【コラム】
中国単信(73)

中国茶文化紀行(10)唐代の人々はどんなお茶を飲んでいたのか?

趙 慶春


 喫茶は、唐の時代になると、ようやく全国に広まりながら庶民の生活にも定着し始めた。陸羽の『茶経』で「煮茶法」が提唱されてブームとなり、喫茶は文化として受け入れられていった。唐代は中国茶文化の勃興期とも言えるが、それでは唐代、人々はどのようなお茶を飲み、またその飲み方はどうだったのだろうか。

 最初に挙げるべきは、陸羽が提唱した「煮茶法」で用いられた餅茶である。
 これは茶の葉を蒸して、固めて「餅茶」とし、飲む時に砕いて粉にして、鍋の中に入れて煮て飲むのである。これは中国の茶分類法で言えば、「蒸青製の餅茶」になる。

 陸羽の『茶経』「六之飲」には、他の喫茶法も記されていて、
 「飲有觕茶、散茶、末茶、餅茶者。乃斫、乃熬、乃煬、乃舂。貯於瓶缶之中、以湯沃焉、謂之淹茶。或用葱、姜、棗、橘皮、茱萸、薄荷之等。煮之百沸、或揚令滑、或煮去沫。斯溝渠間棄水耳、而習俗不已」とある。

 「飲茶には觕茶、散茶、末茶、餅茶がある。(觕茶は)斫(き)って作り、(散茶は)熬(に)て作り、(末茶は)煬(あぶ)って作り、(餅茶は)舂(つ)いて作る。瓶缶の中に(茶)を貯えて、湯をそそぐ、これを淹茶という。或いは、ねぎ・ショウガ・なつめ・たちばなの皮・しゅゆ・薄荷(はっか)などを用い、これを繰り返し沸騰させ、或いは茶の湯を高くすくいあげて、滑らかにし、或いは茶を煮たてて、その沫を取り除く。こうした茶の湯はすでに溝の中の汚水と同然であるが、しかし、習俗となってしまっている」。

 「觕茶、散茶、末茶、餅茶」とは、当時、存在した四つの茶の種類である。次に「乃斫、乃熬、乃煬、乃舂」を説明する前に、『茶経』は基本的に餅茶を対象としているので、先ず餅茶の飲み方から考えてみる。「舂」は「搗く」動作を表わす。『茶経』「三之造」に「采之、蒸之、搗之、拍之、焙之、穿之、封之、茶之乾矣」とある。この「搗之」は茶を作る流れの一環であり、蒸した茶を柔らかくするために、杵と臼で搗くのである。つまり「乃舂」とは、製茶法として挙げられているようで、「乃斫、乃熬、乃煬」も上記の茶の種類に対応した茶の製法となるのであろう。

 「觕茶」について「斫って作る」というのはその「作り方」であるが、「飲茶方法」とも言える。これは茶の葉を採って(おそらく枝も多少含まれている)そのまま切って湯に入れ、沸騰させて飲む、いわゆる「生煮羹飲(生のままで、あるいは採ったままで煮て羹にして飲む)」である。言い換えれば、「切る」以外には何もしない飲み方と言えるだろう。では「散茶と末茶」はいったいどんなお茶であろうか。

 「散茶」は今の中国でも通用する言葉で、ばらばらの「葉茶」のことである。この散茶の作り方の代表が「熬」である。「熬」とは火で水分をとばすように煎る、或いは煮込むことである。しかし、現在の散茶の作り方は炒めるか蒸すのだが、いずれも水を加えない。したがって現在の散茶(葉茶)とは異なっている。
 「熬」という茹でて製茶する方法は、実は現在、日本に存在している。番茶の製造法である(茶の葉を20分ほど茹でて、その後、日干しをする)。つまり『茶経』に記載された「散茶」とは、番茶のようなものではなかったかと思われる。

 「末茶」とは、粉末の茶、或いは粒状の茶であろう。「末茶」が「觕茶、散茶、餅茶」と併記されているので、茶の一つの種類で、散茶や餅茶を粉末にしたものではないだろう。これは日本の「抹茶」と同じとする説がある。「蒸す」―「乾燥」―「切断」―「茶磨で粉にする」という流れで作られたものだというのである。しかし、陸羽は「末茶」の製造方法に「煬」という文字を使っている。「煬」は『説文解字』の火部に「炙り乾かすなり」とある。この「炙り乾かす」という製法は日本の抹茶の製法とは異なる。そこで別の可能性を考えるために、次の詩を挙げてみたい。

 李建勲の「宿友人山居寄司徒相公」に
  隔紙烘茶蕊、  紙を隔てて茶蕊をあぶり
  移鐺剥芋衣。  鐺(鍋)を移して焼きいもの皮を剥ぐ。
  此興得還稀。  この楽しみを得ることはかえって稀だろう。
と詠んでいる。
 「隔紙烘茶蕊」に注目したい。この「茶蕊」は茶の若葉を指す。「烘」は「炙る」「火で乾かす」と解釈できる。つまり「隔紙烘茶蕊」は陸羽が記した「末茶乃煬」と合致することから、『茶経』に記載された「末茶」は茶の生葉を炙って乾燥し、「末」にして飲むものと思われる。

