【コラム】
1960年に青春だった(11)

ジャイアンツが少年の夢を安く見たのはなぜか

鈴木 康之

 どうもジャイアンツが好きになれません。

 名門ゴルフ倶楽部のクラチャンになったほどの腕前で賭けゴルフをしていると報じられながら、シラきってすまそうという監督の態度が故ではありません。シラをきるというセコいことなら、件数でも犯罪性でも総理大臣のそれに比べたら鯨と鰯の違いがあります。

 興業スポーツの気疎い面をさらけ出したあの江川騒動が原因でもありません。首謀者たちはいまや黄泉の人。スター本人も解説者席の片隅で縮こまり、風化の日々をこなしていて悲哀すら感じるほどです。

 品川主計、正力享、渡辺恒雄ら歴代の経営者たちが醸した悪役イメージは、興業団体の親分たる者にはそれなりに似つかわしくもありましたが、少年ファンにはウケようはずのない代物でした。

 ボクがプロ野球というものを知り、いったんはジャイアンツ・ファンになったのは第二次世界大戦敗戦の翌年か翌々年、小三か小四の年だったはずです。
 兄貴がラジオか新聞で知った藤本英雄という選手の名前とその快挙を教えてくれました。
 終戦前にシーズン防御率0.73という日本新記録など投手五冠王となり、戦後にはピッチャーで三番打者もこなしたほどの名選手でした。

 ある試合で、後攻めのジャイアンツが9回の裏2アウト満塁で藤本に打順がめぐってきて、カウント2ストライク3ボールとなり(かつてはSBOの順でした)、満場手に汗握る次の1球、藤本の大飛球は外野スタンドへ!
 兄貴の話にボクは興奮し、かっこいい藤本のファンになり、藤本のいるジャイアンツのファンにもなりました。

 いまパソコンで調べてみると藤本のサヨナラ・ホームランは1949年にありましたが、しかし2アウト満塁2ストライク3ボールというドラマチックなお膳立ての場面ではありませんでした。
 兄貴はなにも知らず口をポカンと開けて聞いている弟に、そう聞かせてみたくなったのに違いありません。のちに県政に進出、富士山麓に遷都するなどとホラ吹きを得意とした男であり、野球の話を盛るなどは朝飯前だったのでしょう。

 かくして純心なる学童は、東京読売巨人軍が「少年ジャイアンツ」というファンクラブを組織していることを知りました。
 年会費は、記憶にありません。入会を申込むと、やがてA6判ハガキ大の冊子「少年ジャイアンツ」を送ってきてくれました。
 球団旗、少年ジャイアンツ憲章、全選手の集合写真が載っていました。
 白い空きページがたくさんあり、送料分の切手を添えて送ると選手たちが一人ずつサインを書いて送り返してくれるという話でした。

 ボクはまだ疎開先の静岡県藤枝でした。いながらにしてジャイアンツ選手の直筆のサインが頂戴できるというファンサービスです。東京の子たちでも球場や練習場へ出向くことなくサイン帳が埋まるわけです。
 終戦直後の学童たちにとって近隣に駐屯する米軍からの板チョコ・プレゼント以上にジャイアントな宝物でした。

 忘れていたころボク宛の郵便が届きました。封筒の中に重みを感じました。

 冊子を滑らせて出し、焦る手でページをめくりますと、縦書きの川上哲治のサインが目に飛び込んできました。一番先にあったような気がします。定かでありませんが、そうであったように思います。
 千葉茂のサインがありました。青田昇のサインがありました。憧れの藤本英雄、監督の三原脩までもありました。あったはずです。

 黒? 澤? 俊夫。中尾 碩? 志。
 文字は筆記体のくずし書きでしたけれども、少し注意して目をとめると、武宮敏明も、平山菊二も、白石勝巳も、すぐに解読できた覚えがあります。

 当時サインは読めるように書くものだったのでしょうか。いまどきのラーメン店や居酒屋の壁で見る有名人たちの色紙サインは、書いている者本位で、クルクルクルッ、サーサーッ、と筆先を滑らせてチョン。なんと書いてあるかほとんど読み解けません。

 それに比べて少年ジャイアンツのサインは学童にも読めるように、なんと丁寧に良心的に書いてあったことでしょう。
 漢字のくずし方がほどよく揃っていました。
 そして、飽きるほどよーく見ていて気づいたのですが、万年筆のインクの色が同じブルーで、ペンの太さも同じでした。球団の担当者が一本の万年筆を持って回ったのでしょうか。

 すると兄貴が弟に冷たい水をひっかけました、「同じ担当者が一人で書いているんだよ」

 ホラ吹きにはホラ吹きの手の内がすぐに判ったのでしょう。
 少年は泣き出しました。

 それにしても東京読売ジャイアンツめ。

 (元コピーライター)

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