【コラム】
中国単信(64)

中国茶文化紀行(1) 中国茶文化のキーワード

趙 慶春


 「日本の伝統文化は何か」、いくつもの異なる回答が出てくる可能性がある。ただし「茶道」は間違いなく、回答候補の一つになるだろう。一方、日本茶道の源とされる中国の茶文化も日本茶道ほど組織化、規則化されていないが、「中国伝統文化の代表格の一つ」であることに疑問の余地はないだろう。
 数十年前、中国がまだ世界に門戸を開いておらず、ベールに包まれていた頃、アメリカ人が街で出会った中国人は誰でも「料理人」か「カンフーの達人」と見なしていたようだが、中国茶文化の認知度も現在、中華料理に遠く及ばない。しかし「仏教、道教、隠者などの思想、信仰との関連」、「茶芸という点前の芸術性」、「水との相性」などの面では茶文化が中華料理に勝り、「中国伝統文化の代表格」にふさわしい側面もある。

 この中国茶文化だが、日本にも少しずつ浸透し始めてきている。
 「中国茶ツアー」なるものがあるのをご存知だろうか。ここ毎年、中国を訪問する日本人の中に茶、そして茶文化を体験するために出かけて行く人が一定数、存在している。確かに中国茶に対する日本人ファンがそれなりにいて、静かなブームとなっていると言っても過言ではない。ちなみにこのようなツアーは同好会的に開催されることも多く、その内容もそれぞれ異なっているようだが、そのほとんどは定期的に開催され、定着していく気配である。

 中国は広いだけに中国茶の産出、喫茶法、そして喫茶文化が地域によって異なっていて、中国のどの地方でも常に新しい体験、異なる茶の楽しみ方ができる。たとえば、広東省の潮州、汕頭地域や福建省などに行けば、卓球ボール半分サイズの小さいコップやこぶしサイズの急須を使い、数人がテーブルを囲んで穏やかに茶を楽しむ「功夫茶」に出会える。
 浙江省や江蘇省など「江南」地域に行けば、やはりこぶしサイズの小さい、「紫砂壺」という急須を使い、しかもその急須をコップ代わりにその注ぎ口に直接口をつけて飲む「一人喫茶」のスタイルに出会うことができるだろう。
 内蒙古やチベットに行けば、茶の中に乳製品や別の食べ物を入れて、煮込む「添加茶」に出会うことができる。
 北京に行けば、元々スーパーで販売されているコーヒー粉の入れ物の大き目の蓋つきガラス瓶に茶の葉をたっぷり入れて、一日中お湯だけ足して茶の葉を替えずに飲み続けるタクシーの運転手やサラリーマンを見かけるかもしれない。

 そして、喫茶方法だけではなく、茶葉自体も種類や銘柄が数多くある。雲南のプーアル茶、台湾の東方美人茶、杭州西湖の龍井茶、安徽省の祈門紅茶など、ファンの心を踊らせるブランド銘茶も数多い。

 中国茶文化の一つ目のキーワードは「多様性」である。
 中国茶の魅力は有名なブランド名茶や独特の喫茶法だけではない。「無酒不成席」(酒なければ宴席にならず)という言葉があるように、中国人の「おもてなし」には、伝統的に酒が重視されてきている。しかし宋代の杜耒(とらい)の詩「寒夜」には、次の二句が見える。
  寒夜客来茶当酒,(寒い夜に客が来たので、お茶で酒の代わりとする)
  竹炉汤沸火初红。(竹製の炉にはお湯が沸き、火もようやく紅くなった)
 この二句に現れている境地は「お茶の心」であり、千年近く中国の人びとに吟詠されてきている。つまり日本の茶道とも趣を異にする、中国人の「心の憩い」が茶に求められているわけで、これが中国の茶文化である。

 中国茶文化の二つ目のキーワードは茶禅一味となる「茶の心」である。
 そして、三番目のキーワードとして「変化」を挙げたい。
 中国茶は時代の移り変わりによって茶の様態、製茶法、喫茶法、喫茶道具などが常に変化している。これからこの「中国茶紀行シリーズ」で詳しく紹介していく予定だが、先ず一例だけ挙げておきたい。

