ジェンダーの平等を目指して(3)

                     武田 尚子


 オルタ118号、ジェンダー(2)の最終部において、人間の鍬や鋤や器具の発明による自然の力への部分的な勝利が、原始遊牧民社会を、一つの土地に人間が定住する農耕社会にみちびき、さらに彼等が自分の働く土地を専有するようになったことを述べた。この号では、引き続きボーヴォワールの実存主義の解釈に従って、女性の男性への歴史的な従属の原因を、さら深く追究したい。

 農耕民の社会は、労働の産物に始まり、その労働をになう家族、器具、家屋などを自らの所属する氏族あるいは家族の財産と考えるようになった。ひとたび財産ガ生まれると、その所有者は子孫を要求する。母性はここで初めて、一つの神聖な機能になった。彼女は氏族、そして家族を未来にわたって継承するために最重要の役割をもつとみられるためである。

 対等関係の行われる同類とかまたそれと同じ形をした他者は、男性にとっていつも男性の個体である。集団の内部にみられるいろいろな形の二元性は、男の集団と男の集団の対立であり、女は男の所有している財産の一部にすぎず、男と男の間の一つの交換道具にされた。

 女性の具体的状況は、彼女の所属している社会の相続制度の形に影響されるのではない。その制度が父系であれ母系であれ、両系であれ、女は常に男性の後見のもとに置かれていた。

 少しずつ男性は経験を手段化し、その実際生活でも、その象徴でも、男性的原理が勝利を得るようになった。

 精神が生命に勝ち、超越が内在を、技術が魔術を、理性が内在を打ち負かした。オルタ118号でも説明した通り、人間の生き方として、単に種の継続を求めるのではなく、自己の超越を求める男の営為は、同一の領域にとどまって反復を続ける女の内在を引き離して、男の優位を実証していくのである。

 女性の価値低下は、人類の歴史での一つの必須段階を表しているとボーヴォワールはいう。なぜなら女神像崇拝などを通して女性の権威の源泉になっていたのは、女性のもつ積極的な価値ではなくて、不可解にして神秘的なものに対する男性の弱さや恐れであったからだ。

 男性がその労働によって土地の征服を実現し、自分自身をも征服できるようになったのは石器時代から青銅時代への移行後である。農耕者は大地や気候の偶然性に支配され、祈って待つしかないが、一方機具を使う工人は、自分の意図通りに道具の形を作る。彼が刃向かっても打ち負かされる自然に対して、彼は支配的な意志として自己を主張し、彼の成功を神々の加護によるとはしない。槌の最初の一撃が鳴り響くとき、人間の治世が開けてくるのだ。

 まかれた種は芽を出したり出さなかったりするが、彼が自分の腕で創る金属の機具は、火や鍛冶や機械作用に、何時も同じように反応することを知る。この機具の世界は明確な概念のうちに閉じ込めることができ、そこで合理的概念や、論理や数学が出現する。

 女性崇拝は農耕の時代につきものの、偶発性や偶然性や期待や神秘の時世に結びついていた。作る人の宗教、それは空間と同じように打ち負かすことのできる時間の治世、必然性と投企と行動と理性の治世である。大地を相手にするときでさえ、人間は今後は土地を耕しうること、土地を休息させる必要、種子の扱い方などを発見する。つまり、彼は作物を成長させ、運河を堀り土地を灌漑し、道路を建設する。彼は新しく世界を創造するのである。

 母なる女神の支配下に残った民族や、母系相続を続けてきた民族もまだ原始文明の段階にとどまっていた。それは女性が敬われるのは男性が自分を自らの恐怖の奴隷に、つまり自分の無能の共謀者にしている間に限られていたからだ。男性は自己を完成するために、先ず女性を王座から追放しなくてはならなかった。

 創造力や光明や知性や秩序の男性的原理を彼はやがて支配者として認めることになる。母なる女神の側に、その息子や恋人である一人の男神が出現する。それは未だ彼女より劣っていても、彼女と瓜二つで、彼女と結びついている。これが雄牛であり、ミノトールであり、エジプト平野を肥やすナイル川である。彼は秋になると死に、春に生まれ変わる。それは嘆き悲しんだ不死身の母親−妻がその死体を探し出して、必死で生き返らすのである。

 クレート島に出現する男女神が地中海の沿岸一帯にも見出される。それはエジプトではイシスとホリュス、フェニキアではアスタルトとアドニス、小アジアではキュベレとアチス、古代ギリシャではレアとゼウスである。しかし女神である大母神はそのうち失墜してしまった。

 エジプトでは女性の地位がなおも高いため、大空の化身であるヌートや、ナイル河の妻であるイシスや、オシリスなどは依然として重要な神である。とはいえ、一番偉い王は太陽と光と男性的勢力の神ラーである。バビロニアではイシュタールはもはやマルドックの妻にすぎない。セム族の神も男性である。ギリシャの豊穣の神デメテル女神は二流の女神になってしまった。ローマのジュピテルの権力には及ぶ者がない。

 人類の始めから、男性はその生物学的特権によって自分だけを支配的主体と主張してきた。そしてこの特権を絶対に捨てなかった。その一部分を自然や女性のうちに疎外したが、間もなくそれを取り戻した。奴隷の場合にも偶像の場合にも、自分の運命を選ぶのは決して女自身ではなかったから、女性はつかの間の権力しかもてないように運命つけられていた。社会での女性の地位は常に男性が彼女に割り当てる位置である。どのような時代にも女は自分自身の法律を定めたことはなかった。

 けれど、もし、生産労働が女の体力の限界内でとどまっていたならば、おそらく女性は男性とともに、自然を征服し得ていたろう。人類は雌雄の人間を通して、神々に対抗して自己を主張したであろう。ところが女は機具の将来をわがものとすることができなかった。男が、作り上げた事物の上に自分の責任と能力を確認し、大きな自信を得たときに、女はどうしていただろう?

