【自由へのひろば】
チリメンジャコを守れ
—大分県保土島漁業者の訴え—
私は、保戸島に、生れ、昭和30年、保戸島中学校を、卒業して、保戸島の、一本づり漁業に従事して、2年後に、近海マグロ船、遠洋マグロ船に、乗船して、平成5年ごろから、再び、保戸島の、一本づり漁業にもどり、現在に、至っております。
漁業に、従事して、60年余りをふりかえって、日本の、水産漁業にキキテキな、ものを感じ、何も手をうたなかったら、日本の、水産漁業がカイメツと言う、キキカンを感じ以下を申します。
私が生れた、保戸島は、大分県の、東につき出た、四浦半島の、一番、東に、ある周囲4キロメートルの、小さな島であります。
又豊後水道の、どまん中に、位置し、海は、きれいで、潮の流れは、良く、海の幸、自然にも、恵まれ、豊かな島でありました。
南は、ツルミ沖、水の子灯台沖、東は四国沖、北は佐賀の関沖とどの漁場も、日帰りができ、一本漁業には、最適の位置にあり、島民は昔から豊かな、生活でありました。
戦前は、マグロ船が80数セキ、もありましたが、戦争で(チョウヨウ)なくなりました。
戦後マグロ船が、できたのは、昭和28年ごろからです。
昭和35年ごろから、保戸島のマグロ船も良くなり、マグロ船のセキ数も、しだいに増えて一番多ときは、19トンから90トン級のマグロ船が、166セキにもなり他県の、マグロ船が、ホロンで、いくなかで保戸島のマグロ船は、どんどん、良くなり島外の、人からは、金の島、宝の島と言われる、ほどでした。
マグロ船が、良くなってくると、保戸島から出て、いっていた、人たちも、次々と、保戸島に、帰って来て、島の、人口は、3800名余り、とふくれあがり、島の地価も一番いときは、1坪あたり、120万円もする、ほどでした。
こんな保戸島も、平成8年ごろから、カゲリが見えはじめ・・・マグロ船も、年ごとに、漁獲量が、へり始め又輸入マグロの、せいもあって、さいさんがとれなくなり、次々と、ほろんで、いき、当時166隻も、あった、マグロ船も今日現在では、合せて、15、6せきであります。
一本づり漁の方も、年ごとに、不漁が、つづき現在では、保戸島で、一本づり漁で、生計が、成り立って、いる人は、1人もおりません。もちろん、若い人が、一本づり漁に従事している人は、1人もおりません。
3800名余りいた人口も、今日では700名たらずです。
子供(小・中学生)も、600名ほどいたが今では、合わせて、7、8名であります。
●なぜ保戸島が、このようにだめに、なったのか
1.一本づり漁業の不漁
1.マグロ船の不漁
この、2つが大きいと、思ひます。
今回は、なぜ、保戸島の、一本づり漁業がだめに、なったのか・・・について申します。
イワシ、シラスの、とりすぎ、が保戸の一本づり、が不漁に、なった、最大の原因であります。
●イワシ
1.マイワシ 体長 20センチ
1.ウルメイワシ 体長 20センチ
1.カタクチイワシ 体長 15センチ
この3種を、イワシとよんでいます。
マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシ、の雑魚を(4センチから5センチ以下)シラスと、いいます。
イワシを煮干に、したのが、イリ子でシラスを煮干にしたのがチリメンジャコです。
イワシは、湾内の、藻場で、産卵して、湾内の、藻べり、の、浅い海でプランクトン食べながら、生長して、大きく、なるにつれ海洋に出てゆきます。
その一部は、大平洋まで、出てゆきます。
どの魚も、雑魚の、うちは、プランクトンを食べて、生長するのです。が、大きくなるにつれて、シラスを、食べさらに、大きくなると、イワシを食べて生長するのです。
イワシは、生涯、プランクトンを食べて、その一生を過ごします。この点が他の魚とちがうところです。
イワシは海の魚(生物)の食料として神様(天)がこの世界に、おくり出してくれたものだと私は思ひます。
海の漁(生物)は、イワシが、なければいきて、ゆけないのであります。
そのため、イワシは、他の魚に、食べられても、食べられても、つきることのないように、他の魚は、1年に1回しか、産卵しないのに、イワシは、1年に4回から5回も産卵するのです。しかも、あの小さなカラダで1度に4000個から4500もの卵を産みます。
又一説によれば、年中産卵している、と言う説もあります。
イワシは、日本中、北の端から、南の端まで、どこでも、生息しています。
サワラ、ブリ、ハマチ、等の魚が、イワシを食べるとき、イワシを水面に、おい上げものすごいラントウが始まり、キズついて死に、海底に、沈んでいった、イワシは海底で、生息しているエビ、カニ、等の生物の、食料になるのであります。
