【自由へのひろば】

シャルリー・エブド社テロ襲撃事件とその後を巡る所感

リヒテルズ直子


 1月7日に起きたパリの風刺新聞社シャルリー・エブド社襲撃とその後のユダヤ系スーパーマーケットでの人質事件で、4日間に合計17名の市民犠牲者を出したテロ事件は、ヨーロッパに住む市民を、文字通り、恐怖と不安に震撼させる事件だった。

 しかし、その後の動きには、人々に希望を鼓舞させるものがなかったわけではない。日々刻々状況が変化する中、人々が、心に不安と希望の交錯を感じ続けた数日間だった。

 いずれにせよ、世界は今、途方も無い無政府状態にあることは確かだ。ヨーロッパに暮らすものとして、事件とその後の経過を巡って所感を寄稿させていただきたい。

●事件からこれまで(1月14日現在)のまとめ

 7日夜8時のオランダ公営放送のTVニュースで流された映像は、ヨーロッパの日常では想像を絶するものだった。それは、歩道に倒れ、片腕を上げて、おそらく「撃つな」と声をあげていたと思われる軽装備の警官を、黒い覆面の男が、至近距離からカラシュニコフで、あたかも虫でも潰し殺すように瞬時に銃殺する姿だった。銃殺映像は切り取られていたものの、直後に身動きが止まって息絶えた警官の姿は映し出された。

 シャルリー・エブド社に押し入り、いきなり受付の係員を銃殺後、階上で編集会議中だった風刺画家やジャーナリスト、スタッフら11人を半時間以内に殺害、近くで警備に当たっていた上記の警官を至近距離で銃殺したテロリスト2人は、この直後に車で逃走。全国的に緊急警備体制がとられたが、さらに女性警官1人が殺害され、この間、パリ北東郊外シャルル・ドゴール空港近くの町では、もう1人のテロリストが、ユダヤ系スーパーマーケットに人質をとって立てこもり、9日に、犯人らが警察と軍隊に包囲されて死亡するまでに17人が犠牲となった。
 テロリストらの襲撃は、イェーメンのアルカイダ、または、イスラム国(IS)の企図と資金供与によるとの見方が強い。

 シャルリー・エブド社襲撃事件が各国で報道された7日夜には、パリ市内のレプブリック広場では10万人に上る市民が抗議のために集まり、その後、他国他都市でも広場に市民が抗議のために集まった。抗議者の多くが、黒地に白文字で「私はシャルリー(Je suis Charlie)」と書いた紙や鉛筆を手にしていた。それは「(言論の)自由(リベルテ)」と同義であり、暴力反対と同義であることはいうに及ばない。

 事件を報道するメディアは、どこも、イスラム教徒とテロリストとを同一視することで、イスラム教徒への排斥運動がを惹起しないことを強く意識してか、積極的にイスラム教徒のコメントを取り上げた。彼らの多くが、「暴力反対」「テロリストとは無縁」を強調したが、モハメッドを題材とした風刺に対しては「行き過ぎ」「侮辱」との声も聞かれた。

 とりわけ、銃殺された警官がアハメッドというイスラム教徒の名であったことから、「アハメッド」はフランス共和国のための殉職の象徴となっていった。

 オランダでは、種々の政治家のコメントの中でも、ロッテルダム市長アハメッド・アブタレブのコメントが注目された。15歳でオランダに移住してきたモロッコ人でイスラム聖職者イマムの息子だ。労働党の政治家で、1998年には、多文化共生を目指した市民組織フォーラムを主宰、アムステルダム市の教育長時代には、イスラム教徒の生徒を集めてアウシュビッツを訪問するなど、オランダに在住するイスラム系移民の欧州史への啓発に寄与し、積極的に、異文化交流を促進してきた人物だ。のちに、ロンドン市長からも賞賛を受けることとなった彼のコメントは次のようなものだ。

 <私たちは、この国を、ジハード主義者から守るのだ。私たちは、彼らに身近かに迫り、その動きを監督し、逮捕して裁判にかけ、獄中に送る。だが、このジハード主義者の指導者らに打ち勝つには、このような声を彼らに届ける必要がある。そして、それは、主として、イスラム教徒の側から、挙げられるべき声だ>

 シャルリー・エブド社の襲撃から1時間後に緊急体制を宣言したオランド大統領は、犠牲者への3日間の国家追悼を決め、各国の首相や大統領級らに、15日日曜午後3時のデモ行進への参加を呼びかけた。当日行われたデモ行進の参加者数は、パリ市内だけで推定150万人、全国主要都市でも行われたデモへの参加者を含むと総計で350万人とも400万人とも伝えられる。パリでのデモ行進の先頭に立ったオランド大統領が、途中、シャルリー・エブド社に遺された社員や遺族を慰め、長く抱擁し、涙を共にしている姿は、最も印象深いシーンの一つだった。通常のデモとは異なり、参加者が警備の警官に親しく声をかけている姿も目立っていた。

