フランス便り(その15)
フランスと第一次世界大戦
第一次世界大戦が始まってから丁度100年となる今年、フランスのマスコミ、出版界は様々な大戦に関する特集が組んでいる。1914年にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビアの首都サライエボで暗殺されたのをきっかけに、複雑な同盟関係を結んでいた西欧の列強がこぞって参戦し、歴史上初めての「世界大戦」となった。北部フランス地方は、進撃して来たドイツ軍とフランス・イギリス同盟軍の最前線となり、4年を越える長期の消耗戦の舞台となった。
その結果、フランス男性の活動人口の1割が戦死あるいは傷病者になる陰惨な戦争となる。とはいえ、100年の時が経つと、さすがにその生々しい記憶は薄れつつあるが、今でもフランス人にとって「大きな戦争」は、1914-1918年の仏独戦争を意味し、特殊な響きを持っている。第一次世界大戦には、日本も日英同盟の関係から参戦しているが、実質的な戦闘は限られていた。したがって、第一次世界大戦に関する関心も少ない気がする。
西ヨーロッパの歴史から見ると、第一次世界大戦がもたらした影響は大きく、それまでの英国を中心とした19世紀の成熟した西欧社会は崩れ、不安に満ちた20世紀の幕開けとなる。さらに、第二次世界大戦は、第一次世界大戦との連続で見なければ、なぜドイツにヒトラー体制が出現するのかは理解することができない。個人的には、私の出発点となったILOが、第一次世界大戦の終わりを告げたヴェルサイユ条約によって創設されたこともあり、昔から第一次世界大戦に一定の関心を持っていた。そこで、フランスから見た1914-1918年の世界大戦を簡単にまとめてみたい。まず、フランス戦線の概況を示し、その後、この大戦の英雄であるクレマンソーと日本との関係について書いてみたい。
●1 マルヌの会戦(1914年9月)
陰湿なフランス戦線の概況を説明する前に、パリの東を流れるマルヌ川を紹介したい。スイスとの国境からそう遠くないラングルの高原地帯を源流として、シャンパーニュ地方をゆっくりと湾曲しながらパリに近づき、最後にパリの東の郊外でセーヌ川と合流する(全長500キロ)。セーヌ川も同じラングル高原を源流としているが、セーヌ川はフランス中央部を経て、南側からパリにたどり着く。ほぼ全域が航行可能なセーヌ河と異なり、マルヌ川は、水量が一定せず、船が航行できるのはパリ周辺に限られている。したがって、あまり川沿いに産業が発達せず、緑が多く、散歩道がいたるところに整備された美しい川である。そのマルヌ川沿いにある、パリからそう遠くないモーという小さな地方都市の周辺で1914年9月にマルヌの会戦があり、それが第一次世界大戦の全体の帰趨にも影響することになった。そのモーには、最近、「大きな戦争」と題する博物館が開設され、当時の兵器、飛行機、塹壕での生活遺品や写真が集められ、大変に興味深い。塹壕での退屈な時間を紛らわすために、砲弾やヘルメットを器用に加工して作られた楽器なども展示されている。また、フランスもドイツも徹底した検閲を行い、大規模な宣伝戦を繰り広げたことを紹介していて、とても印象深かった。
第一次世界大戦は、複雑な西欧の国際関係の中で、発生した。普仏戦争〔1870年〕の後、国際的に、上手にフランスを孤立させたビスマルクが引退すると、フランスは、ロシア帝国と軍事同盟を結ぶ。これに神経を尖らしたドイツは、オーストリア帝国、オスマン・トルコと同盟関係を結び、枢軸同盟を形成した。この中で、サライエボで起きたオーストリア皇太子夫妻の暗殺事件(1914年6月末)は、オーストリアとロシアの宣戦に発展。オーストリアと同盟関係を持つドイツは、フランスとロシアに挟まれることを嫌い、フランスに先制攻撃を考える。
その攻撃のために、北部ベルギー経由でフランスに入る作戦を立て、中立国ベルギーに侵入する。ベルギーの中立を保障していたイギリスは、ドイツに対し宣戦を布告。この結果、西ヨーロッパの各国が2つのグループに分かれ、正面衝突する事態となってしまう。誤算と各国のエゴがぶつかり合い、誰も予想もしなかった長期戦に転がり込んでしまう。
さて。1914年8月はじめにフランスに宣戦を布告したドイツ軍は国境での会戦に勝ち、フランス領内深くに進撃を開始、9月のはじめには、ドイツの先頭部隊はパリ郊外に達する。フランス政府は、パリをあきらめ、ボルドーへ疎開する。ここで、それまで撤退ばかりを余儀なくされていたフランス軍と英国軍は、前線の伸びたドイツ軍の側面をモー地方の後背地で、猛反撃に出る。多くの犠牲者を出しながらも、10日間に及ぶ熾烈な戦いの後、ドイツ軍の進攻を阻止するのに成功する。これが、その後、マルヌの会戦と呼ばれることになる。
