【コラム】海外論潮短評(109)

「われわれがモンスターを生み出した」
— パニックに陥ったアメリカのメディア —

初岡 昌一郎


 イギリスのメディア専門誌『ブリッティシュ・ジャーナル・オブ・ジャーナリズム』2016年6月号が、表記の記事を掲載している。船便で到着したこの雑誌から、やや遅まきではあるが、注目される米大統領選を直前に控えたタイミングで紹介する。本論の率直かつ厳しい批判を読むと、アメリカ・マスメディアの弱点と政治の劣化に愕然とせざるを得ない。

 筆者は、英国で代表的なタブロイド日刊紙『デイリー・メール』のアメリカ特派員、トム・レオナ—ド。この記事の文体と表現はイギリス的な風刺と諧謔に満ちたものである。そのロジックとニュアンスを伝えようとするとあまりにも回りくどくなりそうなので、思い切って要約的かつ日本の週刊誌的にストレートな表現に変換し、趣意を以下に紹介する。

◆◆ 彼らはトランプの出現を承知していた

 メディアは今になってドナルド・トランプに厳しく当たっているが、彼を忌み嫌うジャーナリストたちの協力なしに彼が脚光を浴びることはなかった。アメリカのメディアはフランケンシュタインを生み出してしまった。自らが主たる責任を負うべきモンスターの創出に対し、かれらには厳しい反省と悔悟が必要だ。

 トランプの政策や雄弁力が彼をアメリカ政治の前面に押し出したのではない、と批判するだけでは十分でない。メディアで彼を今嫌悪している者たちこそが、彼をこの高みに祭り上げたのだ。共和党大統領候補にのし上がったトランプは、彼の支持者たちの呼ぶ「偏ったメディア」を好んで嘲笑しているが、本当は大いに感謝すべきだ。

 アメリカの歴史を通じ、大統領候補でこのくらい新聞見出しと電波で取り上げられた者はいない。彼を機知に富む人物として持ち上げたのはCNNだけではない。ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムスも然りで、メール・オンラインでさえそうだった。アメリカのジャーナリストは自分の影響力を過小評価することはほとんど稀だが、今回こそはトランプの壮大な成功に対するその功績を自慢してもおかしくはない。

◆◆ 誤算を犯したメディア

 トランプ騒ぎに大統領選挙の話題をほとんど独占されたかの感があるが、その選挙運動はメディアにとって本来重要視するようなものではなかった。彼らはトランプの表舞台への登場を全く予測しておらず、彼の大統領選向けの戯言をテレビのショーとしかみていなかった。彼が政治舞台に登場した時、その人気、政治的能力、大法螺を吹く性癖をメディアは過小評価していた。今になってさえ、メディアは判断をためらっている。

 彼は本当に真剣に大統領選の勝利を得ようとしていたのか、それともヒラリー・クリントンに対抗し、そのチャンスを民主、共和両党の大連立によって奪われたという敗者の栄光に包まれて退場するつもりだったのかをメディアは見定めかねている。

 アメリカのメディアがトランプを十分に理解していたならば、彼の意図もわかっていた筈である。トランプのあらゆるツイートはすぐに大げさに取り上げられ、その一つ一つが絶えず論じられていた。遅まきながら、アメリカのジャーナリズムが自賛する透徹した分析も行われた。だが、「ドナルド」と親しみを込めて呼ばれてきたように、長い間彼の発言は単なる大きなジョークとして扱われてきた。

 彼はやり手の実業家なので、自分の経済効果を高めることには抜け目がなかった。『ニューヨーク・タイムス』が計算したところでは、現在のキャンペーン中の無料PR効果を20億ドル相当とみている。それは彼が支払った政治広報費の190倍に当たる。いうまでもなく、彼の宣伝効果価値は他の両主要政党候補たちの何倍にも上る。クリントンの得た無料宣伝の価値は7.5億ドル、トランプの一番のライバルだったテッド・クルーズは約3億ドルと見積もられている。

◆◆ 地盤沈下に悩むメディアとトランプの共犯関係

 トランプだけが一方的に得したわけではない。テレビニュースはそのスケジュールをトランプに明け渡していると非難されてきたが、その種の批判は見返りに得たものに比べれば安いものだ。例えば、CNNは2年前までは不振に喘いでおり、ウオールストリートのアナリストはその将来に疑問符をつけていた。トランプを全面的にカバーし、候補者のテレビ討論を終始放映したおかげで、その視聴率を170%も上げている。大統領候補討論中継中、CNNは30秒のコマーシャルを20万ドルで売り、それを一晩で平均40回放映してきた。

