【沖縄・砂川・三里塚通信】

三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日誌 2019年10月9日
第94回:「弾薬庫」に抵抗する保良の人々~宮古島の自衛隊弾薬庫着工~

仲井 富

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 10月7日、ついに宮古島で陸上自衛隊ミサイル基地の「弾薬庫」が着工された。今年3月からすでに「自衛隊宮古警備隊」の駐留は始まっているが、島民が最も恐れている「ミサイル部隊」は、このミサイルを保管する弾薬庫が完成しないことにはやって来ない。

 火災になれば大爆発につながるし、何より有事には真っ先に標的になってしまう弾薬庫という物騒なものを、宮古島のどこに置くのか。二転三転して保良(ぼら)地区に決まったというが、集落ははっきり反対の声を上げていた。にもかかわらず、これ以上遅らせられないと10月着工が宣言され、3日には住民説明会が開かれた。防衛省が住民説明会を開いて住民の理解を得たとアリバイを作り、直ちに着工、というパターンは辺野古でも高江でも繰り返されてきた。そして今回もその通りになったわけだ。

 私はこの間、宮古島に行くことができなくてギリギリしながら遠くから推移を見守るしかなかったのだが、宮古島の友人が撮影してくれた映像を編集したので、ぜひこの状況を共有してほしい。

 「弾薬」を巡っては、防衛局が宮古島市との約束を守らなかったため、3月末の陸上自衛隊駐屯地開設の初日から事態は紛糾した。地元には「弾薬庫ではなく、小銃などの保管庫」と説明しながら、迫撃砲弾や中距離多目的誘導弾などを千代田地区の駐屯地内に保管していたことを私が基地内で取材中に聞き出して、撮影日誌第90回(2019年4月3日)にも書いた。結局は、当時の岩屋毅防衛相が国会で謝罪し、一度持ち込まれたミサイルなどはいったん島外に撤去されていた。しかしそれがないとミサイル部隊が来ても機能しないわけで、防衛局は宮古島の南東の端にある城辺(ぐすくべ)保良に弾薬庫を完成させて、あらためて運び込むと宣言していた。

 その保良の弾薬庫予定地というのは、住宅地からわずか200メートルと接近した場所にある。陸上自衛隊の教範には「誘導弾が火災に包まれた場合には1キロ以上の距離に避難」とあるが、住民はその最低の距離も確保できていない場所に住んでいる。そこに造るというのはいったいどういうことか。また、火薬類取締法の保安基準から算定すると、200メートル先に民家があるなら2トンの弾薬しか保管できないはずだが、推計では地対艦ミサイルおよそ7トン、地対空ミサイルおよそ4.5トン、中距離多目的ミサイルと迫撃砲およそ13トンが弾薬庫に入る予定だということで、保安距離はおよそ380メートルとされる。そのような専門家の推定が報道されるようになると、防衛局は弾薬量を答えなくなってしまった。安全距離ラインの内側に、つまり危険エリアに、生きている人間が生活をしている。それを無視する「国土防衛」とは一体何なんだろうか。

 10月3日に保良地区の公民館で行われた説明会会場に掲げられた看板に、住民は憤った。「保良鉱山地区の建設工事について」としか書かれておらず、自衛隊の文字もなければ、住民が敏感になっている「弾薬庫」「火薬庫」という言葉もない。物騒な言葉を隠せばなんとなくやり過ごせるだろうという防衛局の姿勢に、誠実さのかけらもないその無礼さに、住民のプライドは踏みにじられた。一から十まで住民をだまし、はぐらかして、軍事施設の犠牲を押し付けるのか。うっかり誤魔化されるとでも思うのか。先祖から引き継いだ土地に築き上げてきた静かな暮らしを子や孫に手渡したい。この地域の未来の希望も、よりによってこんな形で奪っていくのか。悔しくてやりきれない保良の人たち100人は、会場まで来たものの中には入らず、地域を愚弄する説明会をボイコットした。保良の女性は言った。

 「千代田の駐屯地に、住民をだまして中距離多目的誘導弾を置いたが、怒りをかって謝罪して撤去した。それを保良に持ってくるって? 保良は、なんですか? 馬鹿にされてるんですか」

 なぜ、保良にこんな酷いことができるのか。ここが選ばれた大きな理由の一つは、人口密集地である宮古島市街地から最も遠いからだ。今も不発弾の保管施設がこの地域に置かれているのも、何かあっても被害が小さいという、過疎地に、弱いところに、犠牲を押し付けていく残酷な考え方があるからだ。三角形の宮古島の底辺の右端。東平安名崎の付け根にある保良には、戦前にも旧日本軍が弾薬庫を置いていた。1944年2月、弾薬庫となっていた保良の木山壕周辺で兵隊らの手押し車から手榴弾が落下して爆発、少なくても二人の兵隊が爆死、作業を手伝っていた8歳の女の子と、その子がおぶっていた1歳の赤ちゃんも亡くなってしまった。

 かつて日本軍の弾薬庫をここに置かせてしまったために、抱え込まなくていい悲劇を抱えてしまった保良が、なぜまた同じ運命を強いられるのか。頭に破片がいっぱい刺さったまま息絶えたというその子は、「戦死」ではない。日本軍の起こした事故で死んだのだ。手伝わされていた危ない仕事に殺されたのだ。戦争でも天災でもない。軍事施設と共存する地域には必ずついて回る想定内の犠牲、明らかな人災である。幼い姉妹の命と引き換えに残された教訓を、私たちの世代が受け取らずにまた地域に同じ危険を引き込むなら、それは彼女たちを二度殺すことになるのではないのか。

