【コラム】
1960年に青春だった(9)

ストリッパーは蛇と器用に生きていたのだろうか

鈴木 康之

 文学部校舎の半地下に生協があって、しんせいをバラ売りしていました。暮れなずむ夕刻、大隈銅像脇でカモを待つ。ボクのポケットの1円とカモが差しだす1円でしんせいが1本買えました。
 貧乏な夜学生にとって融通のきく時代でした。

 今夜の講義にどうも足が向きたがらない、そんな輩がたむろすると、寄せ集めた2、3百円で飲みに行きました。商店街に間口半間の怪しいカウンターバーがあって混ぜ物がワンショットグラス15円か20円で飲めました。
 ひと舐めずつ喉に染み込ませたら、新宿まで修行僧のように黙して歩く。無駄口たたくと脳に染み込んだアルコールが無為に発散してしまうからです。

 新宿・大ガードを紙飛行機のように急旋回。富士屋に向かいます。今日の思い出横丁の24、25番あたりのはずです。小田急百貨店のほうにあった大福と繁盛を競い合っていた焼き鳥キャバレーでした。

 ボクたちは富士屋の2階席へ。顔を覚えていてくれるお姐さんたちがいました。資金が250円以上あれば元気な声で「ビール2本!」と注文します。
 ビール大瓶125円ぐらい、焼酎1合グラス40円ぐらいだったと思います。ボクたち3、4人には容量の点でビールのほうが好都合でした。
 小皿のお通しが1人に1皿ずつ。当時は安かった鯨の細切りベーコンが数本。

 馬鹿話せずにできるだけ静かにゆっくり良い子の顔でいます。3人ほどいたお姐さんたちの顔を追います。お姐さんは客の注文を見逃すまいと目をサーチライトのように流していますから、よく目が合います。

 目が合ってもこちらは追加注文したいわけではありませんので、ひたすらにっこり良い子の顔のまま。あの坊や私に気があるんじゃないかしら、と思われたら御の字。それは高望みだとしても好感抱いてもらうだけで目的達成です。

 やがて盛り上がっていた一卓の客が腰を上げる。お姐さんが卓をさらいに行き、そのついでに瓶底に残ったビールをボクたちの瓶にじょぽじょぽと小便のように注いでくれます。その量によって、ときには漬物の残りなどをお通しの皿に滑らせてくれたりすると歓声で応えます。

 毎晩定刻に2回、スローテンポのレコード曲が流れます。マンボスビーの「セレソローサ」だったり。ショータイムです。右手で羽扇を、左手で裸体に巻きつく錦蛇を操るストリッパーが1階から2階へ、そして1階へと練り歩きます。

 乳頭と股間は極小衣装でナイナイされているものの、あられもない神秘の女体が手を伸ばせば届く、疑いようもなくそこに実存するというリアリティは、緊と張とで心穏やかならざる酒場の肴であったようです。

 蛇使いのストリップティーズとはよく考えられた歴史的な演出です。不埒な酔客へのガードというわかりやすい意図、蛇の持つ神秘性、妖怪性、隠美性、古来語られてきた神話性などなど。夢に出る蛇は男性の象徴であると説くフロイトやユングを待つまでもなく、蛇は申し分のない小道具でした。

 店内で踊り子にもっとも興味を示さないでいたのはボクたちだったでしょう。ボクたちはひたすらお姐さんたちに気を配っていましたから。
 なかでもボクは、疎開先の田舎でも大きくなってからも蛇だの蜥蜴だのの類が大嫌いです。

 忘れもしません、ある夜のこと、ボクが下階のトイレで用をたして戻るとき、急な階段の下で2階から降りてくるストリッパーとすれ違いになりそうになりました。もう数段で降りきるところだったので、というよりも蛇が目に入ったのでボクははたと止まって階段の下で道を譲りました。

 ところが彼女は客に遠慮し、逆に譲ろうと裸の体を一生懸命壁に押し付けて斜めになっています。ボクはぺこと頭で挨拶し階段を上がることにしました。
 すれ違いざま、香水と汗臭さに襲われ、彼女に抱きついている錦蛇の、糸のような舌の向きに怖気立って、蹴躓かないように急いで上がりました。

