【視点】

パレスチナ問題の根源的な解決はあるか

 イスラエル「建国」過程で見えてきたものとは・・・
大類 善啓

ユダヤ人とは誰か
 日本人にとってユダヤ問題を論議するのはなかなか難しいものである。まず、ユダヤ人をどう定義づければいいのか。通常は、「ユダヤ教を信仰する母親から生まれた人間」、あるいは「ユダヤ教に改宗した人間」と定義づけられている。しかし、イスラエル国内でさえ、「ユダヤ人の定義を巡って裁判所と政府とユダヤ教が三つ巴にぶつかり、国会乱入デモが起こったぐらいなのだ」と言うのは、イスラエル生まれのルティ・ジョスコビッツという女性である。(彼女の発言はすべて著書『私のなかの「ユダヤ人」』三一書房1989年刊からの引用である)
 彼女の両親はポーランド出身のユダヤ人である。両親はナチスに追われてソ連に行き、シベリアで働き、サマルカンド、パリを経由して1949年にイスラエルに移住した。イスラエルが建国された翌年である。彼女はその年、イスラエルで生まれた。そして4歳の時、家族とともにフランスに移り、11歳の時フランス国籍を取得。19歳の時にイスラエルを訪れ、二年後に日本にやってきた。彼女はイスラエルを訪れていた日本人と結婚し日本にやってきたのだった。しかしその後、二人は別々の人生を歩む。
 そのルティは、「私は日本に来るまでの長い間、自分がユダヤ人であるということに束縛されながら生きてきた。私の家族も、私を取り巻く世界も、ユダヤ人として私を見、立派なユダヤ人になることを望んでいた。そのため私はユダヤ人であることから解放されて生きたい、といつも考えていた」と言う。彼女は常にユダヤ人としてのアイデンティティに悩んでいたのだ。

近代の欧州で差別されてきたユダヤ人
 ユダヤ人は、過去さまざまなところで差別されてきた。なぜ差別されてきたのか、いろいろ要因があるだろう。「キリスト殺しのユダヤ人」という説もある。職業制限などを課せられていたユダヤ人だったが、金貸し業など、金融業などにしかつけない制約もあり、それも差別の一因だったろう。
 ポーランド出身のユダヤ人であるアイザック・ドイッチャーは、『非ユダヤ的ユダヤ人』(岩波新書)の中で、金貸しなどで裕福になっているユダヤ人たちを見ていた故もあり、欧州一般がユダヤ人の大虐殺を目撃した時、「ざまみやがれ的な気持」や冷淡さの原因になっているのだと書いている。
 また、国をもたないが故に差別されるのだと思い、また、そう思ったユダヤ人たちは多くいただろう。古代パレスチナの地から追放されたユダヤ人は国を持たないが故に差別されてきたと思い、自分たちの国を創れば差別は無くなるだろうと考えたのも無理はない。そして建国の候補地はいくつかあったが、最終的には「シオンの丘に帰ろう」と思い考えたユダヤ人たちがシオニズム運動を起こし勝利したのだった。
 もちろんそれ以前にも東欧を中心にした各地のユダヤ人の中には、シオニズムの萌芽があった。例えば、1882年にはロシア(現在の地はウクライナ)のユダヤ人の大学生ら十数人が「私たちが求めるものは、自分たちの国の中に自分たちの家を持つことである」と宣言してオスマン帝国の一角だったパレスチアの地に移住したという。
 テオドール・ヘルツルはいわゆるドレフュス事件で、フランスでも根強いユダヤ人に対する反感を感じ取り、「ユダヤ人はそこに住む国で同化すべきだ」という今までの考えを翻し、ユダヤ人国家の必要性を思ったのである。そして1896年、『ユダヤ人国家』という小冊子を刊行しユダヤ人国家建設の必要性を訴えた。そして翌年、スイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開催したのだった。