 女は、働く男の傍らで労働の伴侶にならなかったために、人間的共存から除外されたのである。女は男の働き方や考え方に参加せず、いつまでも生命の神秘に従属していたから、男は彼女のうちに同類を認めなかった。

 彼女が他者の次元を取り出した瞬間から、男は女の圧迫者にならざるを得なかった。拡大と征服を目指す男性は、新しい技術によって開かれた新しい可能性を極め尽くそうとした。彼は奴隷の労働力を利用し始めたが、それは女性が提供しうる労働力よりも遥かに有効だったから、女性は部族の中で演じていた経済的役割を失うことになった。それ以後、男性の力がさらなる発展を遂げるにしたがって、女性の格は下がりに下がってゆく。

 人類が、自己の神話や法律を文字に編纂するところまで発展した時期には、父長制は既に決定的に確立されている。法規をこさえるのは男である。当然、彼等は女に隷属的な地位を与える。女性の圧迫を制定する立法者たちは、女性を恐れるのである。

 彼女がもっている相反する特質から、特に不吉な面が残され、彼女は神聖な者から不浄な者に変わる。アダムの伴侶となるべく与えられたイヴは人類を堕落させた。異端の神々は、女を作り出して人間への復讐をもくろむ。こういう女−雌たちのうち最初に生まれたパンドラは人類を悩ます一切の禍をまき散らした。

 “他者”とは、すなわち、能動性に対する受動性、統一を破る雑多制、形式に対する物質、秩序に対する無秩序である。女はこのように<悪>に運命づけられている。<秩序や光明や男を作り出したよき原理と、混沌や、暗黒や、女性を作り出した悪しき原理とが有る。>とピタゴラスはいっている。レビ記は家長によって所有される牛馬と女を同一視する。ローマ法は女を後見のもとにおき、その<おろかしさ>を宣言している。教会法は女を<悪魔の入り口>と見なしている。コーランは女を完全な侮蔑をもって扱っている。

 しかしながら悪は善の為に、闇は光のために必要である。男は自分の欲望を満たし、生命を永続させるために、女が欠かせないことを知っているので、なんとか女を社会に組み入れなければならない。そこで彼女は男性によって打ち立てられた秩序にしたがう程度に応じて、原罪的汚れから清められる。マヌー法典では<女は正式の結婚によって、その夫と同じ美点を身につけるなら、死後は同じ天国に入ることを許される>。キリスト教は、肉を嫌悪するにも関わらず<身を捧げる処女と貞淑で従順な妻に敬意を払う。>ほか様々な工夫で、女の罪を緩和しようとしている。

 この<他者>と女性との相反性はその後の女の歴史に反映し、女は今日に至るまで男の意志に服させられる。しかしこの意志には矛盾が有る。なぜなら、男性は自分が征服し所有する者に、自分の威厳をかぶせようとするからだ。この<他者>は彼の眼にその原始的魔術をいくらか保っている。いかにして妻を召使い、かつ伴侶にするかということ、これこそ彼が解決に腐心する問題の一つである。男性の態度は何世紀もの間に進展し、それはまた、女の運命に進化をもたらすことだろう。
<<ボーヴォワールの解釈をたどるために彼女の著作から、多くの引用や要約をさせていただいていることをお断りしておきたい。武田>>

 農耕社会がもたらしたかに見えた母権社会の王座は、残念ながら私有財産の出現のために奪われた。しかし女の歴史は財産の歴史と混じり合っている部分がたいへん多い。この制度の重要性を理解するには、財産所有者は自分の生命以上に、財産に固執することを知らなくてはならない。

 この短い生命の限界を超えて、不滅の魂はこの世における有形の肉体が崩壊した彼方まで存続する。しかしこの存続は、私有財産が所有者の手に残っているのでなければ実現されない。つまり、所有者のものである人間たちにその財産が所属しているのでなければ、それは死を超えて彼のものであることはできない。彼はこの世および墓の下に置いて、先祖たちの永続を確保するために、父の土地を耕し、父の霊を祭ることを最重要のつとめとする。

 従って、男は財産も子供も、妻とは分ちたがらない。家父長制が強力なときには、彼は妻の財産の所有および相続についての一切の権利を剥奪する。妻の子供はもはや彼女の者でないと考えると、妻の生まれた集団と子供は一切の関係が切れる。結婚によって、彼女は出自の集団から根こそぎ奪われ、彼女の夫の集団に付属させられるのだ。

 夫は彼女を奴隷か家畜でも買うように買い、妻に自分の家庭の神々を押し付ける。彼女の生む子供たちは夫の家族になる。
 もし彼女が相続者なら、彼女は父の家庭の財産をそっくり自分の夫の家庭に伝えることになる。だからなんとかして、男は彼女を—つまり女を—相続からのぞこうとする。

 しかし女はこうして何も所有しない—つまり所有できないが故に、一個の尊厳有る人格と認められない。彼女は自分を男の—先ず父親の、ついで夫の—世襲財産の一部にされる。厳格に父長的な制度の下では、父親は自分の子供を生まれたときに殺すことができる。ただ男の子の場合には、社会がたいてい彼の権限を制限しており、普通のからだをもつ子なら、生きることを許される。しかし女の子を捨てる習慣は普及していて、例えばアラビア人の間では嬰児の大量殺戮が行われ、女の子は生まれると直ぐ壕の中に投げ込まれる。
 女の子を認知するなど、父親の格別大きな慈悲行為である。いずれにせよ、生まれたのが女の子なら、母親の出産のけがれが男の出産の場合より2倍もの長い清めの式を要求していることをレビ記は伝えている。