 「六之飲」に見える「觕茶、散茶、末茶、餅茶」の後に「淹茶」という言葉も出てくる。「以湯沃焉」(瓶缶の中に茶を貯えて、湯をそそぐ)とあるので、この「淹茶」は現在、もっとも一般的な「茶の浸出エキスを飲む」方法と同じものだろう。
 また「六之飲」に記された「或いは葱、姜、棗、橘皮、茱萸、薄荷などを用いて、茶と一緒に煮込んで飲む」という喫茶法は、陸羽に猛烈に批判されているが、これは茶の湯に他の食品を添加するもので、現在、一般的に「添加茶」と呼ばれていて、唐代にすでに花を茶の湯に入れて飲む「添加茶」も存在した。

 徐夤的《辇下赠屯田何员外》には、
  …厨非寒食还无火、 厨房は冷食日ではないが、まだ火が起こされていない、
  菊待重阳拟泛茶…  重陽を待って、菊を茶の湯に浮かばせようとする…
とある。

 陸羽の『茶経』以外の茶史料も見ておくことにする。
●劉禹錫の「西山蘭若試茶歌」
  山僧後檐茶数叢、  山の僧房の後ろに茶が数叢あり、
  春来映竹抽新茸。  春が来たら竹と照らすように新しい芽が出てくる。
  宛然為客振衣起、  客のためにさっと服を振って立ち、
  自傍芳叢摘鷹觜。  芳ばしい茶叢に近づいて鷹の觜のような鋭い形をした良い茶の葉を摘む。
  斯須炒成満室香、  炒めあがるとたちまち満室に香りがただよう、
  便酌砌下金沙水。  そこで、ただちに山寺のふもとの金沙泉の水を酌む。
  驟雨松声入鼎来、  にわか雨のような音や、松風の音が湯を沸かす茶釜の中に入ってくる、
  白雲満碗花徘回。  白雲のような沫が碗にいっぱいになり、その花のような泡が徘徊する。

 「鷹觜」は茶の芽、或いは散茶を形容する唐代からよく使われている表現である。また「斯須炒成満室香」の「炒」字は「炒る」という意味なので、この詩は「釜炒り散茶」の製法を示していると思われる。

●李涛「春昼回文」
  茶餅嚼時香透歯、  茶餅をかむ時香りが歯を透す、
  水沈焼処碧凝煙。  深いところの水を沸かせば青煙は凝集する。
  紗窓閉着犹慵起、  網戸を閉めたままにして起きるのは億劫だ、
  極困新晴乍雨天。  晴れたと思ったら、また雨が降るように非常に眠い。

 これは「回文詩」である。つまり逆から読めば、もう一首、新しい詩が出現する仕掛けになっている。それを示せば、次のようになる。

「春昼」
  天雨乍晴新困極、  雨が俄かに晴れてたちまち眠りが極まる。
  起慵猶着閉窓紗。  起きても億劫で窓のカーテンを閉めたままにしておく。
  煙凝碧処焼沈水、  煙が凝集している青いところに深水を沸かす、
  歯透香時嚼餅茶。  歯に香りがしみとおる時、餅茶をかんでいる。

 いずれの読み方でも「餅茶を咀嚼する(噛む)」になり、茶を食べるとなる。唐代の次の王朝である宋代に、姚辟は「游山門呈知府大卿」詩で「幽蘭香自知、褊茗甘可嚼。(幽蘭の香りは自ら分かる、うすい形の固形茶は甘くて噛めばうまい)」と記している。「褊茗甘可嚼」の「褊茗」は薄い形の餅茶を指すもので、唐代と同じく、薄い餅茶は柔らかく、そのまま食べられていたようである。

 最後に二つの史料を見てみておく。
●王维の『贈吴官』詩
  長安客舍熱如煮、  長安の客舎は煮るように暑く、
  無个茗糜難御暑…  茗糜がなく、暑さに抗いがたい…

●『封氏聞見記』巻六「飲茶」
 「自鄒(今山東鄒県)、齊(山東臨淄)、滄(河北滄州)、棣(山東恵民)、漸至京邑、城市多開店舗、煎茶売之。不問道俗、投銭取飲」(鄒・斉・滄・棣から次第に洛陽と長安の両都まで、都市に店舗が多く開かれ、茶を煎じて売っている。道俗を問わず、どんな人でも銭を出してこれを飲む)とある。

 この二つの史料は製茶法には触れず、茶の飲み方に関する記述である。「茗糜」とは茶をお粥のように濃く煮込んだもので、「茗粥」「茶粥」とも言う。一方、『封氏聞見記』に記載されている「売りに出された茶の湯」はどんな茶だったのか不明だが、おそらく今のペットボトル入りの茶のようなもので、ペットボトルではなく茶碗入りだったのだろう。実はこの形は1970~80年代に北京を中心に「大碗茶」という名前で販売され、ブームにもなった。

 以上をまとめると、唐代には
 (1)「餅茶」:蒸青製の固形茶を粉にして煮て飲む。
 (2)「觕茶」:茶の生葉をそのまま煮て、スープのように飲む。
 (3)「散茶」:番茶のように茶の葉を茹で、乾燥させて飲む。
 (4)「末茶」:茶の生葉を炙って乾燥させ、「末」にして飲む。
 (5)「淹茶」:茶の浸出エキスを飲む。
 (6)「添加茶」:茶の湯に他の食品を添加して飲む。花の添加茶もあった。
 (7)「釜炒り散茶」:今の中国緑茶で最もよく用いられている製茶法。
 (8)「食べるお茶」
 (9)「茶粥」
 (10)「大碗茶」
というように、多彩な喫茶法が存在したことがわかる。

 (大学教員)

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