【コラム】
ケニア・タイ二都物語―国連で25年~南の国から大好きな日本へ~

ケニアのシングル・ペアレンツと信仰

大賀 敏子

◆ 日本人は気の毒だ

 オルタ広場31号のムハンマド風刺画事件とフランス社会についての記事(鈴木宏昌氏と荒木重雄氏)は、政教分離、表現の自由など、信仰と社会の関係について改めて学ぶ機会となった。

 ケニア人は一般に信仰心があつい。「神様が……」という言葉が、日常生活によく出てくる。5,257万人口の半数以上がクリスチャン、次に多いのがムスリムだ。
 3月6日に最初のコロナウィルス感染者が報告されると、ケニヤッタ大統領は、何よりも先に「国じゅうで神に祈ろう」と国民に呼びかけ、3月21日を国を挙げての祈りの日と定めた。憲法では信仰の自由を定めている。このため、大統領公邸で開かれたメインイベントでは、バランスに配慮して、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教の指導者らが集まった。どの神かは自由だが、それぞれの信じる神に、同じ日にいっせいに祈ろうという趣旨だろう。

 これが日本だったらどうだろう。社会一般に宗教色がうすい。「みんなで祈りましょう」と呼びかけられても、どの神も信じていない人も多い。このことを話すと多くのケニア人に「それは気の毒に」と言われる。なぜ気の毒なのか。

◆ 早朝の求職願い

 ナイロビでは大きな空の下に暮らせる。視界をさえぎる高層ビルが少ない。南緯一度と赤道直下ながら、1,600メートルの高地なので、一年中冷涼で快適だ。ことに早朝の美しさは筆舌に尽くしがたい。東の空が朝焼けに染まったその次の瞬間、樹々の間から幾千もの金糸のような朝陽が届く。

 早朝のランニングで、ほぼ毎日一緒になる女性が声をかけてきた。どうしても話を聞いてほしいと言うので、走りながら応じた。予想どおり、仕事を探してほしいという依頼だ。ジョイという名の26歳で、郷里の母親に二人の子供を任せてきた。子供の父親のことは「あんな人、追うだけムダ」と言う、シングルマザーだ。何ができるのか問うと、
 「何でもできます、掃除とか洗濯とか」

 外国の料理を作れる、ケーキやパンを焼ける、看護ができる、フランス語や中国語を話せる、といった特技があるわけではないようだ。このような求職者は、残念ながらたくさんいる。
 「あのガイジン(筆者のこと)に声をかける勇気をくださいと、ずっと神様にお願いしていた」そうで、携帯番号をもらい「心に留めておく」と告げたら、安心したのだろうか、その後、ジョイはランニングに来なくなった。

 ケニアの子供のおよそ三人に一人(31パーセント)が、シングルペアレンツに育てられている。世界の統計では、国ごとに10~25パーセント程度だから、ケニアではやや多い。離婚、死別もあるが、婚姻関係外での出産も多いとのこと。国民の6割近くが25歳以下という若い国だ。ジョイのような境遇の若い親とその子供は、社会の一大勢力だとも言える。

◆ シングルペアレンツたち

 筆者の友人のアミーは二児のシングルマザーだ。父親は妻帯者で、「離婚するから」と言うの信じたわけではないが、はっきりさせるのも怖くて、口論を繰り返しながら付き合った。幸いアミーは仕事を得て、経済的に安定したことが、勇気と自信につながった。4人兄弟姉妹の末っ子で、シングルはアミ―だけだが、高齢の母親を引き取った。メイドがいるから、家事育児を手伝ってもらいたいからではない。親孝行なのだ。「夫は海外単身赴任中だ」とごまかすことが多いが、産んだことは「神様からの祝福のしるし」だと誇りに感じている。

 別の友人のモナは妊娠のために学校を続けられず、次に妊娠したときは、せっかく手にした仕事を失った。父親は、貧しいうえに飲酒癖があって頼りにならない。たまに農園で日雇い仕事をもらっては、食費にあてる。子供の学費にはまとまったお金が必要なので、教会や兄弟に頼ったり、筆者にSOSを出したり。賢い人で、ぎりぎりに困窮するまでは泣き声をあげない。栄養不良からくるカルシウム不足で、30代の若さだがひざを痛めた。地域の伝統に従い、子供のころ女性器切除も受けたとのこと。女性であるが故の苦労をまとめて背負ってきたように見える。しかし、モナ本人は「神さまは必ず良くしてくれる、神様のことが大好き」と、前向きだ。

 数は少ないが、シングルファーザーもいる。配偶者またはガールフレンドが、子供を置いて出て行ったという男性を何人か知っている。子供のことは「神様からもらった宝物」と言って、仕事も家庭も大事にするパパたちだ。子連れの女性と一緒に住んでいたが、その女性が別の男性の庇護を求めて出て行ってしまったので、血のつながらない子を育てている人もいる。