 若い娘のうちは、父親が彼女の上に一切の権限を持っている。結婚すると、父親はその権限をそっくり夫にゆずり渡す。彼女は奴隷や牛馬や品物と同じく彼の財産であるから、男が欲しいだけ妻をもつのは当然である。夫は気が向くままに彼女を捨てることができ、社会の保障はほとんどない。

 タブーの存在にも関わらず、母権社会はかなり自由な風紀を認めていた。父家長社会と異なり、結婚前の貞操はほとんど要求されず、姦通はさして厳しい目で見られなかった。しかしいったん彼女が男性の私有財産になると、彼はこの上ない重罰をもうけて完全な貞節を要求する。夫婦間の不貞は妻の側での大逆罪と見なされる。他人の落としだねに相続権を与える恐れの有ることをしでかすほどの大罪はないからだ。家長が過ちを犯した女を死罪にする権利を有しているのはそのためである。

 この時代、私有財産制の行われた諸国で、どのような女の扱い方がなされただろう? 主たる数例をご紹介しよう。

 アラビア民族が戦士であり征服者であった時代に創られた宗教は女を完全に軽蔑している。ベドウインの女はつらい仕事をし、鋤を使い、重い荷物を運搬することによって夫と相互関係を打ち立て、顔をベールで覆わず、むき出して外出できる。

 聖書時代のユダヤ人たちも、アラビア人と同様の風習をもっていた。家長は一夫多妻で、ほとんど意のままに妻を捨てられる。伝道之書は女のことをこの上ない嫌悪をもって語る。<、、、、千人の男のうちに一人の男を見出すはやすかりき。されど女の中には一人の女もなし。> 夫が死亡したら、法律か習慣で、彼女は故人の兄弟と結婚しなければならなかった。これは家系を絶やさぬための工夫であり、後見制のもとに置かれている場合の未亡人の扱い方の一つで、嫂婚と呼ばれる。東洋の民族にもよく見られた風習であり、時として一妻多夫の形をとることもある。寡婦生活の不安定に備えるために、妻には一家の全ての男兄弟が与えられる場合である。万一夫が不能であった場合には氏族を守る役に立つ。

 女の身分が一番恵まれていたのはエジプトだった。妻は夫と同じ権利と法的力を持ち、相続し財産を所有する。これは古代エジプトにおいて、土地が王と僧侶と軍人のうちの上層階級に所有されていたことに由来する。個人にとっては土地の私有は用役権にすぎなかった。土地は譲渡不能だったから相続によって譲られた財産はわずかの値打ちしかなく、それを分かち合っても支障はなかった。

 私有世襲財産がなかったために、女は一個の人格としての尊厳を保ち、自由に結婚し、未亡人になっても気が向けば再婚できた。男は一夫多妻を実行していたが、子供は全て嫡子になった。しかし本当の妻はただ一人、祭式に預かり、夫と合法的に結びついた妻だけで、それ以外は私有奴隷にすぎなかった。

 男が離婚したいときはしばしば一定の金額を妻に払わされた。一切の財産は夫婦共有である。そしてそれは女にとって有利な契約形式に発展し、契約の実行ということで一夫多妻は多いに制限され、女性は財産を独占して子供たちに譲るようになった。そのために金権階級が出現した。しかしプトレメ、フィトバルは、女は今後夫の許可なしに自分の財産をほかにうつすことはできないと法律で定めたので、女たちは永遠の未成年者にされてしまった。こんな風に、古代世界で唯一の特権的な法規をもっていた時代さえ、女たちは社会的に男と平等ではなかった。王になるのは何時も男であり、僧侶や兵士も男であった。女は公の生活には介入せず私生活では一方的な貞潔が要求されていた。

 ギリシャ;理由ははっきりしないが、ギリシャは一夫多妻制は行わなかった。特別上位の地位に有る者や王や皇帝や酋長をのぞけば、後宮は贅沢すぎてもてなかった。普通の男はせいぜい三−四人の妻、百姓は二人くらいで満足していた。しかし、相続財産を完全に維持したいという必要から、父親の遺産に対する個人的権利を男性に与えることになった。そこから女の間に階級が創られ、主たる相続人の母親は、ほかの妻よりも高い威厳を身につけた。

 もし妻が自分でも財産や持参金を所有しているときは、彼女は夫にとって一個の人格となる。夫は彼女に、宗教的、独占的な絆によって結びつけられている。事実、ギリシャの市民は街の娼婦や婦人室の女中たちのところで自分の欲望を満たせたから、文字通りでなくとも、適当に一夫多妻でいられたようだ。<私たちは精神の快楽のためには遊女が有り、感覚の快楽のためには娼婦が有り、私たちに子供を与えるためには妻がいる>とデモステネスはいっている。

 アテネでは女性は部屋の中に閉じ込められ、特別の役人にたえず監視されている。彼女は後見人の権力のもとにおかれるが、その後見人は父、夫、夫の相続者、誰もいないときは公の役人の代表する国家であった。彼等がこの女の主人であり、彼等は品物を自由にするように彼女を自由にし、その権力は彼女の身柄にも財産にも及ぶ。

 後見人は彼女の権利を思いのままに譲渡できるので父親は自分の娘を養女や結婚に与えたり、夫は自分の妻に暇を出して、新しい夫にゆだねることもできる。ただギリシャの法律は、妻の生活費として使われ、結婚が解消すれば妻にそっくり戻すべき持参金を、女に与える社会の唯一の保障として定めている。持参金を用いることによって、未亡人は遺産とともに夫の相続人の手中にうつることはなく、彼女は両親の元に復帰する。
 女性圧迫の原因は家族を存続させ、財産を完全に保とうという意志に有るのだから、女は家から逃れる程度に応じて、結局このやりかたへの完全な依存からも逃れる。もしも社会が、私有財産を否定することによって家族を否定すれば、おかげで女の運命は改善する。

