【コラム】
1960年に青春だった!(1)

ジャズ(上) 愛聴500回超だがハンプトンを理解しえただろうか

鈴木 康之


♪ 1982年 東京・青山

 黒人ライオネル・ハンプトンはスイング魂の最高のジャンパーだった。打楽器奏者だからか人一倍跳ねやすく、昂揚すると止まらなくなる人だった。
 79年に日本人アルトサックス奏者マルタをバンドマスターに迎え、フルバンドを率いて81年には日本全国を巡った。東京では新宿厚生年金会館。神の手の4本マレットをヴァイブの上で舞わせ、ドラムを打ち鳴らし、ワンフィンガーでピアノを叩き、フロアタムに乗っかって踊りだす。御年73歳。

 翌82年骨董通りにあったブルーノート東京。これが最後かもしれないと緊張して行った。「聴いた」ではなく「会った」という感慨のほうが強い。
 セプテットだったと思う。楽屋はステージの左奥。私のテーブルは彼らが前を通ってステージにあがるという最高の席。ラストナンバーは定番“HAMP'S BOOGIE”。私が昔からエライヤッチャエライヤッチャのリフレインと同じだと面白がっていたブギウギ。締めのフレーズを何度も繰り返し、ボス自身もエンディングのジャンプをしたものの、聴衆総立ちでアンコールが止まらない。ボスはステージを前におりたが、バックのリフレインも、聴衆の手拍子、口笛も止まらない。ボスの、肩揺すりもステップも吹き出す汗も止まらない。そして楽屋へ下がろうと私の前に来ても止まらない。私たちは狭いテーブルを挟んで正対した。

 18年前ブロードウエイで、どこかからハンプトンの音が聴こえてきて、1クォーターほど吸い寄せられて行った因縁が、いま1メートルもない近さで結ばれる。私は、満面で笑み、手拍子し、肩を揺する。ほかに何ができようか。いま瞼を閉じ、控えめに再現してみてもその間10秒間もの棚牡丹。
 私も全聴衆も極上の愉快の時をともにした。だがしかし、ハンプトンの昂揚は単なる愉快と書いて済むものかどうか。

 ⬇︎YOUTUBE ぜひともイヤホンで低音部も拾ってお聴きいただきたい。
   Hamp's Boogie - Lionel Hampton 1988 9’22”
   https://youtu.be/KME0TMnhF6M

♪ 1964年 NYブロードウエイ

 ハンプトンは47年、私が10歳のとき、ロサンゼルス郊外のパサディナ公会堂でジャズ史上の名盤“STAR DUST”を残した。ウィリー・スミス(アルト)、コーティー・コーコラン(テナー)、チャーリー・シェヴァース(トランペット)、バーニー・ケッセル(ギター)、スラム・スチュアート(弓ベース)という錚々たる面々。
 この曲を知ったのは後述する中学生時代のNHKラジオ第二放送「夕べの音楽」の中である。リクエスト葉書で編成される番組だったが、なにしろ15分を超える長尺ものゆえ、この名盤のリクエストは滅多に採用されるものではなかった。ふた昔前の日曜日、NHK-FMが終日ジャズ特集をしたことがある。その日の最多リクエストが「パサディナの“STAR DUST”」だった。ジャズ史上の名盤であることの証しである。

 私は針を滑らせてLP盤2枚を傷め、CD盤になって助かった。都合私がこれを何回傾聴しただろうか。1年x回としてそれに年数yを掛けると電卓に500台の数字が現れる。ハンプトンのヴァイブの音色、繰り出されるフレーズは、私の脳に深く細かく刻まれている。ヴァイブ・プレーヤーは当時ほかにエディ・コスタ、ボビー・ハッチャーソン、レッド・ノーヴォなども聴いていたが、ハンプトンか否かは1小節で聴き分けられた。

 だから64年NYマジソン街に出張した初日の宵、ブロードウエイを散策中、どこからか聴こえてくる音に「あ、ハンプトンだ」と反応でき吸い寄せられていった。メインストリートのライブハウス。満員でドアを開けたままになっていた。俗に鰻の寝床という狭くて奥に長い店だった。
 バーカウンターの上の中2階がステージになっていて、楽団員が横一列に並び、中央に御大将。私はキャッシュオンのビール瓶を持ち、大男たちの間をかいくぐって、「エーエー、アーアー」と唸ってヴァイブを叩く御大将の、顎から滴り飛び散る真下で仰ぎ見ていた。その熱い汗が何滴も見上げるジャパニーズの顔に飛んできた、と、実際はどうだったかはどうでもよい、私はそのように記憶の中にしまってある。

 LP「パサディナの“STAR DUST”」にはほかに“ONE O'CLOCK JUMP”など3曲が収録されているが、ハンプトンの音は自らのソロを延々と繰り出す“STAR DUST”1曲だけだ。ライナーノートには「彼は演奏後そのまま帰ってしまった。曰く、フレーズは全部出し尽くした、と」。止まらない人の伝説の一つだ。ダシが鍋の底をついたからと暖簾を取り込むラーメン屋のオヤジのごとし。本当はミュージカル映画「A Song Is Born」の撮影とのダブルブッキングがあったので早く帰ったのだという説もあるが。ディジー・ガレスピー(1993年76歳昇天)との共演時もハンプトンは昂揚してソロが止まらなくなり、ガレスピーがもう自分の分の時間がなくなったと言い捨てて帰ってしまったという伝説もある。それもこれもノリの良さゆえだろうか。