●(言論の)自由は、暴力を抑止する法治を前提とするデモクラシーの基礎(共和国の原理)

 事件以後、フランスでも諸外国でも、メディアでは「法治」「自由」という語が繰り返された。フランスという、市民革命によって近代法治市民共和国を実現させた国が、テロによってその存在の根底を揺るがされたことは明らかだ。

 フランスは、ヨーロッパの中でも、国内に抱えるイスラム教人口が最も多い。また、パレスチナ問題のためにイスラム系テロリストが標的にするユダヤ人の人口も、アメリカ、イスラエルについで多い。さらにマリーヌ・ルペンを党首とする国民戦線が、先の欧州議会選挙でフランス国内の最大支持を得るなど、急進化するイスラム教徒を恐れて彼らを排斥する傾向も国内に根強くある。こうした、国内における立場の異なる市民の対立で、分極傾向が極めて強く、しかも、経済不況からの脱却が進まないオランド大統領指導下の政権の人気は地に落ちていたが、ルモンド紙などの記事を見ると、今回のテロ襲撃が呼び水となった300万人を超える抗議デモは、フランスの国家原理である「法治」「自由」の精神を絆に、政治的にも反テロ対策で一つにまとまるためのきっかけになったという見方が強い。

 1月14日、事件後初めて開催された国会でマニュエル・ファルス首相はこう演説し、野党政治家からも喝采を浴びたと伝えられる。
 <そう、フランスはテロリズム、ジハード主義、急進的イスラム主義と戦闘をしているのだ。フランスはイスラム教やムスリムと戦争をしているのではない。フランスは、今朝、共和国大統領も呼びかけた通り、これまでと同じく、フランスを、その市民を、信仰を持つ持たないとにかかわらず、同様に守る。この確信の下、共和国はテロリズムに対して、冷静に、しかしこれまで以上に強く対抗し、私たち自身つまり法治国家を尊重し、屈することなく戦う>

●風刺と侮辱の境界線はどこに?

 14日に発売された、事件後初のシャルリー・エブド紙の第一面には、悲しい顔をして涙を流しながら「私はシャルリー」と書いた紙を持ったモハメッドの姿と、その上に「すべては許される」という言葉が大きく描かれていた。

 しかし他方、「私はシャルリー」という標語を持っていた市民たちの声は、果たして積極的な「自由」の擁護だったのか、単なる「暴力反対」の意思表示だったのではないのか、また、果たしてすべての人が「私はシャルリー」と唱えることに賛成なのか、という疑問も、この新聞の発行への反応から明らかになった。

 市民の声に励まされ継続出版を決めた当社をリベラシオン紙が支持し、社屋の一部をシャルリー・エブド社に提供した。社の継続を願って資金寄付する市民や団体もあったと聞く。

 しかし、事件後初の風刺画に対しては、早速、「火に油を注ぐ」という批判が西側ジャーナリズムからもイスラムの側からも出された。オランド大統領の国家的な追悼への呼びかけに応じなかった学校が70校以上もあるとも言われる。

 銃弾に命を奪われたシャルリー・エブド紙の編集長シャルブは、「跪いて生きるより、立ったまま死にたい」という有名な言葉を残した。シャルブにとって、言論の自由を妨げる唯一の境界は法だけ、という態度が明らかだった。しかし、イギリスやアメリカの風刺は、自らの文化圏内の権威に向けられることが大半だという。多分カ・タ宗教への風刺、とりわけ、人々の崇拝の対象を風刺することには当然危険が伴う。社会の分断を促すリスクも大きい。風刺はそこまで踏み込んで他者を侮辱しても良いのか。

 だが、ここで立ち止まらずに、さらに考えてみるべき別の問題もある。シャルリー・エブド社や、彼らを今保護しているリベラシオン紙は、戦後、学生や知識人を中心に、西洋社会の権威主義を根底から崩壊させた学生運動、反体制運動の産物でもあるからだ。社会通念として厳然と存在していたタブーを戯画化し、社会内部の身近な問題を市民自身が議論の俎上に乗せ、社会の変革を進めてきた力の中で、風刺の位置は大きい。風刺は、暴力を使わないと宣言した中で、ユーモアの力を借りて社会批判をするヒューマニズムに則ったものだ。

 ある意味で、今、ジハード主義者、イスラム国の戦士として急進化している若者たちが、最も必要としている社会変革の道具は、他者に共感を呼び起こすユーモアであるはずなのだ。しかも、こうした若者たちが生まれてくる背景には、こうした風刺画家たちこそが目指す、より良い社会への変革を最も必要としている社会状況や経済状況がある。