 共有財産制が優勢であったスパルタは、女がほとんど男と平等に扱われていた唯一の都市だった。娘は男の子のように教育された。妻は夫の家庭に監禁されることがなかった。相続が消滅するときには姦通の概念までも消滅する。子供は全て市全体に共同に属しているから、女たちもただ一人の夫に服従させられない。
 男たちが戦争の義務にしたがうように、女たちも母性の義務にしたがう。この市民の義務の遂行をのぞけば、何らの束縛も彼女らの自由を制限しない。

 ところで、ギリシャで自由を謳歌した女性とは皮肉なことながら、一部分の娼婦たちだった。娼婦にも等級が有るが、ことにその最上層の女たちには、頭が良く、教養が有り、芸術家で、男たちからは一個の人格として取り扱われた女たちがいて、男は彼女らとの交際を歓喜した。家庭から逃れ、社会の外側すれすれに身を置いているので、男性の圧力からもまぬがれていた。彼女らは男性の眼には同類、ほとんど同等者と映ずるのだ。女に精神と経済の自由をあたえたとき、解放された女たちが示し得た自己実現の一例だろうか。

 しかしこれは例外的な女たちの場合で、ギリシャの女は半奴隷状態を強制されていた。それを憤る自由すらもっていない。ホメロスのうちには、女が幾分か権力を持っていた時代の名残が残っている。しかし戦士たちは彼女らをじゃけんに部屋に追い返す。
 <女に気を許す者は盗人に気を許すような者である>ヘシオドス。

 偉大なる古典時代には、女は婦人室の中に閉じ込められる。
 <一番立派な女とは一番男の話題に上らない女である。>とはペリクレスの言葉だ。偉大な例外はあった。プラトンは共和国の行政に主婦の委員会を認めて、少女に自由な教育を与えようともくろんだが、実現はしなかったようだ。アリストファネスのあざけりを招いている。アリストテレスは断言した。<奴隷は決意する自由をすっかり奪われている。女は所有しているが、それは希薄で効果がない>と。
 ヒポナックスのうちには<妻が喜ばしてくれるのは一生のうちに二日しかない。結婚式と葬式の日だけだ>というのも有る。
 メナンデルは書いた。<地にも海にもあまた怪物はあれど、その中で最大の怪物はやっぱり女である>、<女は一生解放してくれない苦しみである>。

 持参金の制度によって、女がいくぶんよい地位を手に入れると今度は女の尊大が嘆かれる。<わしは持参金付きの魔女と結婚したのだ。家や畑に目がくらんで嫁にもらったが、おお、アポロの神様、こいつはとんでもない貧乏くじです>、<結婚を最初に発明したやつに呪いあれ。それから、それをまねした全ての人間に呪い有れ>、<もしお前が貧乏で金持ちの女と結婚すれば、一時に奴隷と貧乏人になるはめに自分を追い込むようなものだ>。

 ギリシャの女は窮屈に縛られていたから、品行のことでは非難のしようがなかった。だからこれほど男に重くのしかかっているのは結婚の要求する負担と隷属である。だからこのことから、ほとんど何の権利も認められていなかったにもかかわらず、女は家庭において重要な位置をしめ、なんらかの自由をもっていたに違いないということがわかる。服従に捧げられながら、彼女は反抗することができた。口論や、涙や、ののしりで夫を圧倒することができた。女性を服従させる目的の結婚は、同時に夫にとっての重圧になった。ソクラテスの妻クザンチッペの人格のうちに、ガミガミ屋の妻と、夫婦生活の不幸に対するギリシャ市民の嘆きのすべてが要約されている、とボーヴォワールはいうのである。

 ローマ;ローマの女性の歴史を決定しているものは家族と国家との闘争である。 タルクイニウス帝の死後、父権が確立され、家庭が社会の単位になった。以後、女は私有財産に、ひいては家族集団に厳重に服従させられることになった。女は無能と屈従のうちに生活を送るようになる。

 市民としての生活では、後見制のもとで女は父の遺産の分配を自分勝手にできぬようにされる。<後見制は後見人の利益のために創られたものである、自分たちが推定相続人になっている女性が、遺言によって自分たちから彼女の遺産をとりあげたり、また、譲与や負債によってそれを減らしたりできないようにするためである>とガイウスはいっている。後見制のもとで女は永遠の未成年者である。

 女の最初の後見者は父親であり、いない場合は父方の親戚がなる。女が結婚すると、彼女はその夫の<手中>に移る。結婚には<夫の権利—マヌス>がついていて、夫が、父または後見人のかわりになる。彼の妻はいわば彼の娘の一人となり、今後は彼が彼女の身柄および財産の上に全権を持つことになる。

 しかし<夫の権利>を伴った結婚は父親側の後見人の利益を台無しにしてしまう。彼等の利益を守るために<夫の権利なし>の結婚が出現した。妻の財産は後見人に従属したままであり、夫は妻の身柄にしか権利を持たない。その権利さえ彼は妻の父親と分け合うので、父の娘への権力は絶大である。しかし父と夫の間の衝突を調停する家庭裁判所があって、娘は父と夫とのどちらにでもつくことを選べる。

 氏はこのうえなく強力であリ、その頂点に立つ一家の父親は先ず何をおいても一人の市民である。彼の権威は無制限であリ、彼の妻子を絶対的に支配する。しかし妻子は彼の財産ではない。彼はむしろ公共の利益のために彼等の生活を管理しているのである。 <<これは興味深い観察である。武田>>
 子供を産み、家庭労働のうちには農耕の仕事も含まれる妻は、国にとって非常に有益であり、こころから尊敬される。此処で歴史の流れ全体を通じて見出される一つの重要な事実に気づく。抽象的な法律だけでは女の具体的な状況を規定することはできないということである。