 80歳を超えてもアメリカの親善大使や国連の音楽大使としてオーケストラを率い、オールスターズを組んで世界各地を精力的に巡業、止まらない熱演をし続け、一方で研究基金や大学奨学金の設立などの奉仕活動に尽くした。91年83歳、公演先のパリで最初の心臓発作に見舞われて95年に引退を決意。2002年の夏、94歳、ニューヨークの病院で昇天。

 マレットやスティックをさばくことをしなくなってからもハンプトンの手はその繊細さでいつも聖書の薄紙をめくっていた。ということを伝記で読んだとき、彼の止まらない昂揚が意味するものへ、私はようやくテーブルを挟んだ1メートルほどのところまで近づけたかに思えた。止まらない昂揚、それはアメリカのオールド・ジャズマンたちの敬虔な祈り、ゴスペルなのではないかと。黒人ライオネル・ハンプトンと日本人の私には、少なくとも1メートル、本当はもっとそれ以上の異人種の無視できない溝があるのではないか、そう私は思う。

 ⬇︎YOUTUBE
   Stardust Lionel Hampton Just Jazz. All Stars (Pasadena) 15’14”
   https://youtu.be/M4GFdJ_cJyo

♪ 中学1年、竹のレコード針

 49年春、疎開先の小学校から東京に戻って中学1年生になった。すぐクラスの一人と仲良くなり、彼の家に遊びに行った。開業医の父親の蓄音機でもてなしてくれた。手回しの蓄音機で、竹針だった。シープチ、シープチという雑音のあと、心地よいリズムの楽曲が聴こえ、やがて「ゲッチョー・ハー」と女が歌い出した。
 レコードを見たのも聴いたのも初めてだった。彼がレコードのレーベルを指差して、「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」とすらすらと読んだ。中学の英語の授業が「I am a boy.」で始まったばかり。さすがに医者の息子だと尊敬した。そして彼は「女じゃないよ、ライオネル・ハンプトンっていう黒人の男なんだって」と教えてくれた。犬が拡声器に耳傾けて HIS MASTER'S VOICE を聴く小豆色のレーベルだった。ジャズ調の音楽というものは、ラジオで聴いたエノケンの「私の青空」とディック・ミネの「ダイナ」くらいではなかっただろうか。

 軍国主義国家が一夜にして民主主義国家に染まったように、私の耳はハンプトンらアメリカン音楽の求道者に一変した。
 メディアは前述のJOAKなどのラジオだけ。当時ジャズはクラシック音楽、歌謡曲、民謡と分けられ、シャンソンやタンゴと一括りにされて「軽音楽」と呼ばれていた。「夕べの音楽」は曜日ごとに分野と解説者が異なり、デキシーランド・ジャズは河野隆次、スイング・ジャズは野川香文、野口久光、モダン・ジャズは牧芳雄などなど。私は耳をそばだててノートに取り、受験勉強はそっちのけでジャズの勉学に励んだ。ほかにも軽音楽、ダンス音楽の番組はあり、次々と開局する民放ラジオにも番組が組まれ、すべてノート取りの対象になった。
 紹介される中南米音楽には諸国、諸島ごとに独自のルンバ、サンバ、マンボ、ショーロ、カリプソ、レゲなどがある、とノートに書き取れないほどの学習情報があった。さらにはヨーロッパ各国にも。多くの分野の軽音楽を学び親しんだが、残ったのはデキシーランドからスイングに至るオールド・ジャズだ。スタン・ゲッツ、マイルス・デイヴィス、チャーリー・パーカーらのモダン・ジャズの潮流にはノレなかった。理由は単純、ハンプトンから遠いからだ。

 疎開先は静岡県藤枝駅裏の親戚の離れ屋敷だった。ある夜、東の高草山の向こうが真っ赤に焼けた。静岡市が空爆をうけているという。翌朝家の周囲の道や田んぼに雑誌や夜具の燃えかすが飛んできていて、戦火の猛威を知った。
 数日後、2里8キロを歩いて海近くの吉永村の母の実家に行くことになった。屋敷の庭に静浜村の空軍兵たちがところ狭しと正座していた。部屋のラジオの音量がマックスにされ、正午の時報に響き、玉音放送が流れた。兵隊たちの嗚咽が始まり、鼻すすりが重なった。座敷にいる親戚の人たちは沈黙していた。私にはことの次第がのみこめなかった。
 静浜は米軍の基地となり、藤枝駅裏にはドラム缶がうず高く積み上げられた。MPが立つようになった。2メートルはあろうかという背丈の敵さんたち。学童らは恐る恐る物陰から覗いていた。2日経ち3日経つと大男たちが寄ってきた。そしてなにかを差し出した。糖衣固形のチューインガムだった。分からずにいると口に入れて噛めという仕草。まず一人が噛んだ。「甘めー」と漏らす。口から出して隣へ渡す。ふた回り目になると甘みはなくなって、ゴムのような歯ごたえだけ。チューインガムという異文化の回し噛みである。

 敗戦国の子どもたちの屈辱の思い出だが、のちに私はそうとばかりは思えないストーリーを抱くことになった。回し噛みの思い出にはどこからともなくスイングする音が漏れ聴こえするからだ。
 歴史はバカ高い代償を払って私たち後世に平和という甘みを残した。危うくて、儚い甘みではある。しかし私は幸いだ。ライオネル・ハンプトンと出会い、楽しんだ。黒人オールド・ジャズマンたちが不幸を乗り越えて創造した愉快だ。
 だが待てよ、私という平和の中で育った日本人はハンプトンたちの「止まらない祈り」を心底、理解できたのかどうか、どうも確証が持てない。

 ⬇︎YOUTUBE
   ON THE SUNNY SIDE OF THE STREET 3’15”
   https://youtu.be/EmotcckapLY

 (元コピーライター)

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