 風刺画家たちが、生命の危険を超えてでも、モハメッドを題材にして突き抜けようとしてきたのは、西洋の市民が、王政や教会の権威に抑圧された封建体制を乗り越えて獲得した「市民社会」への道、啓蒙(目を見開いて問題の所在に気づくこと)に他ならないのではないか。

 「侮辱」につまずくイスラム教徒たちは未だに多い。その背景には、ヨーロッパに移民として暮らす彼らの、生きづらさの集積があるのではないか。風刺画からのような、また、かつて学生運動に走ったエリート学生たちのような、何をしていてもいずれ生きていく道を見出せる知的エリートとは異なり、テロリブムの温床は、移民たちという社会の底辺にいる、様々な意味で機会を剥奪された若者たちだということを忘れるわけにはいかない。

●見えない問題:グローバル化がもたらした貧富の格差・生きづらさの集積

 今回のテロ襲撃の犯人たちは、皆、フランス生まれのフランス育ち、しかし、同時に、パリ郊外の著しく失業率が高い地区の国籍混在の移民居住区の住民だった。かつて2004年にオランダの映画監督テオ・ファン・ゴッホを暗殺したテロリストも、オランダ生まれオランダ育ちのモロッコ系移民の子だった。彼らがテロを実行するまでに、彼らの人生にいったい何があったのだろう。彼らの周辺に「生きることは苦しみが伴うこと」や共感の大切さを教えてくれる愛情ある大人はいなかったのだろうか。

 都市化が、人間らしい育ちの環境を奪ってきたことは事実だ。核家族を超えた地域的に広がりのある伝統的な村落共同体では、「親はなくても子は育つ」、社会的なセイフティネットがあった。たとえ、生活が苦しくても、伝統的な互助の仕組みが、様々な文化にはあった。

 近代化と都市化は、利便さや物流の拡大の背後で、人間の助け合いの力による幸福から、金銭と引き換えのサービスで安心や幸福を手に入れる仕組みへの移行でもある。金銭を代償に、ほどほどの安心を手に入れることはできても、人と人との関係は希薄となり、孤独は増える。

 ヨーロッパの移民にとって、多くの場合、出身国と移民先の社会構造や社会意識には極端に大きな開きがあることは知られている。家庭の中の伝統的な価値観と、移民先のヨーロッパ社会の学校で学ぶ個人主義的な価値観、そして、中間の路上には確固としたモラルが不在の、人間の成長にとっては極めてリスクの高い環境があることも事実だ。

 産業や経済のグローバル化は多国籍企業による国境を越えた人々の富を貪り食うような営利活動と一部の大企業家への富の集中を生み、世界各地の国の国内で貧富の差を拡大させ、国と国の富の格差も拡大させてきた。

 そんな中で、都市の移民社会の底辺には、自分の生活を支えることだけで懸命で、他人の生活を省みることのできない人々が増える。中央集権的な教育制度の元で画一的な学校がまだまだ多いとみられるフランスに比べ、オランダは、こうした社会経済的にハンディキャップを背負った子供たちへの手当てが潤沢な方だ。それでも、そうした子ども達の中に、やがて、反社会的な意識を身につけていく子どもが少なからず見られる。

 それは、人間が、もともと、人間味のある社会関係の中で育つことを求める存在であるからなのではないだろうか。テロリズムを防止する根本対策は、貧困にあえぐ人を生まない体制を作ることでなければならない。風刺の対象は、モハメッドではなく、もっと他のところにあるのではないか。

●真のESD(持続可能な開発のための教育)とは何か

 シャルリー・エブド社襲撃事件からわずか1週間。しかしオランダでは、学校をサポートする種々の組織や団体が、この問題を生徒たちと学校でどう取り扱えば良いかについて、積極的に、支援の動きが始まった。

 何しろ、アムステルダムやロッテルダムなどの大都市では14歳未満人口の7割以上は移民だと言われている。シャルリー・エブド襲撃事件を巡る、「風刺か侮辱か」「言論の自由とは何か」「法治国家とは何か」といったテーマは、時事を取り上げることを義務付けられているオランダの学校の教室では避けることができない。だが、教室で、オランダ人の他に、イスラム系移民、非イスラム系移民、ユダヤ系オランダ人というように、立場が真っ向から異なる家庭背景を持つ子どもたちを前にする教師たちが、何百人もいる。しかも、難民として戦地を逃れてきた子どもたちが今もオランダには流入してきている。

