【コラム】八十路の影法師

三という数

竹本 泰則

 三月ともなると、なんとなく気分が浮き立つ。日によっては重ね着を強いられることがあったりするが、装いは軽くなる。春たけなわとはいかないまでも、花のたよりを耳にするし、日も着実に長くなる。
 季節のめぐりのなかでは、春が一番待ち遠しいかもしれません。

 埒もないことですが、「三」という数に興味が湧いてきました。いろいろなものごとの中から代表格をいくつか選びだすとき、三でくくるということが多いように思われます。
 日本三景、三名園、三筆、三悪などといった類です。祭、温泉のほか、珍味やうどんなどまでも「三大〇〇」という言い方がされています。「昭和の三大台風」などというありがたくないもの、あるいは、かつての日本経済に大きな力をもっていた三大財閥などといった言葉も頭によみがえってきます。さらには三種の神器、三原色、三冠王なども……。
 これを書きながら周りにいた(あるいは、いる)ひとの名字(ファミリーネーム)を思い浮かべてみました。一や二で始まる名字もないではありませんが、どういうわけか三が幅を利かせています。三浦、三宅、三好(善)、三木(鬼)、三原……苦もなく両手の指くらいは折れそうです。当てずっぽうですが、名字の頭につく数詞のなかでは三が一番多いのではないでしょうか。日本人は語呂合わせで四や九を嫌いますが、三という数字には好感をもっているということでしょうかね。

 『論語』の中に出てくる一桁の数字の出現回数を多い順に並べると、70回も登場する三がトップで、その次に一が32回、そのあとは四が18回、五が15回、二が14回と続きます。
 普段使っております漢和辞典(三省堂『漢辞海』)でも、数詞が語頭につく熟語の中で三から始まる語が一番多く、一や五を優に超えています。この中には『論語』にも登場する語がいくつかあります。知られたものとしては出版社の名前にも使われている「三省」があります。曾子と呼ばれる弟子の「わたしは日に三省する」という言葉が出典です。三省はたびたび反省する意だと解説されています。漢字の三は三つ、三度などという数を表しますが、たびたび、何回もという意味でも使われます。三世紀ころの中国・三国時代。蜀(しょく)の国を建国した劉備(りゅうび)は、諸葛亮(しょかつりょう;諸葛孔明とも)を何度も訪ね、ようやくのことで軍師として迎え入れることに成功しました。この故事から「三顧の礼(さんこのれい)」という成語ができていますが、これも三度ほど出向いたというのではなく、数を重ねることで礼をつくしたのだと解釈されています。

 世界の三大宗教の一つである仏教にも三が頭につく成語がいくつかあるようです。我が国において仏教が興隆した陰には聖徳太子(厩戸皇子)の存在もあったようですが、その太子が定めたと伝わる「十七条憲法」に「三宝」という語が出てきます。二番目の条に「篤く三宝を敬え」とあり「三宝は仏・法・僧なり」と続きます。
 「宝」は並外れて大切なものという意味でしょう。その第一は「仏」、いうまでもなく、お釈迦さまです。次の「法」は教え、つまりお釈迦さまの教えです。「僧」は一般に僧伽(そうぎゃ;個々のお坊さんではなく、仏道修行をする僧侶の集団あるいは教団)の意味とされます。しかし、ここはお坊さんと考えてもいいような感じもします。といっても頭を剃って袈裟を着ていりゃいいというものではなく、仏教を学んで人々を正しく導く本当の僧侶でなければなりませんが……。
 「三宝」なる言葉はお釈迦さまが言い出したことではなく、教えに帰依した人々が集まる教団のルールといったようなものでしょう。お釈迦様とはいえ、自らを宝とは言わなかったでしょうから。
 かつての中国における三大宗教といえば儒教、道教、仏教でしょうが、道教の祖とされる老子にも「三宝」があります。重要な処世の術を述べたものでしょうか。

