【コラム】
ザ・障害者(15)

テーブルマナー

堀 利和

朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ。」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ。」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、ちがっていらっしゃる。

 これは、太宰治の『斜陽』の冒頭の文章である。お母さまがマナー通りに食事をしているわけではないが、それがむしろ優雅で品のある姿として見える。そんな風景を描いた文章である。

 私たち障害者にとっては、しかも障害の特性によっては、食事の方法はマナー通りにはいかない。たとえば、脳性マヒ者がビールを飲む時にはストローで呑む。また、重度の障害者にあっては介助してもらうということにもなる。でも、それが当たり前の風景である。
 視覚障害者である私は左手で料理を触り、確認しながら食べる。大勢で食べる際には私用のお皿に「餌」を入れてもらう。

 さて、いわゆる西洋料理はどうするかである。これは日本料理より食べにくい。ご飯、味噌汁、おかずなら、左手に茶碗やお椀をもって食べることができる。場合によってはお皿でも左手で持つ。ところが、西洋料理はそうはいかない。ステーキの場合はどうするか。まず、ナイフとフォークでステーキを食べやすい大きさに切って、それからフォークを右手に持ち替えて刺して食べる。ライスも右手で食べる。

 これは、私が日本人だから西洋料理が食べにくいというわけでもなさそうである。30年ほど前、DPI(障害者インターナショナル)のアジアブロック結成大会でオーストラリアのアデレイドに行った時のことである。レセプションでたまたま、オーストラリア人の20代後半の全盲女性と席が隣になった。彼女は長崎に2年間留学した経験があり、それでお互いカタコトの英語と日本語で会話ができた。
 特に欧米人は箸で食べるのが苦手であるが、そのハンディを考慮にいれて、彼女に聞いてみた。箸で食べるのとナイフやフォークで食べるのとではどちらが食べにくいか? すると、日本料理の方が食べやすいと答えた。やはりそうか、と納得した。茶碗やお椀、器を手にもって、しかも口をつけて食べたり飲んだりすることができる。さらに有利なのは、ナイフやフォークの金属製よりも箸の木の方が感触が伝わってくる。ただし、箸を使えない脳性マヒ者の場合はフォークの方が使い勝手がよい。
 ここで目の見えない者が苦手な代表格は、もりそば、冷奴、魚の姿煮・姿焼き。水上勉の検校の演劇で、どうして里芋ばかり食べるのですか? 「お里には骨がないからです」というセリフがあった。

 30年以上も前のことだろうか、母親と施設からの反対を押し切って盲人施設を出て、1人暮らしを始めた盲ろう者Sさんがいた。おそらく盲ろう者の自立生活の第一号ではなかろうか。私も彼を支援して、そして施設を出た後、居酒屋で呑んだ。
 つまみにお刺身の盛り合わせを頼んだのだが、

「この固いのはなんだ?」
「それは木、小枝」
「なぜ、食べられないものをいれておくのか」

 確かに。食べられない小枝を刺身皿に入れるのはおかしい。その通りだ。施設ではそんなことはもちろんありえない。

 話は変わるが、キツネとつるのイソップ物語がある。キツネはつるを招待して、食事をふるまう。キツネはお皿の料理を食べているのだが、つるはとても嘴では食べられない。今度は、つるが恩返しにキツネを招待する。つるは筒の器で料理を食べるのだが、キツネは口が入らない。
 障害者権利条約、障害者基本法、雇用促進法、障害者差別解消法→社会的障壁を除去するための合理的配慮を行わないことが差別にあたる。ただし、配慮が「過重な負担を課さない時」とされている。

 (元参議院議員・共同連代表)

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