 ケニアでは年間数千人の赤ちゃんが捨てられているという。病院から産んだ母親が姿を消したり、文字どおりゴミ箱に捨てられていたり。若すぎて、病身で、貧しくて、など、事情はいろいろだが、数千の捨て子の事実の裏には、数千の出産がある。
 女性たちは、父親がいようがいまいが、経済的条件がいかなるものであろうと、育てる見込みがあるかどうかにかかわらず、ともかく産む。
 女性たちがけな気だから、おおらかで寛容だから、いや、のんきだから、と言う人もいるが、そうだろうか。特別な事情がないかぎり中絶が違法であり、また信仰もこれを禁止しているから、仕方なしに産まざるを得なかったのかもしれないが、それだけだろうか。

◆ 最高の支え

 人類は多産多死を経験しているので、多くの宗教が多産奨励の考えを内包している。ここで紹介した人たちはほとんどクリスチャンだ。よく知られているように、聖書は、神が天地を創り、そこに人を置いた記事で始まる。そのとき神は「産めよ、増えよ」と指示した。教理をぜんぜん知らなくても、この最初の一ページだけで明白だ。産むことは神の意志にかなっているのだ。

 暴力を受けた場合も含め、出産に至る経緯はさまざまだから、すべての母親にあてはまるわけではない。しかしアミーやモナ、そのほかの知人と話すかぎり、こんな感じを受ける。男だったらさかだちしてもできないことを、女性であってもチャンスがなければきないことを、自分はやり遂げた、そうすることによって、神様に喜んでもらったのだと。これ以上の強い支えはない。アミーの言葉を借りれば「産むのは特権だ」
 特権とは周囲の人がそれを認めて初めて意味を成すのだから、社会性を帯びてくる。「私は産んでいないから関係ない」とばかりは言えなくなってくる。そもそも、ケニア国民のうち半分ちかくが貧困層だ。アミーのように経済的に安定している人ばかりではない。産んだはいいが、誰かが助けなければとてもやっていけない場合も多い。

 ジョイの郷里の母親はジョイの子を育てている。筆者の友人のジャックは、自分の子供はいないが、兄弟姉妹の子供、つまり、甥や姪三人分の学費を払っている。毎年一月は学費納入の負担で、ひいひい言っている。ジャックだけではない。多くの人、なかでも定収入がある人は、何らかの形で他人の子の面倒を見ている。そうしていない人を探す方が難しい。
 通りに一歩出れば、NGO、教会などが運営する孤児院がある。厳しい条件のなかで、なんとかやりくりしているところがほとんどなので、多くの人ができるかぎり支援する。普段は無理だが、年末だけほんのちょっと寄付する、あるいは、そこの子供たちが通りで遊んでいるのを見て、「車に気をつけなさい」と声をかける、そんなことも支援だ。

 女性が生涯に4.5人の子供を産むと推定される。出産の数だけ、その陰にはそれを助ける男女がいると言ってもいい。子供は社会の宝だ、だから、できるかぎり援助の手を差し伸べるのは、人間として当たり前だも言える。しかし、それだけだろうか。
 「産めよ、増えよ」が神の指示なら、母親たちと子供たちを助けるのも、神の意志に従うという意味を持つ。困っている人を助けてあげるという、上から目線だけにはとどまらない。信者なら、神という、もっと上からの「上から目線」を浴びているのだ。

◆ 自分より大事なもの

 「性と生殖に関する健康と権利」は、国連の持続可能な開発ゴールの重要な柱の一つだ。政府や国際機関のみならず、民間レベルでも、NGO、CSRを通じるなどして、この分野で貢献している人は、日本人も含めて、世界中に大勢いる。宗教を引き合いに出さずとも、人類共通の課題だからだ。と同時に、当事者にとってはプライベートな問題でもあるので、制度・政策ができることには限界があるし、単純化したべき論は不適切だろう。
 戦前の「産めよ殖やせよ」を思い出し、つい警戒してしまう日本人も多いかもしれない。宗教が特定の立場の推進に利用されると、人を抑圧する危険な事態を招きやすい。政教分離の原則は、痛い経験をしながらできあがってきたものだ。

 ただ、このようなことわりを全部つけたうえで、なお、人生の場面場面で「神様が……」と宗教を持ち出す人々が、確実に存在するのはなぜなのか。筆者は宗教、思想の専門家ではないし、ケニア人のことを、なかなか理解できないことも多い。ただ、よい関係を持ちたいと願っている個人でしかない。このような立場から、こう思うことがある。

 信仰は科学でも理屈でも道徳観念でもない。そのような、人間の小さな頭脳で考えるものではない。心のなかのいちばん大事なもの、と言うか、しばしば自分の存在よりずっと大事なものだ。普通なら自分が一番大事だと考えたくなるのに、自分以上の価値を持つものがあるのなら、それは当然に周囲の人間も、社会も、制度も大きく凌駕する存在だ。ならば、いいことも悪いことも、その存在にいっさいをゆだねてしまえばよい。これに気づいていることで、のびのびと解放されて生きる自由を獲得しているのではないか。冒頭で「信仰を持っていないなら、日本人は気の毒だ」と言われることがあると書いたが、このような意味かもしれない。

 年末は贈り物の時期だ。筆者にとってこれは何回目のナイロビでのクリスマスだろう。アミーにはカードを、モナにはお金を、近所の孤児院には食べ物を、ジャックには……と、リストを作っている。
 (*本稿に出てくる人は仮名。)

 (元国連職員・ナイロビ在住)
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