 軍事基地化が同時多発的に進行する南西諸島の現状に対処するためには、辺野古だけにいるわけにはいかないと、山城博治さんも保良に駆けつけていた。沖縄の平和運動をけん引してきた平和運動センターを代表して、これまでも博治さんは石垣や宮古の自衛隊基地建設の現場にも足しげく通ってきた。今回も、地元保良の人々に相当遠慮し、地域のやり方を尊重しながらも、沖縄県民が長い米軍基地との闘いの中で培ってきた財産を宮古島の住民運動に繋げるために汗を流していた。緊張の局面を迎えてはいるものの、現地からの電話で博治さんの声は明るかった。

 「いやあ三上さん! 保良は素敵なところだねえ! ゆったりとした集落のたたずまいも、美しいし豊かだし、なんと言っても強い信念で静かに怒りを燃やす先輩たちがね、元気なんだよ。よく来てくれた、と迎えられてね、嬉しいねえ」

 説明会翌日の朝は早くから工事の着工を警戒して公民館に集合がかかっていたのだが、博治さんが到着するとごっついトラクターが2台、待機していた。保良の人々の本気を示そうと、農家の誇りであるトラクターでデモ行進しようというアイディアだった。博治さんは感激した。保良らしい抵抗ができるぞ、と小人数ながらも意気揚々と建設予定地に向かった。この日は測量の作業が見られたが、大規模な搬入はなかった。やはり週明けか。月曜日には防衛局と交渉するため博治さんは本島に戻っていたが、予想通り、その月曜日、7日の朝から本格工事が始まってしまった。

 列をなす巨大な工事車両。立ちはだかる住民たちの必死な声、掻き消すようにメガホンで同じことを繰り返す防衛局員、島人同士が対立する構図、そこに到着する警察車両……。ここは本当に宮古島なのか? 辺野古なのか? 高江なのか? 米軍の横暴、ではない。日本の自衛隊も、こうやって力ずくで島に入って来るのか。この20年見てきた辺野古の反対闘争現場の胸が痛むばかりの日々は、場所を変えてさらに拡大していくだけなのか。なぜ止められないのだ? 宮古島の次は、やはり止められなくて、同じ苦しみの光景が石垣島でも展開されていくというのか。

 自衛隊基地建設が問題化した4年前から、立ち上がり、声を上げてきた人々を追いかけてきた。その人が、あの人が、落胆する姿をみたくなかった。絶叫する声を聞きたくなかった。でも、このままいけば、辺野古のおばあのように、高江のゲンさんのように、怒りのまなざしや、悲しみに満ちた目を見ることになる、とわかっていた。だからそれを止めるために、この4年私は死に物狂いで先島の自衛隊配備に立ち向かってきたつもりだ。それも無意味だったということなのか。

 しかし、この期に及んで、私のそんな感傷など何の役にも立たない。日々進んでいく状況に向き合ってる人たちには凹んでいる余裕もないのだ。遠くにいて最大限応援してると言いつつ、その人間が現場の人より先にあきらめてどうするのだ。私は今までもそう努めてきたように、離島に押し込めて蓋をすれば国民にばれないとタカをくくっているこの国のお粗末な軍事基地政策を明るみに出し、国民の監視下に置き、また黙って下を向くことなく状況に立ち向かっていく人々の力強さ、清々しさを全国に届ける仕事をして、逆に全国から世界から応援が集中する状況を作る。

 大それた目標だが、それが機能すれば現場の負担は減り、先の見えない闘いに展望が生まれるだろう。大事な島と、大事な人たちが蹂躙されていく様を見て「心が折れた」と被害者ぶっても、それは楽な道を選んで何もしないのと同じではないか、と自分を叱咤する。

 保良には「地上覆土式一級火薬庫」4棟、発煙筒などを保管する「煙火火薬庫」1棟が建設され、ほかに室内型射撃訓練場もできる。地下水に頼る宮古島では排水処理の問題もシビアだ。だが、予定地が19ヘクタールと、環境アセスメントの対象基準となる20ヘクタールをぎりぎり下回る姑息なやり方で逃げ切ったため、市民が基地建設の詳細な情報を知ることや意見を言ったり追求したりする機会も奪われてしまった。しかし、かといって監視や追求を怠れば思うつぼで、もはや何を造られてしまっても何もわからないという住民側の完全な敗北が待っている。

 諦めず、即効性を求めず、仲間を増やし、小さな勝利も楽しみながら、いつか必ず軍事要塞の島を返上して、元通りの安心して暮らせる島になることを繰り返しイメージして、肝を据えてやっていくしかない。そう思う時、私が救われるのは、保良には、宮古島には、この人たちに寄り添いながら、喜怒哀楽を共にしながら、この問題に向き合っていけたら大事なものをもっと伝えられるかもしれない、と私が惹きつけられてしまう人々が何人もいることだ。博治さんが、こんな状況の中でもほれ込んでしまった保良のたたずまいも含めて、いつかちゃんと風景も人々も描きたい、と熱望している。

 (世論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

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