【コラム】『論語』のわき道(50)
一を聞いて十を知る
竹本 泰則
『論語』を読んでいると、なじみのある言葉に行き当たり、出典は『論語』だったかと少し驚くようなこともあります。「一を聞いて十を知る」もその一つです。
この句は孔子と子貢(しこう)という高弟との会話の中に現れます。話題は孔子の愛弟子である顔回(がんかい)についてです。
素人訳ですがこんな具合に読み取っています。
孔子:お前と顔回とではどちらが優秀だろうね?
子貢:わたしなど顔回の足元にも及びません。彼は一を聞いて十を知ります。わたしは一を聞いて二を知る程度のものです。
孔子:そうだねぇ。私もお前もあいつには及ばんなぁ。
これだけの話です。
二人とも顔回の賢さ、察しのよさといったものをほめていることはわかるのですが、どう賢いのか、いま一つ具体的に浮かんできません。一を聞いても一すら知り得ないという愚か者の悲しさです。
顔回の賢さについてはおくとして、『論語』を読んでいて感じるのは、孔子「学園」に学ぶ者は、ボーっとしていたひには落ちこぼれてしまうだろうなぁということ。
まず孔子の教授方法に大きな特徴があります。すべてにわたって懇切丁寧に説きあかすのではなく、手掛かりになるものを与えるだけにとどめ、教わる側に考えさせる、考えるようにしむける。そうした教え方であったように思われます。
こんな孔子の言葉があります。
憤(ふん)せずんば啓(けい)せず、悱(ひ)せずんば発せず。
一隅(ぐう)を挙げて示し、三隅を以て反(か)えらざれば、
則(すなわ)ち以て復(ま)たせざるなり
「憤」は発憤の憤、やる気あるいは知的な好奇心が膨れ上がった状態。教わる側がそれくらいまでに達しないと私(孔子)からは啓発してやらない。「悱」は懸命に言おうとするのに、自分では言葉がまとまらず苦しんでいるような状態をいうようです、それくらいにならないと私から助ける(指導する)ことはしない。
四隅の一つについて示せば、残り三つを連鎖的に推理して答えをかえす、そのくらいでなければ、もう一度繰り返し講釈してやるようなことはしない……
おおかた、そういう意味のようです。ちょっと意地悪な教師像にも見えますが……。
このような孔子ですから、弟子の方は話をぼんやり聞いていては、とても理解できない。それどころか、ちゃんと聞いていてもわからないことだってある。だから、念を押すように訊き返したり、直接には尋ねずとも、あとで先輩などに孔子の言葉を解説してもらうなどということをやっています。
そんなことを表す例です。
樊遅(はんち)という弟子が「仁」を問います。孔子の答えは「愛人」(人を愛す)の一言、続けて知を問うと「知人」(人を知る)、それだけです。樊遅は、これでは理解できません。それを察したのか孔子はさらに言葉を継ぎます。しかしそれでもよくわからなかったようです。樊遅は、孔子の前から退出した後、子夏(しか)という優秀な若手に孔子のことばの意味を尋ねています。
教授方法ばかりではなく、孔子の言葉自体が総じて簡潔ということもあります。実際はもっと多くの言葉でしゃべっていたものを、記録としては短くまとめられた形で残った、というような面もあるかもしれません。だとしても、くどい言い回しの人ではなかったように想像されます。
ある章では、孔子が曾子(そうし)という弟子の部屋に顔を出してこんなことを言います。
「我が道は一(いつ)以てこれを貫く」。
―わたしの道はただ一つのことで貫かれている―
これに対して曾子は慇懃に「はい」と答えるのです。
これで二人の会話は終わりです。まるで禅問答のようなやり取りです。傍らで聞いていた曾子の下で学んでいる門人たちは、わけがわからない。孔子がいなくなってから一人が「どういう意味でしょうか」とたずねます。それへの曾子の答えです。
「夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」
夫子は先生といった意味。孔子先生の道、すなわちその行動なり思想、それを貫くものは忠恕だけだ、というくらいの文意でしょうか。
曾子は孔子の本意を言い当てているのか。第一、「一」といっているのに忠恕では「二」じゃないかなどとあげつらうのは埒外のたわごとでしょうかね。
この程度ならまだしも、古今の学者も解釈に苦しんだらしく、したがって、解説本の訳文や説明に納得いかないフレーズも出てきます。
古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす
ここの学者とは、現代語と違って「学問に志して学びつつある人」をいいます。
岩波文庫版『論語』の現代語訳をなぞると「昔の学者は自分の(修養の)ために学んだ。この頃の学者は人に知られたいために学ぶ」となっています。
素人が当たった限りでは、他の解説本などもほぼこれと似たり寄ったりです。表現の違いや結論に至る理由付けは違っていても、全体の文意は同じようなものです。というより、このように解するしかないということなのかもしれません。
この解釈に合点がいかないのです。
孔子の言葉(原文)を前半と後半に分け、対比してみます。
古之学者為己
今之学者為人
昔の学者と今の学者の比較であることは言うまでもありません。主語を受ける動詞はどちらも「為」です。ただ違うのは「己」か「人」かということだけです。これで例に引いた訳のように読んでもいいのでしょうか。
動詞の「為」は「ためにす」という理解でいいのか。昔の学者を善とし、今の学者は間違っていると孔子が考えていたに相違ないという先入観が働いていやしないか、……こんな疑問が湧いてきて、どうもすっきりしないのです。
いつの世も、一を聞いて十を知る者ばかりではありません。孔子さまには、いま一言の補足を願わずにはおられません。かなわぬことでありますが……。
(2023.7.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ/掲載号トップ/直前のページへ戻る/ページのトップ/バックナンバー/ 執筆者一覧