 我に三宝あり、持(じ)してこれを保つ。
 一に曰(いわ)く 慈(じ)、二に曰(いわ)く 倹(けん)、
 三に曰(いわ)く 敢えて天下の先とならず。

 この書き出しに続けて、三つが宝である所以が説かれています。
 まず慈(じ)については、慈であるがゆえに勇(ゆう)であることができる、といっています。慈はいつくしみ、他者への思いやりといった概念だろうと思いますが、それが勇(いさましい、勇敢など)とどのようにむすびつくのでしょう。浅慮の身にはわかりかねます。インターネットには「優しく慈悲深い心を持っているからこそ、本当の強さや勇気を持つことができる」などという説明がありました。あるいは、そうした内容かもしれません。
 「母は強し」という言葉があります(意外にもこれは『レ・ミゼラブル』の作者ヴィクトル・ユーゴーの言葉だそうです)。子を持つ母親の強さは多くの人々が感じることでしょう。ひとに限らず、他の動物でも母は強い。危難に臨めば子を守るために勇敢に戦います。あの懸命さなどは慈によって勇になることの一例といえるような気はします。
 二つ目の倹(けん)では、倹であるがゆえに広くあることができる、というのです。これも難しい。倹は倹約という熟語もあるように、つましい、質素といった概念がまず浮かびます。他にもへりくだったさまといった意味もあって、こちらを採って「遠慮がちなので逆に広く共感をえる」と解する人もいます。はっきりいって、しっくりする解説には行き当たりません。
 ウォーレン・バフェットというアメリカの大富豪がいます。ジョージ・ソロス、ジム・ロジャーズと並んで「世界三大投資家」と呼ばれているようです。バフェット氏のプライベートライフは、至って質素なのだそうです。質素といっても専用のジェット機を保有していますし、あくまで「大富豪としては」という前置きがあってのことでしょうが……。
 そのバフェット氏が自身の投資持株会社の株主総会(2014年)で語った言葉がインターネットにありました。その中の一部分ですが「家を6軒や8軒も所有していたら、かえって面倒だ。私は必要なものをすべて持っている。これ以上はいらない。一定のレベルに達したら、それ以上あろうと違いはない」というくだりが目を引きました。
 自らの意に反してつましさを強いられるのはつらい。しかし、つましさもわだかまりなく受容しているのであれば心持は違ってくる。他人に比べたならば持っているものが少なかろうと「これ以上は要らない」というのであれば心は広やかであるかもしれませんね。
 倹とは「足るを知る」と言い換えてもいいように思えます。ちなみに、「足るを知る」は仏教由来のような感じもありますが、老子が書いたとされる道徳教の一節の中には「知足者富」、足るを知る者は富むと書かれた箇所があるそうです。
 三つ目の宝とする「敢えて天下の先とならず」も面白い発想ですが、なぜこれが宝なのかがわからない。老子の原文は先とならぬことによって「器の長となる」という風にも読めますので、「愚人俗人と競争などしないから自然に大物になる」と解釈する人もいます。
 「出しゃばったりすることなくへりくだっていることで、周りや上などの受けがいい。だから地位を保つことができる」くらいの意味でもよさそうですが……。
 なににしろ、老子は一筋縄ではまいりません。
 寺田寅彦のエッセイに老子についてのコメントがあります。
 「第一本文が無闇(むやみ)に六(むつ)かしい上にその註釈なるものが、どれも大抵は何となく黴(かび)臭い雰囲気の中を手捜りで連れて行かれるような感じのするものであった」。
 この方をしても……!と、実に救われる文章であります。

 ところで日本人は三という数字を好むなどということはあるのでしょうか。
 マーケティングを事業とする企業が、全国の男女約10,000人を対象に「好きな数字」を調査(2017年7月22日~7月28日)した結果があります。上位十個は期せずして一桁の数ばかりですが、一位が7(26.3%)、二位が3(17.7%)、三位が8(11.5%)となっています。トップではないものの3は好まれている数といえなくもなさそうですが、面白いのはあわせてたずねている「その数字が好きな理由」です。答えの第一位は「なんとなく」で、およそ40%を占めています。第二位は「自分の誕生日にまつわる数字だから」で、割合はおよそ20%だったようです。
 いろんなものごとの代表を三でくくるのが多いのは「ちょうどいい頃合い」といった感覚によるのではないでしょうかね。
 一つ、二つじゃさびしい。四つ、五つになると覚えきれない……。
 運動会のかけっこでもオリンピックでも表彰台は三人がいいところなのでしょう。

(2024.3.20)
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