シオニズム運動に賛否両論
 このシオニズム運動については多くのユダヤ人からは賛意の声が起こった一方、ユダヤ側からシオンズム運動に批判的な著名な人物もいる。
 マルティン・ブーバー、ハンナ・アーレントも一時はシオニズムに共感したが批判するようになった。
 アーレントは、「イスラエルはユダヤ国家であってはならない。イスラエルが国家暴力をもって土地所有権の主張を合法化する努力については、植民地主義の人種差別形態であり、そのような植民地主義は永久闘争とつながりかねない」とみなすようになったのだ。
 ルティ・ジョスコビッツは、ユダヤ人シオニストの間で成長した少女だったが、彼女はこう書いている。「ユダヤ人にあらざるものはすべて敵であり、たとえユダヤ人の友だちだという者であっても、彼らがわれわれの友であるのは束の間にすぎぬから、決して心を許してはならぬ」とイスラエルで教えられていたのである。
 そうして私が思い出すのは、1970年代の半ばだったか、イスラエルに行った友人の言葉である。キブツ(集団農場)で過ごして一年後だったか、一時帰国した際に会ったところ彼女は、「イスラエルではユダヤ人以外は人間じゃないのよ」と言い放つのだった。「そうかユダヤ人以外は人間じゃないのか」と思い、常にパレスチナ人を二級市民と扱うイスラエルのユダヤ人の心の中を思う。しかし昨今のイスラエルのガザ攻撃を思うと、パレスチナ人を「二本足で歩く野獣」と思うイスラエル人、いやネタニヤフ政権の本質を思う。
 しかし「野獣」という言葉は今に始まったことではない。すでに1948年の第一次中東戦争において、後に首相になったメナハム・ペギンは「パレスチナ人は二本足で歩く野獣である」と公言していたのだ。
 また2023年10月7日のハマースの越境攻撃の二日後、イスラエルのガラント国防相は「我々は人間動物と戦っているのだ」と発言しているのである。
 「パレスチナ人はイスラエルにとって人間ではない、野獣なのだ」。こういう事実を知れば、今日のネタニヤフ政権のパレスチナ人の子どもや女性を容赦なく殺すことに何一つ痛痒を感じないその姿をしっかりと認識すべきだろう。

ハザール人の末裔?!
 ルティ・ジョスコビッツは、イスラエルに住んでいて違和感を持っていたのだが、ある時、アーサー・ケストラーの『ユダヤ人とは誰か―第十三支族』という本に出会い目を開かされたのだった。
 ケストラーはブタペスト生まれのユダヤ人ジャーナリストであり、作家であり哲学者である。彼はこの書で、アシュケナージ系ユダヤ人のルーツは、ユダヤ教に改宗したハザール王国(カザール、カザール人とも言う)の人々だ、と言うのだった。
 ハザールは七世紀から十世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族であり、その国家だったが、キリスト教とイスラム教に挟まれ、生き延びるためにユダヤ教に改宗したと言うのである。
 ユダヤ人には大きく分けて、主に東欧系のアシュケナージ系とポルトガル、スペインなどのスファラディ系があると言われる。ケストラーは、そのアシュケナージ系の祖先こそハザールの人だと言うのだ。
 イスラエルに違和感を持ち、自己のアイデンティティに悩んでいたルティ・ジョスコビッツはこの本を読んで驚いた。彼女はハザールのことを聞いたことがなかった。「少なくともシオニストの編纂したユダヤ史からは、抜け落ちたか、故意に隠されているのだ。それも当然だろう。これが大々的に知れれば、シオニズムは破産するのだから。コーカサスならともかく、パレスチナに国家を建設する権利などなくなってしまうのだから」と彼女は書く。    
 「シオンの丘に帰ろう」というパレスチナの地でユダヤ人との地域的な結びつき、その根拠はないのだ、と彼女は思ったのだ。
 思えば、有為楠君代は長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館を訪れたがその時、日本の強引な「満洲国」建国を思いながら、そこに「イスラエル建国」を連想したのだった。(『星火方正』二五号、方正友好交流の会、二〇一七年十二月発行)。
 また「満洲生まれ満洲育ち」の山口淑子は、四方田犬彦がイスラエルに行くと言うと、「あそこは満洲国みたいな国よ。満洲国みたいに夕日がきれいで、人間に二通りあって一級市民と二級市民がある。満洲の日本人と中国人もそうだった」と語るのだった。(『こんにちは、ユダヤ人です』(ロジャー・パルバース、四方田犬彦対談集)
 「傀儡国家、満洲国」とよく言われるが、この伝でいけば、イスラエルは「近代欧州と現代アメリカの傀儡国家?」と言いたくなる人も多いのではないだろうか。