このように魚(海の生物)はイワシがなければ生きてゆけないのであります。
イワシは、食べられても、食べられても、へることの、ないように神様が(天)この自然界に送り出してくれたのです。
そのイワシを人間がイリ子などの食料として、とるように、なって、その量が少なかったころは、イワシがへってきた、と言う感じは受けませんでした。
昭和30年代に入って、取る漁業から、つくる漁業、なんて言う言葉を聞くようになり、養殖ハマチ漁業が、年毎に、さかんになり、その餌料としてイワシが、大量に漁獲されるようになってから、年毎に、イワシが少なくなるなあと感じ始めるようになりました。
その後昭和50年ごろから、チリメンジャコの人気が、良くなり、シラスが、大量に漁獲されるようになり、昭和57年ごろから、市場で、チリメンジャコの、人気がますます、良くなり、さらに、ランカクが始まったのです。
この当時、大分県下でも、1年に、5000トンから6000トンものシラスが水揚げされていたのです。
これを期に、イワシは見る見る少なくなっていき、保戸島でもあまりシラスのとびはねるのを見なくなりました。
イワシをシラスのうちに、とって、とってとりまくって
親のイワシは、天からふってくるのでしょうか
シラスは天からふってくるのでしょうか
このことが言えるのは、うなぎの養殖業、ハマチの養殖業等があります。
昭和60年ごろになるとイワシは少なくなり、いわしの魚価が上がり、ハマチ養殖は、しだいにコチイ餌料に、キリカエて行ったようです。
●イワシ、シラスと保戸島の漁業
保戸島では、昭和30年ごろまでは、サワラ、ブリ、ハマチ、等の魚に追われた、イワシがタビタビ(ショッチュウ)浜に、うち上げられていました。
『イワシが上がったぞ』と、だれかがフレルと島民は、きそって、浜辺へ、イワシを拾いに、いったのを、思い出します。
私のキオクでは、1年に、20回も30回もイワシが浜に、うち上げられていました。
沖合に出れば、イワシのハネ群は、どこでも見うけられました。
又時間タイによっては、海一面が、イワシのハネ群でいっぱいになることもありました。
浜辺(海岸)では、漁船で走ると、(航行すると)、シラスの大群をいたる、ところで、見かけたものです。
保戸島の一本づり漁で、漁獲される魚種は、サワラ、ブリ、ハマチ、タイ、イサギ、アジ、サバ、メバル等であります。
●サワラ
サワラが食べるものは、ほとんど、イワシでやく80%ぐらい、その他、イカ等を食べます。
イワシの、いないところには、サワラは、イナイと言うぐらい、サワラは、イワシを食べているのです。
保戸島では、9月から翌年の3月までサワラつりが主で、漁場は佐伯湾沖から保戸島沖でした。
昭和30年ごろまでは、サワラも豊漁で4隻の魚ウンパン船で関西まで運ぶのに、運びきれない、ときもあるほどでした。
私も、保戸島中学校を卒業して2年ほど、保戸島の一本づり漁業に従事し、サワラつりを、やりました。
そのサワラも、私が一本づり漁を、始めたころから佐伯湾の、イワシ、シラスの漁獲量が多くなったせいか、佐伯湾から保戸島沖のサワラ漁も、おもわしくなくなり、私が一本づり漁を始めて、2年目の終りごろから、サワラの漁場は四国沖(御五神島沖)へとうつりました。
私もこの海イキ(四国沖)へサワラつりに行きました。
四国の方でも、イワシ、シラスの漁獲量が多くなったせいか、私が一本づり漁をやめて、マグロ船に、乗船したあとは、サワラの漁場は、瀬戸内海へとうつり…瀬戸内海は、保戸島から、漁場が遠いため、保戸島のサワラ漁は終りました。
今日、現在、豊後水道でのサワラはマボロシの魚であります。
私がサワラをつり上げるのは、1年に1本か2本でサワラがつれない年もあります。
●タイ
タイが食べるものは、主に、イワシで、その他にイカ、エビ、カニ、フジツボ等であります。
その中でも、イワシが60%から70%で、あります。タイは、キョウレツなあごを、もち、ガンジョウな歯を、もっているため、雑食であります。
昭和30年代、保戸島の漁民が、タイをつっていた方法は、保戸島沖から、ひき潮に、シーアンカーを入れて、水の子灯台沖まで流してミチ潮に保戸島沖まで流して、その間にタイを釣って保戸島まで帰ってくると言う漁方でした。
イワシ、シラスが、大量に漁獲されるように、なると、この漁方ではタイがつれなくなり、昭和35年ごろからは、北の瀬、ヨコ瀬カンベエ、水の子灯台等の岩場の周辺で、タイをつるようになりました。
昭和50年代になると、イワシ、シラスの漁獲量が、ますます多くなるつれてタイは、少なくなっていきました。