 いかに恩着せがましい態度をとろうとも、メディアが彼にいかに依存しているかをトランプはよく承知している。トランプは優れたエンターテイナーであり、メディア、特にテレビでは政治的な啓蒙よりも娯楽的な要素が重視されていることをよく心得ている。情けないことに、今日の大統領選挙もこの流れに乗っている。彼が出演したショーでは、10秒ごとに彼の映像が繰り返されている。公共放送で見たある番組では、15秒ごとに彼の名前が3回も繰り返されていた。あらゆるメディアで終日、トランプの名前と顔が登場している。トランプとメディアの関係は持ちつ持たれつで、麻薬常習者とそれをお得意様とする売人のようだ。

 もちろん、メディアが低俗な関心を餌に視聴者を追い求める傾向を一概に非難できない。共和党の他の大統領候補があまりにも平凡な人たちで、前回の大統領選で大敗した凡人ロムニー候補のほうがまだましだとの声が聞かれるほどであった。クルーズがある程度のカリスマを持っていると期待する向きもあったが、彼でさえも全く魅力を欠く政治家であった。

◆◆ トランプ・マニアの出現はジャーナリズムの水準低下の兆し

 世論調査にみるトランプ・マニアの登場は、アメリカ・ジャーナリズムの水準が低下していることを不可避的に示している。日曜朝の人気テレビ番組、政治討論会は出席した政治家を厳しい質問にさらす伝統がある。ところがトランプはあまりにもモテモテなので、彼に限って討論会に出席することなく電話での応答が許された。そのテレビ討論は漫画のようだった。候補者が他の候補を名指しで発言した場合、司会者はほかの話題に移る前に直ちに反論の機会を与えるという、馬鹿げたルールによって行われた。彼のライバルはトランプの名前を出さずに発言を締めくくることができなかったので、それがトランプにテレビ討論をほとんど独り占めにし、長広舌をふるう機会をふんだんに与えた。

 トランプは大好きなツイッターの徹底した利用者で、ワンフレーズ的に短いショッキングな発言でこの媒体をフル活用した。時として行き過ぎた発言で反発を招いたが、その極端かつ挑発的な言行は喝采を浴び、熱狂的な支持者を獲得した。彼は問題発言を連発したので、その一つ一つが吟味される間合いの暇がなく、次の問題発言にすぐに関心が移っていった。それらの発言の多くは全く事実の裏付けを欠くものであったにもかかわらず、十分な追求の機会なしに見逃されてきた。

 アメリカ・ジャーナリズムの鉄則であるはずの事実確認がトランプの選挙キャンペーン初期にはほとんど不在であった。トランプが設立した大学が詐欺まがいと告発されていることや、怪しげなウラ社会にどっぷりつかった人物と過去に繋がりのあったことなど、詳細な経歴について有権者は今になり初めて知り始めた。他方、彼の途方もない個人中傷攻撃や、明らかに怪しげな発言の多くがこれまで挑戦を受けずにまかり通ってきた。

 しかし、一部のコメンテーターが指摘しているように、彼の不正確な発言や真っ赤なウソが指摘された場合にも、その熱狂的な支持者にとってはあまり問題ではなかった。トランプは指摘や批判に釈明せず、彼には「大胆な」政策を具体的に説明する気はなかった。支持者もそのような面倒なことを彼に求めていない。彼が率直に語った内輪の会合で述べているように「私が人を殺したとしても、人々は自分に投票する」と自信たっぷりだ。

 アメリカ・メディアのコメンテーターたちは、トランプの提起する脅威をなぜ理解しなかったのだろうか。大きな理由は、雇用を取り戻し国民的なプライドを回復させる救世主待望論が、ワシントンにこそなかったけれども、アメリカ社会のど真ん中に大きく存在していることを知ろうとしないからだ。4年に1回の予備選挙が行われるまでは、テレビの評論家たちはアイオワなどの僻地州に足を運ぶことがない。彼らは草の根保守層を無視していただけでなく、民主党左派の対立候補バーニー・サンダースが大きな支持をうる理由も全く想定していなかった。

 本論を執筆する直前に恒例の「ホワイトハウス報道記者ディナー」に出席した。ホワイトハウスとその取り巻き記者・評論家たちの不健康ななれ合いぶりを見ると、トランプ支持者になってしまいそうだった。そして、ワシントン在住の無気力で礼儀正しい政治評論家たちの価値観を真っ向から批判したい誘惑にかられた。アメリカ・メディアの大部分が劣化し、腐敗しているとは思わない。でも、ワシントン・ヒルトンの大宴会場で政治家にお追従をのべ、上品なジョークを交わし、お互いに褒めあっている評論家や報道記者たちを見るに堪えなかった。

