【エッセー】

■リアル・ライフ                高沢 英子

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  アメリカ在住の女流作家メイ・サートンが、ニューハンプシャー州、ネルソン
の、広大な原野の一軒家で書き綴った1年間の日記「独り居の日記」(武田尚子
訳)を発表したのは、1973年、著者が61歳の時だった。わざわざアメリカ在
住と断ったのは、実はこの作家の精神形成の根幹が、いわゆるアメリカではなく、
どちらかといえば、ヨーロッパ的風土から生まれたと思えるからだ。

 1912年ベルギーに生まれたサートンは、四歳のとき、両親と共にアメリカに亡
命する。1916年ロシヤ革命の前年である。父は科学史の学究、母はイギリス人で、
画家だったという。

 一人娘だったサートンは、マサチューセッツ州ケンブリッジで成人し、演劇活
動ののち、多くの詩、エッセー、小説を発表し、傍ら大学で教鞭をとるなど、文
学の分野で自立をはかりながら、どちらかといえば不遇な境涯を過ごしてきたが、
両親の死後、その遺産で、ニューハンプシャー、ネルソンに30エーカーの土地
付きの18世紀の老屋を買い、執筆に専念することになった。

 林や小川、森に囲まれ、高麗鶯が美しい声で啼く風景に、詩的霊感を奮い立た
せられ、魅了されての決断だったが、さらに、両親がヨーロッパから持ち運んだ
先祖の家具を、古い大きな家に落ち着かせることで、「生れ故郷ヨーロッパをア
メリカにつなぐ糸を見出した」という特殊な事情があった、と、訳者武田尚子さ
んは指摘している。46歳の時とあるから、1960年代にさしかかる頃のこと
である。

 やがて、1968年、この地でサートンはエッセー「夢みつつ深く植えよ」原
題「Plant Dreamingdeep(武田尚子訳)を上梓する。

 表題は彼女自身の詩 
  ・・・・
  大いなる遍歴ののちにようやく
  ふるさとへ船を向けた老ユリシーズにも似て
  知恵に熟し身丈をのばして
  夢みる想いを深く植えるために

 からとったものという。訳者はあとがきで、これを「中年の作家の,ますます
内面に傾いてゆく老年への歩みの記録であり、これ以後サートン作品の大きなテ
ーマのひとつとなった孤独についての思索が始められた、最初の作品」、と位置
づけている。

 しかし、その後、彼女はこの作品が、自身の内面をあくまでも美化して描いて
いることに思い至り、愕然とする。赤裸々に女性の内面の苦悩と葛藤や絶望、怒
りなどが語られていないことに大きな不満を抱いた彼女は、続く作品「独り居の
日記」原題「Journal of a Solitude」で、それを語り直そうと決意する。

 「内部の世界をおしあけて書き始めること」「壁をつき破り、そのごつごつし
た深部、基盤そのものにまで触れたい。そこには解決されなかった暴力となだめ
られなかった怒りがある」と。「ネルソンで築きあげた牧歌的な小宇宙を突き崩
すことで、サートンは新しい跳躍を自分に強いた」と訳者は解説している。

 こうして書き始められた孤独の日記の冒頭で、彼女は「今起こっていることや
すでに起こったことの意味を探り、発見する,ひとりだけの時間をもたぬかぎり、
ほんとうの生活ではない」といい、「ただひとりになり、家と私との古くから
の会話をまた始める時、ようやく、生を深々と味わうことができる」と書く。そ
してそれが、彼女の目指す、<リアルライフ>である、と言う。

 評論家キャロリン・ハイルブランは、その著「女の書く自伝」のなかで、「1
973年の「独り居の日記」の出版は、女の自伝における分岐点とみなすことが
できる」と高い評価を与えている。「私がこれを分岐点と呼ぶのは、それまで正
直な自伝が書かれなかったからではなく、サートンが慎重に怒りの記録を語り直
したからだ。他のすべてのタブー以上に女に禁じられていたのは怒りだった」と。
これは女性にとって非常に示唆に富む言葉である。
 
  私が始めてメイ・サートンの作品を翻訳によって読み、彼女の存在を知ったの
は、1991年の末、みすず書房から発行された「独り居の日記」の翻訳書を偶
然書店で手にしたことから、だった。当時、年齢的にも、それを書いたサートン
と、ほぼ同じだった私は、忽ち魅了され、以後、折に触れて読み返す座右の書と
なった。

 前作「夢みつつ深く植えよ」が同じ訳者の手で翻訳され、日本で刊行されるの
は、その5年後のことである。
  サートンは「独り居の日記」が出版された1973年には、十五年近く住んだ
ネルソンを去り、メイン州ヨークの海辺の家に移住し、幾度か蹉跌を経験しつつ
も、その都度「不死鳥のように」甦り、衰えを見せぬ旺盛な創作力で、次々と小
説、日記、エッセー、詩集、を世に送って、遅まきの才能を開花させた。
  惜しいことに、1,995年、ヨークの病院で、83歳で世を去っているが、その
作品の多くは、同じ訳者によって、次々と日本に紹介され、多くの読者を獲得し
ている。

 私事になるが、この春、私の幼友達が連れ合いを失った。数ヵ月後、私は彼女
にメイ・サートンを紹介し、よかったらいっしょに読まないか、と提案した。今
私たちはサートンの本を幾冊か取り寄せ、二人だけの「メイ・サートンの会」を
発足させ、月に一,二度という遅々たる歩みながら精読し直し、思索の足がかり
としながら、自分たちの人生をも語り直そうと計画している。ささやかな会報を
発行し、発信したいとも考えている。訳者の武田尚子さんともメール通信をはじ
めた。

 もともと幼友達を元気づけたいと思って考えついたことだったが、これを契機
に、サートンに限らず、東西の女性たちの、自伝的作品の読み直しができれば、
とひそかに考えている。

        (筆者はエッセーシスト・東京在住)

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