昭和60年代になる、保戸島でタイをつって生活する人はごくわずかになり平成15年代になるとタイをつって生活する人は保戸島から、いなくなりました。
今日現在は、豊後水道のタイもマボロシの魚になりつつあります。
大分県下で、シラスが、大量に漁獲されだしたのとカサナリます。
この当時大分県下で、シラスの漁獲量が1年に5000トンから6000トンものシラスが水揚げされて、いたのです。
●ブリ、ハマチ
ブリ、ハマチ、が食べるものは、主に、イワシ60%イカ、小アジが20%、他であります。
昭和30年ごろまでは、保戸島周辺、どこでもブリ、ハマチ、は、良くつれていました、がネダンがヤスクて保戸島の漁民は、あまりブリ、ハマチは、つりませんでした。
でも1月から2月の、ブリ、ハマチは、多くの人が、ブリつり、ハマチつりをしていたようです。
昭和35、6年ごろから、サワラがつれなくなって、保戸島の人もブリ、ハマチをよくつるように、なりました。(9月から翌年の3月まで)
平成10年ごろまでは、ブリ、ハマチは良くつれて、いましたが平成15年ごろに、なるとキュウゲキに少なくなって、いきました。
ブリ、ハマチが少なく、なっていったのもイワシ、シラスが、大量に、漁獲された時期にカサナリます。
又このごろに、なると、保戸島周辺の、海で、イワシの、ハネ群を見かけることは、少なく、なりました。
海岸を、漁船で、航行してもシラスの、とびはねるのを、見ることも少なくなりました。
今日、このごろ、保戸島で、ブリ、ハマチがつれるのは、イワシの群が(小さな群)保戸島周辺に、たまたま、その姿を、見せたときに、1日か2日ほど、ブリ、ハマチ、が少しつれるほどです。
●アジ、サバ
アジ、サバも、雑魚の、うちは、プランクトンを、食べますが、大きくなるにつれて、シラスを食べ、さらに、大きくなると、イワシを食べます。
昭和35年ごろまでは、保戸島周辺どこでも、アジ、サバは、つれていました。
昭和28年ごろから昭和45年にかけて1年中、アジつりをして、生計を立て小供、4人を、大学まで出して、家を新築して、豊かな、一生を送った人もおります。
又昭和30、40年ごろは、ヨタキ(小型マキ網漁業、タキイレとも言う)で網を入れて、あまりにもアジが入りすぎて網が、ヤブケタと言う話はよく聞きました。
そのアジも、昭和50年ごろに、なるとアジをつって、生活ができる人はなくなりました。今日現在では、ブリ、ハマチ、を、つるのにエサにするための、小アジも、ままにつれないジョウタイであります。
豊後水道の、アジ、サバがつれなくなっても別府湾ではまだ、アジ、サバは、たくさんつれていました。
でもテレビのニュウスで、別府湾で、シラスが1日に30トンも水揚げされていると聞きました。そのころは、別府湾のアジ、サバはもうつれなくなっていました。多いときは350セキもあった、別府湾の遊漁船も、そのときは、50セキ余りになっていました。
別府湾で350セキも遊魚船があったころ私も別府湾に、アジ、サバをつりに行ったことが、あります。
そのときは、いたるところで、アジ、サバのハネ群を見かけたものです。
どこで、釣道具を入れても、入れぐい、のジョウタイでした。
平成20年ごろ、別府湾に、アジ、サバを、つりに行ったのですが、佐賀ノ関の海峡から、クニサキの、飛行場沖までギョグンタンチキのエイゾウを見ながら航行しました。魚エイはほとんど、見ませんでした。
帰りには、海岸よりを、海岸づたいに航行しました。が小さな、魚エイしかうつらず、針道具も入れず、保戸島に帰ってきました。
佐賀ノ関の海峡で、少しだけアジ、サバがつれるようです。
あの有明なセキアジ、セキサバもマボロシの魚になりつつあります。
●メバル
メバルが食べるものは、シラスが60%他、小さなエビ、小さなカニ、が20%他であります。
昭和30年代では、メバルをつって市場に出す人は、保戸島では、いませんでした。
わが家の、おかずに、一本づり漁からの帰りにメバルを、つって来る、ほどでした。
保戸島でメバルがつれるのは、3月から6月で、その間をすぎると、ほとんどつれなくなります。
小供のころ、学校から帰って来てメバルを、つりに行って、夕食のおかづに、メバルをたくさんつって来て母に、よろこばれたのを思ひ出します。
とにかくこの当時メバルは、多かったです。
昭和40年ころになると、メバルをつって市場に出すようになり、つれるときは、50キロから60キロもつるほどでした。
そのころ、シラスは、少なくなったとは言えまだ、保戸島の海岸には、シラスは回遊して来ていました。
このように、多かったメバルも、平成15年ごろに、なると、保戸島に、回遊してくるシラスは、キョクタンに、少なくなりメバルも、つれなく、なりました。