 女は大部分彼女の演じている経済的役割に左右されている。そしてそれどころかしばしば抽象的な自由と具体的権力とは反対の方向に向いている。、、、、家にあっては彼女は婦人室の奥に押し込められるかわりに、家の中央である中庭に君臨している。奴隷の仕事の監督をするのは彼女である。彼女は子供たちの教育を指導し、しばしばその勢力は子供が年をとるまで及ぶ。彼女は夫と労苦を分け合い彼の財産の共有者と見なされる。、、、、主婦は`女主人`と呼ばれ、奴隷ではなく男の伴侶である。彼女を彼に結びつける絆は神聖であって、五世紀を通じてただの一件の離婚も認められない。、、、、、彼女は晩さんや祭りに加わり、劇場へ行く。街路に出ると男たちは彼女に道をゆずり執政官も先駆警官も彼女の通路をよける。、、<至る所で男は女を支配している>とカトーはいった。<しかし全ての男を統治している我々、その我々を統治しているのは女である>、と。

 この女性の地位と法規のギャップは、次第に現実の状況に適応して行った。家長制的寡頭政治の元では各家長は共和国内での独立君主であった。が、国家の権力が確立されると、それは財産の蓄積と家族の権威の横暴を押さえだす。

 後見人の利益のために創られた<夫の権利>は後見制から逃れるために利用する一手段となり、帝政時代の法律の元では、後見制は廃止されてしまった。同時に、彼女の父親が彼女に持参金を認める義務を負うことによって、彼女は自己の独立の具体的な保障を獲得した。これで、女は結婚が解消しても男親の元に帰ることも、夫の財産であることも免れた。女はいつでも出し抜けに離婚を求めて、持参金の返却を要求することができ、男を閉口させられるのだ。そして178年以後は、母親は男系親を尻目にかけて自分の子供たちを相続人にすることができるようになる。家庭はそれ以後は血の結合の上に基礎を起き、母親は父親と同等にみられるようになり、女の子も兄弟と同じように相続する。

 だが、女の自由はこれで保障はされなかった。すなわち、女を家族から独立させつつ、中央権力がかわってその後見人になるのである。そしてこれが、女を法的に無力にしてしまう。じっさい女が金持ちになりしかも独立すれば、危険な権力を手に入れるだろう。そこで片手で彼女にやったものをもう一方の手でとりあげようとするのである。

 ローマの女性に奢侈を禁じたオピア法は、ちょうどハンニバルがローマを脅かしているときに可決された。危険が去ると、女たちはその廃止を要求し、カトーは有名な演説でこの法の存続を要求した。だが、公共広場に集った主婦たちの示威運動が彼を向こうに回して勝利を収めた。風俗の混乱とともに、ますます厳格な法律が次々に提案されたが、効果はなかった。

 しかし、女から市民権をほとんど奪ってしまうヴィレイウスの元老院決議だけは勝利を収めた。女が実際にもっとも解放されている時にこそ、女の性の劣等性が声高く叫ばれるのであり、男性の自己弁護の手段の顕著な一例である。つまり、もはや娘として、妻として、姉妹として、彼女の権利を制限しなくなったかわりに、性として彼女に男との平等を拒否するのである。女をいじめるために、女性のもろさ、愚かさが口実にされる。 

 相反する二つの傾向—家庭から女を解放する個人主義的傾向と、個人としての女を迫害する国家主義的傾向の二つから女の立場の不安定が生じるのである。彼女は相続人であり、父親と同等に子供たちの尊敬を受ける権利を持ち、遺言をし、持参金制度のおかげで、離婚も再婚も自由になった。しかし、自分の能力の具体的な使い方を少しも示されないため、彼女は解放されたといってもフルに能力を発揮できない。経済的な独立も、何ら政治的能力を生み出さない。

 こんなわけで、ローマの女は行動のかわりに、しきりに示威する。市中を練り歩き、裁判所を包囲し、陰謀をけしかけ、作戦を与え、内乱をあおり立てたりなどする。公の生活や徳をもたらす活動は相変わらず 女の手の届かないところに有るのだから、家庭の崩壊によって、従来の個人的な美徳が無益な時代遅れのものになったときは、女の前にはもはや何らのモラルもなくなる。

 彼女らは自分たちの先祖と同じ価値を尊敬し続けるか、それとも、もはや何一つ価値を認めないか、の二者択一を迫られる。一世紀末から、二世紀の初めにかけて、その前者を選び、夫の伴侶兼協力者となった女性が大勢みられる。例えば、ブロチーナはトラヤヌス帝の栄光と重責をともにしサビーナは善行によって、生前から彫像によって神に祀られ、パオリーナはセネカと同時に自分の動脈を切った。

 一方、母になることを拒否し、離婚を重ねる女も多く出てくる。法律では依然として姦通は禁じられている。主婦の中には放蕩をぞんぶんにしたいために、娼婦の中に登記してもらう者まで出た。このときまではラテン文学は女性に対して尊敬を払ってきた。事ここにいたっては、女に対して風刺作家が躍りかかる。勿論女性一般を攻撃するのでなく、同時代の女たちを主として攻撃した。

 ユヴェナリウスは女の贅沢や、男の仕事をしたがることを非難している。女たちは政治に関心を抱き、訴訟書類に鼻を突っ込み、修辞学者や文法学者と議論し、狩猟や、戦車競争、剣術や、力技に熱中する。もっと高い目標を狙うには必要な教育が不足している。また何らの目的も彼女たちには示されていない。

 古代ローマ共和国の女は地上に一つの地位をもっている。けれど抽象的な権利と経済的な独立がないため、彼女たちは鎖に繋がれている。頽廃期のローマの女性は、男性が依然として具体的に唯一の支配者である世界において、名のみの自由しか所有していない偽りの解放された女性の典型である。彼女は<無のために>自由であるのだ。と、ボーヴォワールは辛辣である。
     
