■ 【エッセイ】

メイ・サートン(1912-1995)の魅力     高沢 英子

   ―「おお わが心の思い描くいっさいを感じ、考え、生きるために、
     たったひとつの心しかないとは」―「わたしは不死鳥を見た」より
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  アメリカの女流詩人・作家メイ・サートンの、「独り居の日記」(1973年
刊)は、1991年10月、日本で初めて武田尚子さんの達意の翻訳によって、
みすず書房から出版されて大きな反響を呼んだ。

 これは現在までに15刷を重ねるに至っている。続いて同じその仕事はさらに
何人かの女性研究者に引き継がれ、おもに後期の作品の多くが日本語で読めるよ
うになった。こうしてサートンの作品の類いまれな豊穣さと、純粋で瑞々しい思
索のしずくが、徐々に日本の読者のあいだに浸透し、広く知られるようになった。

 以前も紹介したように、メイ・サートンはアメリカ生れではなく、ベルギー人
の科学者を父に持ち、画家でデザイナーの母はイギリス人で、4歳頃まで、ベル
ギーのゲントで育った。その間のさまざまな事情や彼女を取り巻く人間模様が、
初期の自伝的回想「わたしは不死鳥を見た」(武田尚子訳 みすず書房 )に,
独特の詩的筆致で生き生きと描写されている。
 
  不死鳥は、古代神話の火の鳥。数百年、あるいは数万年に一度、みずから香木
を積み重ねて火をつけた中に飛び込んで焼死し、その灰の中から再び美しい若鳥
となって現れるという伝説の大鳥である。

 古来詩文のなかなどで、ある種の象徴的存在として語られてきたが、彼女も終
生、これを自分の崇敬するひとたちの化身とも、あるいは自己自身の詩的象徴と
もしつつ、83年に及ぶ長い生涯にわたってひたすらペンをとりつづけ、ほとん
ど文筆ひとつで生活を支え続けた。
 
  冒頭に掲げたエピグラムは、著者が、「私は不死鳥を見た」のなかで、自身の
父親のモデルである十九歳の青年の独白として書き記した言葉である。
1800年代末から1900年代はじめにかけてのヨーロッパ世界は、いまだ多
くの鋭敏な若者にとって、美と善に夢と希望を託し、幸福と栄光の予感に震えな
がら 人間性の進歩”を信じ、世界を改造し、創造の翼を思い切りひろげることが
できるものとして在った。

 「わたしは不死鳥を見た」は、第一部の最初の篇で、著者の父の一族の多彩な
人間像の紹介に始まり、第二篇では、彼女の母の複雑に事情の絡み合った生い立
ちが、母が書き残した覚書をもとに語られる。彼女はその覚書について、追憶
が、まるで日本の水中花のように水の中でゆっくり開いていったみたいだ、と美
しく表現している。
 
  続く三篇は両親の出会いと結婚までの経緯、そして、1900年代の始めのベ
ルギーの受難と、サートン一家がついにアメリカに辿りつくまでの苦しい遍歴の
あとが赤裸々に語られる。

 しかし、あらかじめ断っておかねばならないが、これは、決していわゆるド
キュメンタリーではないので、描写はあくまでも内観的であり、事実自体は、作
者の断片的な記憶が、のちの聞き覚えとか、残された古い手紙といった資料や歴
史的な日付で綴り合わされたもの、といった程度に過ぎない。そして不思議なこ
とにそれがむしろドキュメンタリーより深い意味を持って読者の心を打つ。

 たとえば、時としてさっと過去の現実に光があたり、なんでもない日常の一こ
まが浮かび上がり、いつまでも亡霊のように付き纏う、ということは誰にでもあ
ることだが、それは、人にとってかけがえのない宝石のようなものだ、というこ
とが、身に沁みて理解される、という風な具合に話が進行する。
 
  わたしは、これを読みながら,しばしば室生犀星の「幼年時代」「性に目覚め
る頃」「杏っ子」などの一連の自伝的作品を想起した。書かれている中身がまっ
たく違うにもかかわらず、詩的感性において相通じるものがあるのだろうか、全
体の雰囲気や描写の底に流れるものが、どこか同質の協和音のように共鳴する感
覚ががあった。

 本題に戻ろう。若い科学者志望のロマンティスト、ジョージ・サートンと画家
として自立する願望に燃えながら、手芸デザインなどの仕事を細々と続けていた
芸術家のメイベル・エルウィスは、何年もの間、友人としてつきあったのち、紆
余曲折を経て1910年結ばれる。メイベルのほうが、5,6歳年上のようだ
が、著者自身の思い違いからか、記述に多少食い違いがあり、はっきりしたこと
は分からない。

 互いにやりたいことがあり、理想に燃えていたものの、当面生活費のあてもな
く、二人とも孤児同然で、ジョージのわずかな遺産で手に入れた、町から3キロ
ほど離れたウォンデルヘムの小さな果樹園つきの家で、2年後の1912年メイ
が生まれている。束の間の平和な日々。しかしやがてヨーロッパ全体を捲き込
み、多くの家庭を地獄に叩き込むような悲劇の日々が、刻刻としのびよって来て
いた。このあたりのサートンの叙述を引用して今回の稿は終わりにしたい。

 「ウォンデルヘムでの1914年の春と夏私たち三人はこの上なく幸福で、そ
れぞれが独立していた。・・・・・六月二十八日にフェルディナンド大公(オー
ストリア皇太子)が暗殺された。父が静かに書斎で仕事(★筆者註:科学哲学的
総合誌の編集)をし、母が今年は実をつけないプラムをふしぎがっていた七月
いっぱい、外交官たちはヨーロッパじゅうを駆けめぐっていた。

 だれも正視したがらず、「ぶっそうなもの」と呼ばれた戦争が,ついそこで待
ち伏せしていた。新聞は噂でうずまり、叔父のジュールは、仲間たちにアント
ウェルペンのカフェデ警告をあたえながら、憤怒で卒倒しそうになってい
た。・・・八月二日、ドイツ軍はベルギー領土の自由通行を求めたが拒否される。

 しかし八月三日に、彼らは尖塔のようなスパイクつきのヘルメット姿で行進し
てきた。ウォンデルヘムの小さな村では教会の鐘が警報を響かせ、郵便夫は動員
令を配達した」 短い簡潔なこの数行の語ることが、サートン一家のその後の運
命を決定的に変えることになる。

             (筆者は東京都在住・エッセースト)

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