4、5日かけてメバルをつりだめて市場に出すありさまでした。
この時期、保戸島の海岸で、シラスのとびはねる、スガタをあまり、見かけなくなりました。
今日現在では、メバル釣りにいっても、わが家のオカズ、もつれないじょうたいです。
サワラ、ブリ、ハマチ、タイ、アジ、サバ、メバル、イサギ等の魚(海の生物)がイワシ、シラスを食べて、生息しているのです。
海の魚(生物)はイワシ、シラスがなければ、生きて、ゆけないのであります。
そのイワシ、シラスを市場で、人気が良いからといって、ムセイゲンにとってイワシ、シラスが海から、いなくなるようなことを、人間がやっているのです。
イワシは、天からふってきません。
シラスは、天からふってきません。
●『これで良いのでしょうか。』
私はこの文を、書くに、あたって、大分県の漁村を、何ヶ所か、歩いてみて、何人かの漁師の方と、話をして来ました。
どの地区(漁村)も、保戸島との、とる魚には、少しの、ちがいは、あるが、じょうきょうは保戸島と変わらないなあと思ひました。
以上のことを、県の水産試験所、県の水産力、にいって、話をしました。
●『県の水産力を県水と書きます。』
話が終って、県水の人から、かえってきた言葉に、私はビックリギョウテンあいた口がフサガラナイおどろきました。
県水 『吉田さん、あなたは、そう言うが海の魚は少しもへっていません。むしろ、増えている魚種もあります。特にイワシはふえております。』
私 『何を、こんきょに、そんなことが言えるのですか』
県水 『私たちは、長年、データーをとってそれにもとづいて計算しています。』
私 『そのデーターとやらを見せてくれ』
県水 『カク市場で、とりあつかった、その数量で計算しています。』
私は二度ビツリ。
私 『私はそのデーターとやらをヒテイはしません、それは、それで、素晴らしいデーターだと思ひます。
でも海の魚は、どんどん少なくなって魚種によっては、マボロシの魚になりつつある魚もあります。
特にイワシ、シラスは豊後水道から、キエテ、なくなりつつあります。』
県水の人は、こんどは、新聞記事をもってきて
県水 『この記事でも、イワシは大漁です。イワシはふえている魚です。』
私はビックリの、レンゾクであります。
私 『あなたたちの、データーも、新聞記事も、私は、ヒテイはしません。すばらしいことです。』
私 『海の魚(海のシゲン)が、へっているのかふえているのか、を計るのに、あなたたちの、そのモノサシでは、計れません。そのモノサシはまちがっています。
海の魚が、ふえているのか、へっているのかを、見きわめるために、そんなモノサシを、つかうから海の魚がカイメツじょうたいになってもあなたたちには、わからないのです
そんなものサシを使うから今日のような、あれはてた海になったのです。』
県水 『でも吉田さん魚はふえております。』
私 『あなたは、私が、これだけ話して私の言うことが、理解できない人では、ないと思う。
あなたは、私の言うことが理解できたと私は思っています。
あなたの目を見れば私にはそれが、わかります。』
県水 『言葉なし』
私 『このように、あらした、海をあなたたちは、次の世代の人に渡すのですか。』
私 『今の保戸島では「今年こんなに漁がなくて、来年は、もうつるものはありめえなあ」と』
●『今年こんなに魚がつれないで、来年はもうつれる魚はないだろう』
私 『私が今日、ここに来たのは、あなたたちに、もんくを、言いに、来たのでは、ありません。けちを、つけに、来たのでもありません。お願ひに、来たのです。
この、あれはてた、海を、あなたたちの力で、なんとかしてほい、ただその、一心です。』
私 『保戸島では、「自分が、死んだ、あとのことなどしったことか」と・・・まぐろ船主で「うちの息子がもうけさえすれば、他人の船のことまで、しったことか」
それを口に出して言う・・・』
私 『このような考え方の人が、島のトップに何人もおります。
私はそのレンチュウに、その考え方が保戸島のまぐろ船をほろぼし保戸島をほろぼしているんだと説得するのですが、わかってもらえません』
私 『あなたも、そんな考えですか』
県水 『無言』
私 『今日、いろいろ、あなたに、失礼なことも言ったと思う、わるく、とらないでほしい。ただ、ただ、魚をまもりたいの一心でのことですから』
終りに握手して
県水 『今日のことは、上司につたえておきます。』
●終りに
この文を読んで、1人でも多くの人がこのことに関心を、もち、1人でも多くの人が、行動して、くれることを祈るばかりであります。
(吉田治隆 大分県津久見市大字保戸島1521の59 昭和15年1月19日生)