■キリスト教と女性
 四世紀頃から六世紀頃までヨーロッパで行われたゲルマン人の民族大移動とともに、文明全体がぐらつきだす。ローマ法もまたキリスト教という新しい思想の影響を受ける。これに続く数世紀の間は蛮人、つまりローマ人以外の民族の法律が優勢になる。経済、社会、政治の状況は一変する。女性の状況も影響を受ける。

 キリスト教の理念は女性圧迫に加担した。キリスト教の創世記に女性がローマ教会の束縛にしたがっていた頃、彼女たちはかなり尊敬され、女も男同様殉教者として働いた。しかし儀式には女は重要な役目は与えられず、教務を補佐する女性も、病人看護とか貧者の助けのような副次的なつとめしか許されなかった。

 またキリスト教は妻の夫への全幅の服従を説いていて、例えば聖パウロの極端に反女性的なユダヤの伝統が主張されている。パウロは、女に目立たぬことと遠慮を要求する。彼は旧新訳聖書にもとづき、女の男への従属の原則を作り上げた。<男の女より生まれたに有らず。女の男より生まれたるなり。かつ、女のために男の創られたるに有らず。男のために女の創られたるなり。>、<ローマ教会のキリストにしたがうごとく、何事につけても女は男にしたがうべし。>

 肉欲が呪詛される宗教にあっては、女は悪魔の最強の誘惑とみなされる。テルテユリアヌスは書いた。<女よ、なんじは悪魔への扉なり。、、、、、神の子が死を免れ得ざりしはなんじがためなり。喪服とぼろをまといて、常に退散すべし>。聖アンブロシウス曰く、<アダム、イヴを導きしに有らず。イヴ、アダムを罪にみちびきしなり。己が罪に導きし者を女が主人として仕えるは当然なり>。さらに聖ヨハネス、クリゾストムスは<全ての野獣のうち、女より害有る者なし>と、女を責める。

 四世紀に教会法が制定されたときには、結婚は人間の弱点への屈服と考えられ、キリスト教の徳と相容れないものとなる。
 <斧を手にとりて、婚姻の益なき木を根こそぎに切り倒さんかな>と、聖ヒエニムスは書いた。

 グレゴリウス六世のとき以後、僧侶に独身生活が課せられるようになると、女の危険はさらに強調され、ローマ教会の教父たちは皆女の卑しさを述べている。 <女は男の支配下に生くべき定めにて、その主に対しなにの権限も持たざるは当然なり>。前号でも紹介した聖トマスの言葉である。

 だから教会法は、女を無為無能にする持参金制度以外のいかなる結婚制度も認めない。女は男の職務に就くことを禁じられるだけでなく、裁判所で証言することも禁じられ、その証言の価値を認められない。ローマ皇帝たちも可成り教会の教父たちの影響を受けた。女を妻や母としては尊敬したが、そのかわり女は妻や母のつとめだけするように服従させた。

 ローマ人以外の民族、つまり蛮族、に占領された地方では、これらの法律とゲルマンのしきたりが併用された。ゲルマン人の風習は独特であり、平時には家族は一つの自治社会であり、母系相続に基づく氏族と、家父長制氏族の中間体であったらしい。

 暴力が全ての能力の源である社会では女は全く無力であった。しかし女が依存している家の二元制によって保障される権利は彼女に認められていた。夫は妻を金で買ったが、その買い入れ金は妻の財産たる寡婦資産になる。家庭は一夫一婦制で、姦通は厳しく罰せられ、妻は後見されていたが、夫とは緊密に結ばれていた。

 <平和のときも、戦いのときも、妻は夫と運命を分ち、夫とともに生き、夫とともに死ぬ>と、タキツスは書いた。妻は戦闘に参加し、兵士の食料を運び、かたわらで激励した。寡婦になると、死んだ夫の身分の一部が彼女に譲渡された。女の無能力は肉体的劣勢によるもので、精神の劣等性によるとは考えられなかった。僧侶や予言者は女だった。このことは女が男より優れた知識を持っていたことを推測させる。

 こういう伝統が中世期を通じて変わらなかった。

 フランク族ではゲルマン風の貞潔を放棄し、メロヴィン王朝とカロリン王朝の下では一夫多妻制が盛んになった。女は同意なしに結婚させられ、夫の気のままに離婚させられ、奴隷同様に扱われた。女は法律で保護されてはいるが、それは男の所有物、子供の母親である限りにおいてである。

 例えば、証拠もなく女を娼婦呼ばわりすると、侮辱罪として男に対するあらゆる侮辱より十五倍も賠償しなければならない。結婚した女の殺害は奴隷でない男の殺害の四倍の罪になる。子供のできることがわかっている女は奴隷でない男の三倍の値打ちが有る。
 女が男の所有物であればこその、男のきめた重罪である。

 が、いったん母親になれなくなると、その女は一切の価値を失う。もし女が奴隷と結婚すれば、彼女は法律の外に置かれ、その両親は彼女を殺してもよい。女は人格としては何の権利も持たないのだ。国家が強力になるとともに、ローマで完成されたような進化の兆しが現れ、子供や女の保護は家族法でなく公共の仕事となる。しかしそれは次第に家族の権利を奪い取った。

 中世初期の動乱をくぐってようやく封建制度ががっちりと築かれると、そこでの女の地位はひどく不安定になる。
 女は政治的に無能力だから、最初は一切の個人権を否定される。
 十一世紀までは秩序はもっぱら暴力の基礎の上に、所有権は武力の基礎の上に打ち立てられていた。女は軍隊支配にまかされている封地を守ることができないから、それを所有できない。しかし領地が相続され世襲財産になると、男の相続人がいないときは、娘が相続するときも有ることから、十一世紀頃には封建制もまた女の相続権を認めることになった。