その後、ドイツ軍は、防御を固めるために、ヴェルダンやランスの線まで(パリから250キロ)後退する。そこで、塹壕を掘り、鉄条網を張りめぐらし、防御を固める。フランス・英国軍も同じように塹壕を掘り、防御を固めるので、攻撃側が圧倒的に不利な消耗戦になる。この両軍の塹壕の長さは、スイスの国境からフランドルの海岸まで続き、実にその長さは700キロに及んだという。
塹壕は、木を組んだ簡単なものが多く、寒い上に泥だらけの日々が多かったという。兵士は、シャワーを浴びることもできず、着替えもなく、惨めな状態で、ひたすら戦闘を行なっていたようだ。こうして、1914年10月から1918年春まで、一進一退の戦闘が続くことになる。1917年にロシア帝国が崩壊、そしてアメリカが参戦することにより、ようやく戦況が変化し、1918年夏には、勝敗の行く末がはっきりする。
18年秋になると、オーストリアの敗北、オスマン・トルコ帝国の崩壊があり、孤立したドイツは、ウィルヘルム2世が亡命することで、1918年11月に全面講和を求めることになる。そして、翌年のヴェルサイユ条約により、大戦後の各国の領土、ドイツの賠償金の決定、国際連盟、ILOの創立が定まる。ここで興味深いことは、ドイツ領土での戦闘はないまま、停戦がなされたことがある。アメリカの参戦で、ドイツの形成が不利になったのは間違いないが、ドイツの参謀本部は、ドイツ国内での兵士の反乱と社会不安による革命の危機を意識したため、急いで停戦を求めたと言われる。
この4年にわたる戦争の犠牲者は全部で900万人以上と推計されている。犠牲者が一番多かったのは帝政ロシア(軍人の戦死者兵士180万人、民間犠牲者150万人)、次にドイツ(軍人の犠牲者200万人、民間人40万人)。フランスの犠牲者は、軍人が140万人、民間人30万人、負傷者430万人に達した。当時のフランスの人口は4000万人弱なので、人口の15%が戦死、あるいは負傷するというすさまじい数字である。独仏の戦闘は、終始北フランスで行われたので、爆弾による北部都市の破壊も激しかった(アミアン、ヴェルダン、ランスなど)。なお、イギリス軍も90万人近くの犠牲者を出し、アメリカ、カナダ、オーストラリアの戦死者も万単位を越えている。
このように巨大な犠牲を払った第一次世界大戦は、世界地図を大きく塗り替えることになった。まず、それまで世界を牛耳っていた英・仏・ドイツが長い戦闘で、疲弊し、次第に経済・社会の中心がアメリカに移ってゆく。ロシア、オーストリア、オスマン・トルコという多民族国家が姿を消し、ロシアには初めての社会主義国家が生まれる。
新しい国際秩序を目指し、国際連盟が設立されるが、アメリカもソ連も、また当初はドイツも参加しなかったこともあり、実質的に機能しなかった。このような大変化の中で、第一次世界大戦はフランスに何をもたらしたのだろうか? ヴェルサイユ条約により、アルザス・ロレーヌ地方を奪回するとともに敗戦の責任を負うドイツに対し巨額の賠償金を要求する権利(実際には、ドイツは経済が破綻し、賠償金の多くは払われない)を得るが、負の遺産は実に大きかった。直接的な戦争による被害(北部都市の破壊)に加えて、巨額のロシアに関する債権が消滅した。
また、経済の低迷により、不動産や土地の価格が暴落、その結果、資産運用により豊な生活を享受していた地主、金融資産家が没落する。ここらの所得・資産格差の歴史的分析は、以前に紹介した Piketty の「21世紀の資本」が詳しい。それまで、多くの召使を抱え優雅な生活を楽しんでいた階層(ブルジョワ)が姿を消し、次第に勝利に貢献した労働者の社会的な地位が上昇する(ILOの創立、1919年の労働協約法など)。
さらに、このすさまじい戦争が与えた精神的な打撃も大きかった。第二次世界大戦の際、フランスは1ヶ月も満たない間に敗戦に追い込まれるが、その最大の原因は「大きな戦争」の負のイメージが強く、国民が是が非でも戦争を回避しようとした結果である。また、多大な賠償金をドイツに課したことは、ドイツに大きな経済的な負担を強いることになり、ヒトラー政権を生む壌土を作ってしまった。こうして見ると、第一次世界大戦と第二次世界大戦は歴史的な連続性が強いように思われ、1914-1945年を激動の30年と一括りにして考えることが可能だろう。
わが国についても、ある程度、二つの大戦は連続性があるのではなかろうか?もしも、日本が第一次世界大戦の戦勝国とならなければ、日本は、まだ東洋の島国くらいの位置づけで、軍があれまで独走しなかったかもしれない。また、西欧列強の経済が全面戦争で疲弊することがなければ、日本の重工業の発達にはもっと多くの時間が必要だったのは間違いないだろう。
●2 クレモンソーと日本の古美術収集
