【コラム】1960年に青春だった!(18)

テレビよ 黙れ

鈴木 康之

 1980年代にはテレビCFの仕事もしていました。ボクがホームにしていた新聞・雑誌など静的な印刷メディアの広告に比べると、動的な視聴覚メディアであるテレビCFはアテンションを高めるために喧騒さを競い始めた頃でした。まるで午前中の幼児番組のように大声と速いテンポで。

 テレビに凪の時間を、と独り想っていたボクに、願ってもないチャンスをくれたのはビーバーエアコンの新製品でした。設計コンセプトは徹底した静粛性。
 よーし、CFもとびきりの静粛設計にしてみよう、と企てました。

   天井に吊るされて廻るベッドメリー。
   赤ちゃんの目から見上げるアングルで、
   スローモーションのワンショット撮影。紗をかけて柔らかく。
   オルゴールの音色で「シューベルトの子守唄」。
   少しずつ音を絞って、おやと思わせていき、最後はノンモン(無音声)に。
   ナレーターは赤ちゃんを起こさないよう気遣って、
   「静かな 静かな ビー バー エア コン」。
   サウンド・ロゴもオルゴール。
   そのあともノンモン(無音声)で約数秒。

 これは放送法ぎりぎりのオーディオ演出でした。

 https://youtu.be/Bc-HyxEvGSQ
 試しに音量を3分の1ほどにして聞いてみてください。

 やったぜ、と、広告賞総なめのつもりで舌なめずりしていました。が、賑やかなCFたちに蹴落とされましたっけ。

 ちかごろのテレビは番組までもが耳ざわりです。

 一例が先ごろの米国大統領選挙を伝えた報道番組の日本語アテレコ。
 トランプのアジテーションには、どの局もいかにも横柄で強圧的な権力者らしい声優の日本語を当てていました。
 それはいいとして、能がないのはバイデンのほうの声づくりでした。トランプとは対照的に、冷静、融和のイメージ戦略をとっていたはずなのに、日本語の声質と演技は、悪玉トランプのそれと同類のものでした。

 わが国テレビ局の多くのディレクターが、超大国の大統領選の熱狂にのまれたのでしょう。善玉バイデンの声づくりを見つけられないままに大統領戦報道は終ってしまいました。

 耳ざわりな低次元番組、もう一つは食レポ番組です。見なければよかったと後悔するのですが、食いしん坊なのでつい見てしまいます。
 もったいぶってご馳走を口に入れるなり「チョーウマ~」「メッチャクチャウマッ」「ウマッサイコ~」などとしか食レポできないお粗末タレントたち、それを垂れ流すことしかできない無能ディレクターたち。

 五輪金メダリストがプールから上がって発した第一声、あの「チョーキモチイー」が、いまや歴史に残る名言といわれているようです。
 漢字世代には違和感があって冷笑含みで聞いたものでしたが、若いカタカナ世代にはドンピシャはまり、五輪放送という国家的な場でハクがつき、国語としての市民権を得て、以後お花畑を飛びまわるチョウチョウの如しです。

 「チョー」や「サイコー」を発する彼ら彼女らの胸の内をよく覗いてみると、元祖金メダリスト氏が絶叫した際の、「超=スーパー」、「最高=ベスト」の感動性とは次元が違っていて、つまり最上級表現ではないのですね。
 独自の適切な言葉を見つけようという表現者としての知恵はなく、さりとてお喋り人間としての自意識はないわけでもなく、口に出るのは祭りの音頭の「アコーリャ」と同じ掛け声でしかない。

 お喋り人種ほど言語にルーズです。自分本位です。言葉の由来や本来性などはお構いなし。これが扇動的人種の口の端にのると、国語辞典に載ることになる。その事例は枚挙に暇がありません。

 話すメディア、ラジオではなくて、映像メディア、テレビのほうに芸の人とも思えないお喋り人種が多いのはどうしたことでしょうか。
 テレビが気安いメディアである、と送り手自身が思い違いをしている、媚を売っている、そうとしか思えない。

 そうとまで見下げるのならテレビを見なければいいではないか、消せばいいではないか、とおっしゃいますか。
 それがボクにはできないのです。ダメなものを見捨てることができない。自分自身を含めて。ダメなテレビが可愛い。ダメゆえになぜか無視できない。見捨てずに、憐れんで、ともに居たい、というそもそもが非生産的な人間なのです。

 もうふた昔以上も前のことですから現在どうなっているか知りませんが、米国NBCテレビがスポーツ中継に「沈黙のルール」を作ったと聞いて、たいそう感心した覚えがあります。

 アメリカン・フットボールの中継放送では、集音をマックスにし、選手たちの激突音はむろんのこと、司令塔クォーターバックの声をあますところなく捕え、アナウンサーや解説者は声がだいじな音声とかぶらないように原則沈黙。

 野球のワールドシリーズでは、ホームランが出たあとアナウンサーも解説者も口を閉ざして、カメラにすべてを託す。ダイヤモンドを駆ける選手を追うだけの映像ではテレビ桟敷からブーイングが起こる。球場内のすべてのカメラがそれぞれに打たれたバッテリー、両軍の監督、選手、観客、ボールボーイや飲み物の売り子にいたるまで、すべての人の所作、表情を精力的に捉えて届ける。
 後付け、後追いの言葉は不要。テレビは見れば分かるメディアだからです。

 成熟したオーディエンスがいて成熟したメディアが育つのか。成熟したメディアがあってオーディエンスが成熟するのか。愚生には分かりませんが、この試みが情報サービスの理想形だったとは思えます。
 つまり、「沈黙のルール」は両サイドに賢明なリスペクトがなければ成立しないわけですから。

 「沈黙は人間を偉大にする」とは、キルケゴールの箴言。日本のテレビ局に贈りましょう。手遅れではないでしょう。
 ついでに「多言なればしばし窮す」という老子の教え。こちらは日本のお喋り老政治家たちに。手遅れですか。

 神は天地人を創造しました。その出来栄えを見て、「極めて良し」とうなずいたと『創世記』にあります。
 そしてその出来にゆるぎない自信を持ったのでありましょう。神は以来自ら範を垂れて「沈黙」という「チョースゴイ」知恵を人に授け続けています。

 (元コピーライター)
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