【コラム】中国単信(50)

中国人の思考様式――家族型

趙 慶春


 日本の封建時代の社会構造はさしずめ「会社型」とでも呼べることは、以前紹介した。
 江戸幕府を例に取るなら、天皇は名誉理事長か会長で、幕府が本社で社長は将軍になるだろうか。藩は支社で、藩主は支社長といったところだろう。本社の方針は厳守だが、支社の運営は支社長の裁量に任せられている。大きなミスさえしなければ支社は存続するし、支社長も安泰である。
 では中国はどうだろうか?

 こちらはいたってシンプルで、皇帝が全株を持つワンマン社長である。役員会議もないし、社長命令は至上命令で、会社規則はそのまま国法である。そして、権力を支える最大、最強のものは「軍」と認識されていたため、事が起きたときに軍隊を編成するのではなく、常備軍としての軍隊が社長の資金によって組織され、社長が統帥している。このワンマン社長を退陣させるには、軍事力行使によって社長交代を実現するしかない。

 少々ふざけた喩え話になってしまったが、近代以前の中国の社会構造の特徴は以下のようになるだろう。
 1.契約関係ではなく、明確な服従関係。
 2.「民」には「官」(役人)に異議申し立てする方法がほとんどない。法による裁断ではなく、「官」個別の判断尺度、善悪尺度によるところが大きい。
 3.「官」「民」の立場は明確で、対立構造と言える。

 とはいえ、会社でも国家でも実際の生産に直接、携わるのは管理職(「官」)より一般社員(「民」)である。「社員」と「管理職」が対立すれば、会社経営はうまく運ばない。国家運営も同様だろう。
 では、中国はいかにして安定して国を運営し、長期にわたって中華文明を築いてきたのだろうか?
 実は中国社会にはもう一つの異なる人間を結びつける絆が存在する。家族、宗族、血縁関係がそれである。

 家族、宗族、血縁の絆を機能的に確立させたのが「宗法(そうほう)制度」である。「宗法制度」をわかりやすく説明すると「嫡長子継承制度」である。つまり正妻が産んだ長男が家を継ぐ制度で、この制度は遅くとも西周王朝時代(紀元前1046頃~紀元前771)に遡ることができる。西周王朝時代、この制度は貴族階層ではすでに定着していた。その後、短命の秦帝国を経て、漢帝国時代になると、儒教が「国教」として定められた。この儒教の核心思想である「五倫」にある「父子」「夫婦」「長幼」を重視する「孝道」と結びつく形で「宗法制度」は急速に一般庶民の間にも広まっていった。

 それでは「宗法制度」の概要をごく簡単に紹介しておく。
 父親(夫)は一家の主で、夫権・父権が重んじられた。いわゆる「家父長制」である。中国では「父系家長制」と呼ばれるもので、父親の死後はその家督を「嫡長子」が継承する。この継承は単なる財産継承だけでなく、家族の管理・支配権、諸事情の決定権など家庭内のあらゆる実権を継承する。極端な例だが、漢時代に父親の妾たちも自分の側室として継承した記録が残されている。これは父親の妾たちの再婚による財産流出防止策だったと考えられている。

 「嫡長子」を除いた兄弟たち(側室の子も含む)が結婚し、子供も持つようになると家を分けて「分家」が出現する。これを繰り返すうちに大家族となり、この「大家族」を「宗族」と呼び、族長は「嫡長子」が務める。「嫡長子」が死ねば「嫡長子」の長男が族長になる。嫁いできた女性は「宗族」の一員となるが、結婚した自分の娘は「宗族」の一員とはなれない。

 『論語』の教えにあるように「父母在、不遠遊」(父母在せば、遠く遊ばず)という考え方が強く支持され、宗族から離れて生活する例は少なかった。そのため、一つの宗族が同じ地域に定住し、一つの部落、村、町を形成するのは珍しくなかった。現在でも「周荘」「趙村」「馬家屯」「柳鎮」のような地名は各地に見られる。そのほとんどが宗族による居住区だった。そしてその居住区の長、いわゆる村長、町長、鎮長などを族長が務めるか、族長が指名した者が就くことが多かった。

