源的で、決定的なことがあります。それは女性には出産、そして一定期間の育児という男性とは決定的に異なる点があることです。こうした男女の大きな違いを乗り越えて、女性が家庭と両立させて安心して働ける環境、制度上の整備ができてこそ、初めて女性の「安心して働ける職場」へと繋がっていくのでしょう。
 そのためには出産・育児に男性も参加できる制度だけでなく、日々の家事にも男性が関われる、さらには医療・介護等々あらゆる面での男女共同参画が当たり前と誰もが思うようになる韓国という国全体の意識大変革が必要になると思います。

 すべての女性が安心して出産が可能な、女性を優先させる意識の変革と制度的に整備された社会の実現こそが「ガラスの天井」を打ち壊すことにつながっていくはずです。でも現在の韓国社会を眺めると、私のこのような思いは単なる絵に描いた餅になってしまう恐れは否定できません。

 そうだとすれば、文大統領に直訴したくなります。「男性にはできない『出産』が可能なのは女性だけなのですよ」と。

 (大妻女子大学准教授)

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