 ある教育サポート機関は、ニュースレターで教員たちに以下のように呼びかけた。

 「生徒の中には、多くの暴力を経験したものがおり、その傷が癒えないまま、再びそれを思い起こす子供もいるでしょう。そのようなトラウマを引き起こす経験をした親を持つ生徒、現在戦火の中にありテロ攻撃に脅かされている地域に家族や友人を持つ生徒、自らの信仰や文化を通して今回の事件となんらかの形で他者よりも関係を深く持ちそのため家庭でも強く立場を迫られている生徒たちです。テロや戦争における暴力についての賛成・反対の議論は、そうした生徒にとってはどこか遠くのことではなく、身に迫る現実である可能性もあります。

 そして、だからこそ、おそらく最も重要なのは、私たちは常に、そして、保育や教育においては私たちの社会の子どもたちが、民主的共同社会に自ら進んで繋がりたいと思えるように努力の方向を定めていることです。取り上げるテーマがいかに複雑であろうとも、世界の問題に対して、私たちのできることがいかに限られていようとも、私たちが、それでも確かにできることは、こどもたちをわたしたちの社会に必要な限り結びつけるために貢献することなのです」

 教育は、効果が見えるまでに時間がかかる事業だ。人々の中には「社会がダメだから教育もどうしようもない」という人もいる。しかしそれでも、教育に手をつければ、確実に未来社会を変えることができる。前者は甘えた悲観的思考だが、後者は厳しくとも希望のある展望を生み出してくれる。

●自由と平等と博愛と

 「私はシャルリー」(=リベルテ(自由))を標語としたデモ行進は、私が住むハーグでも行われた。国会前広場にぎっしりと市民が集まったという。そこには、ファンアルツェン市長と国会付きの報道センター「ニュース・ポート」のオームケス代表の姿もあった。以下は、オームケス代表のスピーチからの引用だ。

 <この襲撃は私たちが良く知り心の中で大切に守っている社会に関わるものだ。私たちジャーナリストは、そして、今ここに集まっている皆さんもまた、シャルリー・エブド社の亡くなった仲間たちとともに、そして、彼らの遺族とともに、そしてまた、フランスのデモクラシーと共に生きている。12人の死を無駄にしてはならない。ジャーナリストらは、これまで以上に熱心に、報道の自由のために、そして言論の自由のために戦わなければならない。当市には、その価値を維持するためにニュース・ポートがある。ニュース・ポートでは、自由に討論が行われ、物事は徹底的に批判され、私たちは、言葉を使ってお互いに議論し合う。私たちは、お互いの意見を尊重し、お互いを尊重し、わたしたちの自由を大切に守り抜く。それは、これからも維持され続けなければならないし、自由な言葉は保護されるべきで共通の場を与えられるべきだ。>

 また同じ場で、ファンアールツェン市長は、オランダが誇る啓蒙主義思想家バルーフ・スピノザを引き合いに出して、こう述べた。

 <究極の野蛮。最も深刻な野蛮。昨日以来改めて意義を持つこととなったこの言葉。なぜなら、シャルリー・エブドの編集者たちへの血なまぐさい殺人行為は野蛮そのものだからだ。私たちの社会が存在している基盤の全て、スピノザがすでに何世紀も前に擁護したものに対する襲撃だった。それは、自分が考えたいように考える自由、自分が信じたいように信じる自由だ。そして、それを表現する自由だ。口を通して、音楽にして、ペンを使って、人を刺激する風刺によって、いかなる方法を使ってでも。たとえそれが、他の人に衝撃を与えるものである時も。たとえ、自分自身の意見に反するものであろうとも、表現することに自由の場を与えること、それこそが表現の自由の核心なのだ>

 こうして「表現の自由」についての発言を聞き、フランスの三色旗を見ながら、共和国の3つのスローガン「自由・平等・博愛」の言葉を思い出す時、今、テロリストの供給源になっているのが、ヨーロッパ大都市のスラム地域であるのを知る時、西側諸国によるイラク攻撃の過去、イスラエルのパレスチナ住民への暴力など、私たちが考え直さなければならない多くの問題が、西側諸国の方に確実に存在していることは否定できない。しかし、その西側には、他方で、綿々と続いてきた啓蒙と抵抗とヒューマニズムの歴史がある。

 他方「言論の自由」とはいえエリートの口先だけで済まされない経済的不平等という、人間存在の尊厳を侵す暴力に、私たち西側先進国の住民は、どこかで手を染めている。

 共和国原理、法治国家の原理は、決して「自由」ひとつでは成り立たない。この「自由」は、平等や博愛(寛容)の原理が、「自由」と同じほどに尊重され実現されてはじめて、より良い社会のために本来の力を発揮するものであることを改めて思う。

 (筆者はオランダ在住・教育研究家)


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