ジョルジュ・クレモンソーは大戦期のフランスの英雄として知られている。「トラのクレモンソー」のあだ名を持つ政治家だが、その一面、日本の美術品に精通し、陶磁器、浮世絵、香炉などの大変な収集家であったことは、今回 M. Seguéla という若い歴史家の論文を読み、初めて知った(Clemenceau et la tentation du Japon, éditions CNRS, 2014 および Le Japonisme de Georges Clemenceau, Ebisu,issue 27, 2001)。
クレモンソーは新聞記者出身の政治家で、その雄弁と辛らつな発言で有名である。1841年生まれで、医学を勉強、しかしすぐに新聞記者から政治家(急進党)になる。植民地支配に対する辛らつな批判などで、早くから雄弁家として頭角を現す。徹底した共和主義者で、議会政治の優越を主張し、軍の介入や腐敗を徹底的に嫌った。
そのため、敵も多かった。1890年代初めに、パナマ汚職事件(その後、一部の人のでっち上げと判明)で一時失脚するが、世紀末のドレフュス事件で、大論陣を張り、陸軍の行為を徹底的に批判し、政界に復帰、1906-09年には首相兼内務大臣を務める。この間、頻発する労働運動に強硬な態度で臨み、「自分は第一の警察官」と豪語し、社会党系の政治家(ジョーレスなど)の反発を買う。第一次世界大戦が始まると議会の外交および陸軍委員会委員長として、戦時体制を監視する。
フランスが一番敗戦の危機に面した1917年に76歳で、首相兼陸軍大臣となり、徹底抗戦を主張し、前線の兵士を鼓舞する。和平後のヴェルサイユ条約を巡る交渉では、アルザス・ロレーヌ地方の返還、ドイツに対する重い賠償金を請求し、ここでも頑固な態度を示す。1920年に共和党内の抗争に破れ、政界から引退する。
以上が良く知られた政治家クレマンソーの横顔だが、もう一つの側面は美術愛好家でもあった。医学部の学生であったときにマネと親しくなり、その関係で早くからモネと親交を暖める。政治から引退後もモネとの友情は死ぬまで続く。
さて、日本古美術との関係だが、1867年のパリの万国博覧会で、日本の陶器、浮世絵などの美術品が人気を呼び、ジャポニズムと呼ばれる東洋趣味が流行する。印象派のモネやゴッホなどが日本の浮世絵に影響を受けたのは有名である。明治期になると、日本の美術に精通した収集家サークルができてくる。ギメ、セルヌシ(彼らのコレクションは、そのまま、東洋美術専門の美術館としてパリの中心部に残っている)、ゴンクール、ドーデなどがメンバーで、そこにクレマンソーも入っていったという。
新聞社の社長兼議員の時には羽振りがよく、多くの日本美術(陶器、掛け軸、浮世絵、香炉)を猛烈に収集したといわれる。もともと、彼は芸術に関心があり、とくに日本美術の細やかで芸術的な表現を好んだようだ。この収集は衝動買いとはまったく異なり、当時出版された日本美術に関する専門書を多く買い込み、勉強した結果であったらしい。1990年代にパナマ汚職事件で失脚し、金銭的に窮乏した際に、クレモンソーのコレクションは競売に出されるが、その競売は実に4日間に及ぶ。
その競売目録が残されているが、これが凄い。競売にかけられたものとしては、浮世絵1869点、挿絵入りの絵本356冊、根付などの小物914点など。この中には、尾形光琳、北斎、歌麿、広重などのものが含まれていたという(出典:Séquéla 氏の論文)。間違いなく、断腸の思いで、クレマンソーは自分のコレクションを売り出したのだろう。とは言え、クレマンソーは、収集品全部を売ってしまったのではなく、彼のコレクションの一部はギメ美術館に寄贈されたという。また、クレマンソーの死後、売りに出された収集品のうち、香炉のコレクションは、一括してモントリオールの美術館に収まっているという。
クレモンソーは一度も日本に来たことはないが、若い頃、日本から留学して来た西園寺公望と親しくなっている。パリですでに有名となっていた共和主義者のクレマンソーと東洋から来た貴公子の留学生が、政治および芸術の面で話ができたのは面白い。その30年後、1919年のヴェルサイユ条約の調印の際には、西園寺公望が日本代表全権大使として出席しているので、この2人の大物政治家はどんな心境で再会したのだろうか? 最晩年のクレモンソーの愛読書の一つが、岡倉点心の「茶の本」であったことも興味深い。
なお、クレモソーが晩年住んでいたパリの住居はそのまま保存され、クレマンソー記念博物館として公開されている。そこには、クレマンソーお気に入りのいくつかの日本の絵画や陶器がそのままの姿で残されているらしい。安倍首相が今年の春に来仏した時にこの博物館を訪ねたとあるので、妙な人に先を越された気がする。 2014年12月14日、パリ郊外にて
(筆者はパリ在住・早稲田大学名誉教授)