 臣下に対しては常に軍務が求められるが、女は相続者になっても男の後見を必要とする。その役割を演じるのが夫で、権限授与を受け、領地を掌握し、財産の用役権をもつ。妻は領地を伝えるための機関であって、領地の所有者ではないのだから、少しも解放されていない。

 彼女はいわば領地に吸収され、不動産の一部をなす。領地はもはや、ローマの氏族時代のように家族のものではなく、領主の所有であり、女も領主の所有である。
 領主が女に夫を選んでやる、子供が生まれるとそれは領主の財産を守る家臣になるのだから、夫よりもむしろ領主への捧げ物となる。あてがわれた夫の保護をとおして女はこの領地の主人の奴隷である。女の境遇がこれほど苛酷であった時代はまれだという。

 女相続人とは、とりもなおさず、地所と城のことであり、求婚者たちはこのえさをとろうとして争うのだ。
 結婚を何度もすることは男にとっては領地を増やすことだ。結婚の解消には何時でも何かの口実が見つかるので、離婚も増える。

 多くの武勲詩は王や領主が、娘や寡婦を専制的にわが者にするのを示している。また贈り物として受け取った妻を情け容赦もなく扱うのがみられる。夫は妻の顔をぶち、髪の毛をつかんで引きずり回し、打擲した。こうした軍国文明は女には軽侮の念しかもっていない。騎士には自分の馬の方が遥かに貴重なのだ。

 時には女も男の荒っぽい生活をともにすることがある。娘時代から、そんな女たちはあらゆる肉体鍛錬を受け、馬にも乗れば、狩猟もする。ほとんど教育を受けず、羞恥をしらずに育てられる。城の客を接待し、食事や入浴につきそい、よく眠れるように<あんま>するのも彼女の役目である。妻になっても、野獣を追ったり、困難な長途の巡礼に出かけたりする。こういう女城主は<男勝り>と感嘆される。欲が強く陰険で、家来をいじめる。歴史や伝説はこうした女たちの思い出をいくつか伝えている。

 例えばオービーの女城主はすばらしく高い天守閣を造らせると、秘密を漏らさせないために即座に建築家の頸をはねさせてしまった。さらに、夫を領地から追放した。もっとも、夫は密かに帰ってきて、彼女を殺害した。ロジェ・ド・モンゴメリの妻は自分の領地の貴族たちを乞食に落ちぶれさせて喜んだ。結局、貴族たちは、彼女の頸をはねさせて復讐した。しかしこんな事実はあくまで例外である。普通は女城主は糸を紡いだり、お祈りをしたり、夫を待ちわび、退屈して暮らしていた。

 十二世紀に地中海沿岸の南仏に生まれた女領主とその家来の愛をうたった<愛の宮廷>が果たして存在したかどうかは疑問とされるが、はっきり言えることは、罪の女イヴに対抗して、ローマ教会が<救世主の御母>を称揚することにしたことだ。聖母崇拝は非常に重要になり、十三世紀には神が女に身をやつしたともいわれた。女性神秘説がこうして宗教面で発達した。

 一方、城内生活のつれづれから、貴婦人たちは会話や礼節や詩歌の花を咲かせた。教養有る夫人は詩人たちを招き寄せ、年金を与えたりなどした。最初は南仏についで北仏に文化の花が開き、それが女に新しい魅力を与えた。クレチアン、ド、トロワは、自分の小説から姦通を追放してしまい、円卓騎士のランスロットとニエーブル妃以外に罪の恋愛を描いていない。封建制下の夫は後見人であり暴君だったから、妻は恋人を求めたのだ。宮廷恋愛は、形式的道徳の野蛮さに対する補償であったのだ。

 <古代が性愛への傾向として立ち止まった地点、そこから中世は再出発する。すなわち姦通から出発する>とエンゲルスは指摘している。<また実際、結婚制度がつづく限り、恋愛はこの形態をとるであろう。ボーヴォワール>

 事実、宮廷的な礼節は女の境遇を和らげはしても、根本から改革はしない。女性を解放に導くのは、宗教や詩歌のような観念的なものでない。封建時代の末期に女が幾分進出してきたのは、全く別の原因による。

 王の権力が封建諸侯におよぶようになると、領主はその権利の大部分を失う。ことに、臣下の女の結婚を決める権利は徐々にとりあげられる。さらに封建的後見人の手から、被後見人の財産を自由にする権利が奪われ、後見につきものの利益が消滅する。諸侯が軍務のかわりに金銭をおさめるようになると、後見性自体も消滅する。女は軍務はできないが、貨幣で債務を果たすことは男同様にできる。領地はもはや単なる世襲財産にすぎず、男女を平等に取り扱えない理由も消滅する。

 実際にはドイツ、スイス、イタリアでは、女は未だ終身後見制に服していた。しかしフランスは<女も男も価値にかわりはない>と認めた。ゲルマンの風習は女に後見人として保護者を与えていたが、保護者を女が必要としなければ、後見人も不要になる。

 独身女や寡婦は男性のもつ権利を一つ残らず所有する。財産が有れば支配権も彼女に有る。領地が有れば彼女が統治できる。つまり彼女は裁判を行い、契約に署名し、法律を制定し、なかには軍隊を指揮し、戦闘に参加する女性さえみられる。驚異の聖処女、ジャンヌダルク以前にも、女兵士は存在したのである。