 封建時代の居住区の長は現在とは違って、まだ「官」の人間とはなっていなかった。ただし、実質的な庶民管理の基盤単位だった。これら「長」は「官」と「民」の間に介在し、結果的に統治の基盤を支えていたわけで、中国の統治底辺には「血縁」が絡んでいたと言えるだろう。

 族長の権限はかなり大きい。一族共有の祖先の祭祀、族財産の管理、生活区域の環境整備から私塾開設まで、各種行事や慶弔行事、子供の将来にまでと、ありとあらゆる面に及んだ。例えば、一家族の子が結婚しようとすれば、まず族長の許可が必要だった。何らかの理由で族長に反対されたら、その結婚は破綻する可能性が大きかった。

 族長の役割(権限)は一族の「族規」(宗族の法律)の実践にあった。「族規」は一族の定めを守り、一族の子弟を誤りなく導くためのもので、罰則が設けられているのが一般的だった。この罰則は厳密に言えば、「私刑」にあたるが、例えば一族の女性の不倫が露見して、族長がその女性を死罪に処したとしても、族長が国の法律で処断されることはあまりなかった。

 この「家父長制」の陋習は後世になると批判の対象となり、中国近代文学の創始者と言われる魯迅などは「人間が人間を食う社会」と弾劾したが、「宗法制度」が社会に貢献したことも間違いない。
 その重要と思われるポイントを紹介しよう。

 1.宗族にはきちんとした族譜があり、祖先を祭る一族所有の「宗祠」があった。折々の節気には族長は一族の男性全員、あるいは主なメンバーを伴い祭祀を行う。こうした行事を通じて、一族に帰属感を持たせ、孝道など儒教の美徳を身につけさせた。

 2.族内に例えば遺産継承、土地所有、借金返済、扶養に関する争いから夫婦喧嘩、兄弟喧嘩まで、あらゆる民事紛争はともかく族内での解決を試みるのが一般的だった。族長の裁断で決着をつけるのが多かったが、重要、重大な案件では宗族元老会議に諮る場合もあった。重要会議の場所は祭祀を執り行う最も厳粛な場所の「宗祠」であることが多かった。つまり「宗法制度」は国の司法の一部分、特に民事領域の多くを担った。

 3.宗族はたいてい一族所有の「族田」を持ち、「族田」の収入は「族産」と呼ばれる宗族が管理する資産となった。この「族産」で塾を設け、先生を招き、子弟の教育に力を入れていた宗族が少なくなかった。このような一族の子弟に限られてはいたが、基礎的な教育がほとんど普及していない時代では、若年者の素養向上に貢献した。

 4.またこの「族産」で族内貧困者の援助、優秀子弟の進学支援、孤児の養育なども行い、社会福祉の一部も担った。

 中国の宗族は一家族を最小単位として構成された大家族であり、これらの大家族が各地で多数の宗族を形成し、それらが集まって国の基盤を構成することになった。まさに「〝国〟〝家〟」」を形成していたのである。国の官公庁、役人などの「官」と平行して「宗族」という組織が存在し、「宗族」は庶民に寄り添い、庶民の生活に密着していた。宗族は庶民の生活を管理監督、指導し、また援助するもので、庶民生活そのものと言える。宗族は概念でもなく、生活から離れた遠い組織でもない。家族が社会という最小基礎単位だとするなら、宗族はそれを束ねる存在であり、「民」と「官」をつなげる装置とも言えるだろう。宗族は中国社会を構成する揺るぎない太い柱にほかならない。
 筆者が中国社会は日本の「会社型」とは異なる「家庭型」だと指摘する理由である。

 (女子大学教員)

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