◆◆ どこに行くメディアの公平性と真実の追求

 事実確認と真実の追求、そして公平な報道というアメリカ・ジャーナリズムの金科玉条がナイーブで、効果を上げることなく終わったのは今回が初めてのことではない。1994年にニクソンが逝去した時、有名な報道記者ハンター・シンプソンが「客観性というルールとドグマがビルトインされているために、“トリッキー・ディック”(信用ならないニクソン)がホワイトハウスに潜り込むのを許した」とメディアを批判した。「ニクソンを見抜くには主観的でなければならなかった。認識によるショックは苦痛を伴う」と彼は喝破した。

 トランプ報道をめぐり、『USニュース・アンド・ワールドレポート』誌編集者ロバート・シュレジンジャーが「メディアを再び偉大にするための四つのささやかな提案」を書いて、トランプに挑戦しないメディアを批判した。彼は、失敗と破滅という結果よりもプライドと自己満足を重視するメディア文化を嘆いている。メディアがオバマを過剰にプロモートしたように、今回はトランプをそれよりもはるかに過剰にプロモートとしていると彼は指摘する。

 メディアに論争を仕掛けるトランプにたいし、報道陣やコメンテーターたちが十分な応戦をしていないことも批判の俎上に載せている。ジャーナリズム授賞式ディナーで「メディアにとってあるべき仕事とは、発言を促すためにマイクを差し出すことではない。調査し、疑問を投げかけ、深く追求し、もっと詰問することである」とトランプが述べたという。もし、キャメロン英国首相がジャーナリストにそのようなことを抜け抜けと説教したとすれば、イギリスのメディアは総反撃し、釈明を断固として迫るだろう。

 アメリカのメディアはそのような対応をしなかった。帽子を脱いで大統領候補に言い訳をし、この次はもっとうまくやりますと約束した。だが、本当に次の機会が到来するだろうか。トランプは、メディアに対する訴訟をやりやすくするために、法律を「開放」すると公言している。トランプとアメリカのジャーナリズムの愛憎関係は、哀れな「フランケンシュタイン」という怪物と、それを作り出した無謀な化学者のようだ。怪物がその創造主に感謝することは決してないだろう。

◆ コメント ◆

 仲間のジャーナリストにたいしても鋭い批判を書く記者には脱帽する。このような批判の精神を失ったジャーリズムは「ポチ」になり易い。新旧メディアのポピュリズムに踊らされる政治の現状を、最近号のロンドン『エコノミスト』は「ポスト・トゥルース・ポリティクス」(脱真実の政治)と名付け、長文の解説記事を掲載している。真実を無視する「何々とみられている」式の報道が世界的にまかり通っているのだ。ところがこのポピュリズムが権力によって操作され、「脱真実の政治」に奉仕させられるとさらに危険だ。

 今春発行された『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』(双葉社)の一読を薦めたい。筆者のマーティン・ファクラーは『ニューヨーク・タイムス』元東京支局長を2015年まで10年間務めたのを含めて在日23年に及び、日本語も堪能で日本事情にもっとも精通した外国特派員であった。彼の発信した記事はしばしば太平洋の両岸、東京とワシントンで話題と論争の種になった。

 日本では政府と政治家の記者会見が記者クラブによって統制され、裏付け調査やチェックのないままに発表がそのまま記事になるという、ニュースの垂れ流し状態を早くから一貫して批判してきた一人である。最近の安倍内閣では官邸の記者会見に対するコントロールが一層厳しくなったことを本の冒頭で紹介している。そもそも質問を事前に文書で提出し、それにたいする回答として首相が官僚作文を読み上げる光景は言論の自由を標榜する民主主義国では考えられず、あたかも独裁国家元首の記者会見のようだ。民主党政権時代、鳩山首相や岡田克也外務大臣が過去の制限を取り払い、自由な記者会見を行っていたことをファクラーは高く評価している。

 従軍慰安婦問題と原発事故に関する吉田調書に対する朝日新聞の土下座的な謝罪と、それに対する同業他社の嵩にかかった批判を考察して、そこには「事実究明」よりも「自己保身」、「情報公開」や「報道の自由」の原則保持よりも、政府とエスタブリッシュメントに対する迎合が横行していると分析している。これを彼は「メディアの自壊」という。

 「ネット右翼と安倍政権の関係」や「権力vs調査報道」「失われる自由」などが具体的な例を挙げて説明している本書の瞥見は、マスメディア問題の再考に役立つ。アメリカ・メディアのトランプ騒ぎをあざ笑うどころか、足元でもっと悪い状況が進行しつつあることを今更ながらに思い知らされ慄然とした。

 (姫路獨協大学名誉教授)


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