【コラム】風と土のカルテ(89)

パラリンピックと障害者の当事者自治

色平 哲郎

 できることならコロナ禍の影響がないときに開催してほしかった、と思いながらも、無観客のパラリンピックをテレビで見た。選手たちの懸命さに胸を打たれる。

 パラリンピックの起源は、1948年、第二次世界大戦で脊髄を損傷し、車椅子に乗る兵士たちのリハビリテーションのために英国のストーク・マンデビル病院で開かれた競技会だ。「手術よりスポーツを」という理念が掲げられたという。

 それから七十数年が経過し、脊損だけでなく、四肢の切断・機能障害、脳性麻痺、視覚・知的障害などを有する人の世界的な大会へと大きく様変わりをした。現在のスローガンは、こうだ。

 「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」

 障害を乗り越えて生きる原理が伝わってくる。

●脈々と続く助け合いの道

 実は、新潟市で暮らしていた私の祖母・本永ヨイは目が不自由だった。小学生のころ、親に連れられて遊びに行くと、祖母の周りには同じように目が見えない人たちが集まって、「あはき」の腕を磨いて地元の人に施術していた。「あはき」とは「按摩マッサージ指圧」「鍼」「灸」のこと。子ども心に、目が見えないのにどうやって1万円と5千円のお札を区別できているのだろうと不思議だった。現在のお札には、下側に1,000円札なら横棒、5,000円札は8角形、1万円札には鍵型のマークがついている。

 とにかく、視覚に障害があっても仲間と助け合い、自立して生きていることに感動した。これは日本独特の障害者自治といえるだろう。

 中世から近世にかけて、視覚障害者の集まりは「当道座」と呼ばれた。琵琶法師の集団が典型で、検校(けんぎょう)、別当(べっとう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう)の位階の下、互助組織の「座(組合)」を形作る。江戸時代に入ると、当道座は幕府公認の団体として保護を受け、三味線や胡弓、筝曲などの芸能に加え、按摩、鍼灸が座の大切な職分となった。

 幕府は、職能組合である座を視覚障害者の受け皿にして障害者の経済的自立を図ろうとした。これは、幕藩体制が地方分権を基盤にしていたことと結びついていよう。当事者が自ら治めることを尊重した。その後、明治維新で中央集権的な新政府が誕生すると、当道への保護は廃止されるが、目の見えない人が互いに協力し合い、「あはき」で生きる道は当事者を中心に継承されたのだった。

●奨学制度の末永い継続を願う

 この「あはき」を、世界の目の不自由な人たちに伝えているグループがある。社会福祉法人国際視覚障害者援護協会(IAVI)だ。1971年に創立されたIAVIは、教育環境や就労機会に恵まれない国々の若い障害者に日本で勉学する機会を提供し、経済的自立を目指して「あはき」の施術技能やIT技術などを習得してもらう奨学制度を運営してきた。

 来日した視覚障害者が留学終了後、自国の障害者福祉を高め、指導できるよう人材育成にも力を入れている。現在までに韓国、中国、台湾、バングラデシュ、ブラジル、インドネシア、ケニア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、モンゴル、ネパール、シンガポール、スリランカ、スーダン、タイ、ベトナム、キルギスなどの国や地域から多数の留学生を受け入れ、自立を支援してきた。

 ところが、数年前、国からIAVIへの年間400万円弱の補助金が「国益に資していない」という理由で廃止された。国益とは言いも言ったりだろう。財務省や文部科学省は、日本の歴史と伝統に根ざした国際貢献を、いとも簡単に補助の対象外にした。

 コロナ禍で、留学生は対面授業に代わるオンライン授業で苦労をしているが、懸命に勉学を続けている。末永い事業の継続を願うばかりだ。

 (長野県佐久総合病院医師、『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2021年09月30日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202109/572150.html

(2021.10.20)
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