 2018年11月、筆者は茶の原産地として知られている雲南省を訪れた。どのような地域にも数多く見かける茶店には円盤のような塊の固形茶(今は「餅茶」「砖茶」、あるいは「沱茶」と呼ばれる)が積まれ、売られている。一本数万円もする高級茶から、1枚357グラムの「餅茶」を7枚束にして数百円から数千円のものまである(「七子餅茶」と呼ばれる)。

 雲南ではこうした固形茶が茶店の絶対的な主役になっている観がある。訪れた「昆明開明古韻茶葉有限会社」は山間部の産茶区に自前の荒茶製造所を持ち、省都昆明の工場で固形茶の「餅茶」のみの生産で急成長を遂げた。また社長の呉三平氏と営業トップの劉雲坤氏の紹介によると、固形茶への人気が高く、ばらの散茶であれ、荒茶であれ、どのような茶葉でも固形茶への加工が可能で、その業務委託も盛んだという。

画像の説明

  昆明開明古韻茶葉有限会社固形茶(餅茶)の製茶現場

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  昆明開明古韻茶葉有限会社固形茶(餅茶)の乾燥庫

 中国の喫茶歴史を遡ると、茶はむしろばらばらの散茶だったはずで、後漢から三国の頃に成立した中国の本草書の『神農本草経』に「神農嘗百草、日遇七十二毒、得茶而解之」(神農は百草をためし、一日に七十二の毒に遭い、茶を得てこれを解毒した)とある。これは新鮮な茶葉をそのまま利用していたことを示している。ちなみに「神農」とは古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人、炎帝のことで、伝説時代に遡る人物である。
 また、『茶経』には「嬰相斉景公時、食脱粟之飯、炙三戈、五卯、茗菜而已。」(晏婴(あんえい)が斉国の大臣を務めた時、粗い粟のご飯、自分で射止めて炙った鳥の肉、卵と茶や野菜だけを食べた)とある。これは茶を野菜として食べるわけで、加工したかどうかを別にして、ばらばらの茶葉でなければならなかっただろう。晏婴は期限前6世紀の人物である。

 『神農本草経』の「神農は茶を以て解毒した」説は伝説に近い。また『茶経』の「茗菜」は「苔菜」の誤植で、「茶」ではなく「自生の野菜」を指す、という指摘もある。上記二つの資料には信憑性という点で疑問が残るが、「司隷校尉教」に「聞南市有蜀、作茶粥売之」(聞くところによると南市に蜀の老婆が居て、茶粥を作ってこれを売っている)とある。
 『広志』には「茶叢生、直煮飲為茗茶」(茶が叢生し、直接煮って飲むのは茗茶という)とある。
 『膳夫経手録』には「茶古不聞食之、近晋・宋以降、呉人採其葉煮、是為茗粥;至開元、天宝之間、稍稍有茶;至徳、大歴遂多;建中已後盛矣」(茶は古代にはこれを利用したことは聞いたことがない。近くの晋宋以降、呉の人々はその葉を採り、煮て、これを茗粥とした;開元・天宝年間に至って、すこしずつ茶が現れた;至徳・大歴年間に多くなり;建中年間以降、盛んになった)とある。

 上記の三資料はすべて「散茶」利用法を記した確実な資料である。『司隷校尉教』の筆者傅咸(ふかん)の生存期間は239年~294年であり、『広志』は370年の作品であり、また、『膳夫経手録』に記載された「晋・宋」はやや曖昧だが、およそ4~5世紀の時代である。つまり、中国茶文化が確立された唐代の陸羽(りくう)(『茶経』を著す)以前の、中国喫茶歴史の早期において、茶利用法は「散茶」が主流だったことが伺える。
 その後、唐代・宋代は固形茶(「団茶」、あるいは「餅茶」と呼ばれる)が主流となった。そして明代・清代には「散茶」に回帰した。この歴史的な「変化」を見て、今、茶の原産地でもある雲南省と近隣の四川省で起こった、「プーアル茶」に代表される「新」固形茶ブームを見ると、文化の「ブーメラン現象」と言えるかもしれない。

 さて、「多様性」「心」そして「変化」という特質を持っている中国の茶文化とはどういうものなのか。この中国茶文化紀行シリーズで中国の喫茶民俗や茶文化を、時代を跨ぎ、地域を横断して紹介していきたい。

 (女子大学教員)

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