予言者としてのザメンホフ
 私は今、マルティン・ブーバーやハンナ・アーレントよりもはるか以前に、シオニズム運動と訣別したユダヤ人、ラザロ・ルドヴィーコ・ザメンホフ、そう世界共通語エスペラントを創造したザメンホフに改めて注目し、彼の先駆的な予言に驚くのである。
 現在のポーランドの東部、当時、ロシア帝国の支配下にあったリトアニア領のヴィアリストクに1859年に生まれたザメンホフは当初、シオニズム運動を支持していたわけではなかった。しかし、ポーランドのワルシャワで1881年、ポグロム(ロシア語で大虐殺の意味)を経験した。ここに至ってザメンホフは、やはりパレスチナにユダヤの国を創るしかないと思い、シオニズム運動に参加したのだ。そしてワルシャワでそのリーダーになった。しかしその過程で、「シオニズムはユダヤ民族の民族主義に過ぎない。各国に散らばっているユダヤ人は宗教の他には共通の基盤は何一つない」と思うようになった。
 ザメンホフは、パレスチナに住むアラブ系パレスチナ人を追放する形で進行するシオニズム運動に真の解決はない、とシオニズム運動から手を引いたのである。と同時に、シオニズムはユダヤ人問題を解決しないばかりか、ユダヤ人を含めて人類を、友愛で、民主主義的に結びつけるのに大きな弊害、邪魔になると思ったのだった。
 ザメンホフの予言は当たった。1948年、イスラエルが「建国」宣言を発したと同時にアラブ諸国がイスラエルを攻撃し中東戦争が起こった。イギリスが第一次世界大戦で協力を得るために外相バルフォアがイギリスのユダヤ系貴族議員であるロスチャイルド男爵に、シオニズムを支持する旨を伝えた、いわゆるバルフォア宣言を発し、しかし一方でイギリス政府は第一次世界大戦に協力することを条件にアラブ人の独立を承認すると表明したりしたことも今日の中東戦争の要因にもなっている。
 詰まるところ、近代の欧州がナチス・ドイツのユダヤ人虐殺になにもできなかった痛み、その贖罪意識がイスラエル建国を後押ししたことは間違いないだろう。
 前出のドイッチャーは、イスラエル建国運動の時、アラブ系の人びとに、「申し訳ありません。我々の国を創りますので、少し移動してくれませんか」というような謙虚な姿勢で臨めば良かったのだと語っているが、現実は、パレスチナ人を暴力で追放して「建国」したのだ。日本が関東軍をバックに「満洲国建国」を追求したのと実によく似ているではないか。
 ドイッチャーはまたこんな先駆的な発言を1960年代半ばで語っている。「一民族だけの国家などというものはすべて時代錯誤的存在である。どうしてこれがまだ理解されないのであろうか。原子のエネルギーが日一日と地球を矮小化し、人類は宇宙旅行をはじめ、人口衛星が『大民族国家』の上空を一、二分で飛びまわっている時代になれば、技術的な進歩は民族国家などというものをふるくさい馬鹿ばかしい存在にしてしまうのはわかりきったことではないかと」と記している。

ユダヤ人を超えて世界市民として生きる!
 パレスチナ紛争の究極的な解決はあるのだろうか。ユダヤ系知識人たちの中には、ユダヤ人は今住む国に同化して生きることを推奨していたこともあるが、それも一つの生き方である。それには、私はザメンホフが言う人類人主義、「我々は人類の一員である」という思想、考え方を多くの人々に理解してもらい、自己を人類人として生きる、言葉を変えて言えば、世界市民の一員として生きることを多くの人々が理解することが前提だろうと思う。
 空想的だと叱られそうだが、イスラエル国家の中に、ネタニヤフ政権のような右派政権ではなく、パレスチナの人々との共存を志向する融和的な政権の誕生を望みたい。はっきりとパレスチナ政権との共存を宣言するイスラエル政権が実現すれば解決できるだろう。
 しかし、仮に実現したとしても、かつてオスロ合意に調印したラビン首相を暗殺した男が出てくる危険性もあり楽観は許されないだろう。

ダニエル・バレンボイムを思う
 世界的な指揮者であり、ピアニストであるダニエル・バレンボイムはアルゼンチンのブエノスアイレスで1942年に生まれた。祖父母は四人ともロシア系のユダヤ人として今世紀初頭、ロシアからアルゼンチンに移住した。
 バレンボイムの両親は、イスラエルが建国されると、とりわけアルゼンチンで差別されていたわけではなかったが、少数派として生きることを止め、イスラエルに移住した。
 バレンボイムはイスラエル国籍だが、イスラエル政府のパレスチナ政策に批判的であり、イスラエルとパレスチナとの共存を目指すべく、アメリカ在住の思想家でありパレスチナ人のエドワード・サイードと協力してイスラエルとアラブ諸国の若者を集めてウェスト=イースタン・ディヴァンというオーケストラを創設して音楽活動も行っている。
 彼は『ダニエル・バレンボイム自伝』(音楽之友社、蓑田洋子訳)でこう書いている。
 「二十一世紀が始まった今、アイデンティティは一つだと主張して人々を納得させることは誰にもできないと思う。私たちの時代が抱える問題の一つは、人々がますます小さな、局所的なことにしか関心をもたなくなり、物事がどのように混じり合い、どのように集まって全体の一部となっているか、ほとんど認識していない場合がしばしばあるということだ。(中略)私はアイデンティティの問題を、音楽家として、また同時に、自分が送ってきた人生という観点から見つめている。私の祖父母はロシア系ユダヤ人で、私自身はアルゼンチンで生まれ、イスラエルで育ち、大人になってからは人生の大半をヨーロッパで過ごした。私はその時その時で、たまたま話すことになった言語で考える。またベートーヴェンを指揮するときには自分をドイツ人のように感じるし、ヴェルディを指揮するときにはイタリア人のように感じる。それでも、自分自身に不誠実だという感じはない。それどころかまったく反対である」
 イスラエルとパレスチナとの戦争を思うに、私たちはしっかりと歴史を見詰め直し、人類の未来を考える時だろうと思う。

(2024.7.20)
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