 テーブルに戻ると歌が始まっていました。酒の足らないボクたちのいつもの姑息なテで、拳を上げ下げして「〽都の西北、早稲田の杜に」を歌い出し、足らなければさらには「〽紺碧の空、仰ぐ日輪」を歌うのです。

 すると別なテーブルからビール瓶を手に「学部どこだ」の先輩ヅラが来る。ここで政経です、商学部ですと返せばもう1本にありつけたのでしょう。サラリーマンの父親が、政経学部か商学部なら受験料を出すが、文学部じゃだめだと渋った訳は要するにこんなところなのでした。

 そんなこんなで、富士屋は終電までにはそれなり酔わせてもらえる店でした。

 話は来た道を戻ります。
 戸塚二丁目と呼んでいたあたりの民家の四畳半に、同人雑誌の仲間が下宿していました。手持ちを寄せ集めても店で飲めないときには、酒屋で一番安い泡盛か焼酎を瓶で買い、四畳半で車座。彼の部屋にはグラスなんていうまともなものがないのでご飯茶碗と歯磨き用のコップを回して飲りました。

 その屋敷には小さな別棟がありました。そこに表通りでよく見かけた、というよりたいそうな偉丈夫なので目立った戸塚睦夫が住んでいました。後のてんぷくトリオの中の名ボケ役です。
 当時は新宿フランス座の専属で、ストリップ・ショーの合間に、とてつもない野太い声の石井均と組んでコントをやっていました。そのコンビが好きでわざわざ観に行ったこともあります。

 篠突くような降りのある日、仲間の四畳半を訪ねようと傘を半閉じにして通用門をくぐりました。枝が垂れ下がっていたので、そのまま腰を屈めて行くと、女性がボクの過ぎるのを待っていました。ボクはぺこと頭で挨拶をしました。

 腰を屈めていたせいか背の高い女の人に思えました。顔は傘で半ばしか見えませんでしたが、なぜかボクの目を避けるような、不器用な表情が印象的でした。

 四畳半にあがると下宿人が、それは戸塚睦夫と同居の女性だと教えてくれました。そのあとは同人雑誌の原稿の話かなにかになりました。
 が、ボクの耳は彼の話をちゃんと聞いていませんでした。

 さっきの女性が頭の中に戻ってきていて…。
 人の目を避けたがるような、その表情の不器用さを見せたままでいました。右肩をぎゅっと顎に寄せて身を隠したがるしぐさ。

 いつぞやの、焼き鳥キャバレーの階段の下のほうで通り道をボクに譲った錦蛇の彼女ではないか、そうに違いない。
 自分の存在を隠したがるような、それでいながら裸の身を晒しているのですが、しかし蛇を纏って隠したがっているような、半端な不器用さ。

 戸塚睦夫はボクより6つ年上で、40歳すぎに病に倒れました。
 彼女はその後どうなったかなあ、と思いめぐらせることががありました。

 当時フランス座系の小屋に出ていたコメディアンたちはそれなりに名前を残しています。ですがストリッパーは、和物で語り継がれている1人を除いてみんな名前は消えました。
 名プロデューサー、丸尾長顕の日劇ミュージックホールのストリッパーたちは何人も名前を知られ売れっ子になりましたが、芸能界に生き残りませんでした。
 ストリップなる芸の存在が消えて久しくなりました。

 富士屋で踊っていた彼女、いやあれは、踊るというより、蛇を巻きつけて客席の間を不器用に歩いていただけだった。
 その後、彼女はさも不器用そうに生きたのではないだろうか。ボクのそんな思い、彼女にとって大きなお世話でしょうけれど。

 ボクはのちのちTVCFづくりの世界にはいり、工芸蛇の存在を知りました。
 首ねっこで操作すれば、蛇腹が怪しく光ったり、全身が気味悪く蠢いたり、閃光のように舌が震えたりする。

 手品師に操られ、放たれると羽ばたく鳩や、水槽から飛び出して床上をばたつく鮪などを工夫する手職人がいました。指で仕掛けると、いっときは自ら動いているように見えました。

 本物のように動かせて見せる器用な偽物の世界もあったわけです。

 (元コピーライター)

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