 しかし、女の独立を阻む原因は誠に多種多様であり、一時に消えてなくなりはしない。肉体的な弱さはあまり問題にされないが、女がおとなしく妻を演じてくれる方が社会のためになるので、後見制は残る。市民的封建制の結婚は軍事的封建制時代と同じ形態を保っている。夫は依然として妻の後見人である。ブルジョワジーの社会が出来上がったときにも、それは同じ法律を遵守する。慣習法についても、封建法と同じく、結婚以外にしか女の解放はない。夫は契約によってではなく、結婚という事実自体によって、妻の財産を自分の自由にする。両者の財産は結婚の効力によって共有となり、男の権利下におかれる。それは、世襲財産の利益のためには貴族と市民階級の場合ただ一人の主人がそれを管理せねばならないからだという。

 封建制から今日に至るまで、結婚した女は私有財産の犠牲にされてきた。今日でも家長制家族形態が残存しているのは富裕地主階級においてである。男が社会的経済的に権力を自覚すればするほど、家長の役を権威をもって演ずるので、女の従属はこの階級においてもっとも顕著である。

 女性を解放したのは封建制でもなければローマ教会でもない。家長制家族形態から、公正な夫婦制家族形態への移行が行われるのはむしろ農奴制からである。農奴の男は、何一つ財産をもたない妻の支配者になろうと努力する必要など全くなかったのだから、彼女の支配は愚か、自分を妻に結びつける絆の平等制を痛感する。夫は妻を打擲できるという以外に、妻に対して何らの特権も持たない。ところが妻の方でも策略をもって夫に対抗し、夫婦の力は結局均衡する。それに引き換え、富める女は自分の隷属によって、あそんで暮らせる償いをするのだ。

 中世には未だ女の権利が若干残されていた。村では、例えば、女は住民会議に参加し、国会議員選出のための予備集会に出席した。不動産を譲渡するには妻の同意が必要だった。

 旧政体、アンシャン・レジームを通して行われる諸法規が制定されたのは16世紀になってからだ。封建時代の風習はすっかりかげを潜め、女を家庭に縛り付けておこうとする男の意志から女を保護するものは何もない。女性の愚味と脆弱に対する激しい非難が女を圧迫する法律の弁明として用いられる。女がもつもろもろの悪しき素質のうちと<果樹園の夢想>に読まれる。

 第一、女は生まれつき禍の基なり。第二、女はその本性よりしてはなはだ欲張りなり。第三、その望むことははなはだ気まぐれなり。第四、生来考えること悪質なり、、、、第五、人を瞞着する、、、さらに女の嘘つきは定評にして、従って民法により女は遺言相続人の資格なしと見なされる、、、、さらに女は常に命ぜられたると反対のことを行う、、、さらにまた女は出しゃばり屋にして、自分の恥を平気でさらけ出す。また狡猾にして意地悪なり。聖アウグスチヌスはいわれた、<女は堅実ならざる動物>と。<女は夫もまごつくほど恨みっぽくして、邪悪の温床、あらゆる諍いの出所、一切の不正へのみちである>。

 ボーヴォワールはいう。この文章の面白みは、一つ一つの非難が女性に対する法律の不当な処置を次々に弁護し、女性の低い地位を正当化することを狙っている点に有る。勿論<男の仕事>は一切女性には禁じられている。父親の遺産を受け取るときは男性権保護のために女は下位に置かれる。

 娘はいつまでも父親の後見の元に置かれる。娘を結婚させない場合は、父親は彼女を修道院へ閉じ込める。私生児の母には、子の父親の承認を請求する権利は認められているが、それとて分娩費用と子供の養育費をとる権利しかない。

 妻は夫にしか義理はなく、公共の諸機関と直接の交渉はほとんどない。結婚して夫の権威下に入ると、夫は住居を決め、家庭生活を指図し、妻が姦通した場合は離縁し、あるいは後になると、バスチーユ牢獄へ送る委任状を手にいれる。

 夫の裏書きなしにはどのような証書も無効である。女が社会に何か寄与できるのはローマ法的な意味での持参金くらいだろう。しかし、結婚は解消不能になっているから、財産処分権が妻の手に帰ってくるには夫の死が必要だ。そこで次の格言が生まれてくる。<妻は元来、友ではない。ただ、それであろうと期待されているのみ>。
 夫にとって妻は同僚などというよりも、下女に等しい。彼女が作り出す価値も品物も皆、彼女のものではなく家族の、従って家長たる男の財産である。ほかの諸国でも、女がこれ以上に自由だったわけではなく、反対である。ある国々では未だ後見制が残っている。どこの国でも、結婚した女の権利は皆無で、その道徳はさらにきびしい。ヨーロッパの法典は全て、女にとって不利な教会法やローマ法やゲルマン法を元にしてつくられたものだ。だから全ての国は私有財産と家族を認め、これらの制度の要求に服しているのである。 <ジェンダーシリーズ(3)了>

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 ジェンダーシリーズその3では、ボーヴォワールに導かれ、読者とともに武田は、古代社会を経て、中世を生きる女たちの姿を見てきた。ここからは、まだまだ何世紀以来の男性優位に縛られつつも、自覚を持ち始め、進歩を遂げつつある近代の女たちが登場する。このすばらしい著作<第二の性>の最終部は、残念ながら次号でお届けする。

 <第二の性>の終結点からさらに半世紀を経た今日、現代の文明国にいる私たちからみれば、信じがたいほどの女性蔑視と女性差別をなんとか生き抜いて、多くの女が、男性の専有であった<自己超越>によって新しい世界を創り始めた。

 折しも、世界最大の自動車会社GMが、そのCEOに女性を選んだという前代未聞のニュースが、三日前に発表されたばかりである、

 女性の未来は洋々としている。
 それが、男性との理解ある共存を通して、世界の洋々たる未来に続きますように。
 祈りとともに、2013年末の筆を置かせていただく。

 (筆者は米国・ニュージヤーシー州・在住・翻訳家)


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