【コラム】
中国単信(81)

中国茶文化紀行(18)闘茶②

趙 慶春

 前回紹介した茶の産地間の「闘茶」のほかに、中国宋時代(960~1279)にはもう一種の「闘茶」が流行していた。
 この「闘茶」は茶筅で茶の湯をかき混ぜる、いわゆる「点茶」そのもので勝ち負けが争われた。従来の茶産地間の「闘茶」が茶の品質にかかわる「味、香」が勝ち負けの要素だったのに対して、茶の湯の表面にできる泡を競うことが勝負のポイントとなった。
 勝負は茶筅をかき混ぜるという行為で生じた泡がいかに張力によって凝集し、いかに長くその状態が維持され、乱れないかが勝負の分かれ目となった。あるいは泡が先に消え始め、湯の表面が茶盞(ちゃさん 茶道で用いる茶碗)の内壁に「水滴」が早く露出したら負けとなった。

 「闘茶」を論理的に説明したのは蔡襄(さいじょう 1012~1067 中国宋代の書家・文人)の『茶録』「上篇論茶」である。

 「茶少湯多則雲脚散、湯少茶多則粥面聚(建人謂之雲脚粥面)。鈔茶一銭匕、先注湯調令極匀、又添注入環回撃払、湯上盞可四分則止。視其面色鮮白、着盞無水痕為絶佳。建安闘茶、以水痕先者為負、耐久者為勝。故較勝負之説、曰相去一水两水」

 「茶が少なくて湯が多ければ、すなわち雲脚が散り消える。湯が少なくて茶が多ければ、すなわち粥面(お粥のような粘性のつよい泡)が凝結する(建の人はこれを雲脚粥面という)。茶を一匙取り、まず湯を注いで、極めて均斉のとれる状態に整える。さらに湯を注入しながら回転させて撃払し、湯が盞の四分目まで上がると止める。その表面の色が鮮明な白色に見え、盞の壁の水痕が見えない状態ならば一番よい。建安の闘茶は水痕の現われの早いほうが負けとなり、沫が長く持久するほうが勝つ。そのため、勝負をつける言い方として、一水二水の差という」という。

 「撃払」は茶筅で茶の湯をかき混ぜる行為の専門用語であり、「一水两水」は泡が先に消える現象を測る専門用語であり、「雲脚」「粥面」は泡がしっかりしていて、長持ちし、なかなかバラけない現象を形容する専門用語である。また、これらの専門用語は茶書などの専門書の記録に留まらず、茶を愛好する詩人の詩にもよく見られ、日常生活でも広く使われていたことがわかる。たとえば、北宋の文人だった曾鞏(そうきょう 1019~1083)は「蹇磻翁寄新茶二首」詩に

  貢時天上双竜去、  (茶を貢ぐ時、天上では双竜が去り)
  闘処人間一水争。  (闘うところで世間は一水を争う)

と詠んでいる。この「一水争」は「水滴が現れる速さを争う」という意味であり、闘茶を示すよく見られる描写である。
 また、強至は「通判国博恵建茶」詩に

  拆封碾破蒼玉片、  (封を開けて蒼玉の片をひきつぶし)
  雲脚浮動甌生光。  (雲脚は浮き動いて茶甌に光を生ずる)

と詠んでいる。
 泡が茶盞の内側について一体になっている状態を「雲脚」という。筆者は宋代茶復元実験を行い、実際に泡を点ててみた。できのよい泡なら、クリーム状で茶の湯の表面に広がり、茶碗の内側の壁に当たり、少し上に押し上げられるようになり、確かに茶碗に咬みつくかのようである。また、浮いているようにも、光っているようにも見える。つまり、「雲脚」の描写やこの詩にある「浮動甌生光」の描写も適切で、実態に合うリアルな描写と言える。

 この「闘茶」は主に宋代の文人(文化人、知識人)の間で流行っていたので、「文人闘茶」と呼ぶことにする。茶産地間の「闘茶」は、「味、香」で勝ち負けを争うものだが、「文人闘茶」は泡の状態こそが眼目で、「外観」での勝負ということになる。茶の「味、香」は茶栽培の土壌や気候などのほか、生産者の栽培技量などにも関わってくる。一方、「泡」での勝負はお茶の品質には関わらず、「泡を生じさせる者」の技量が問われることになる。

 宋代には、この技巧性の高い、茶を淹れる技法によって茶湯の表面にさまざまな模様や具象性のある絵を描きながら、それはわずかの時間に崩れていく変化を「茶百戯」と呼んだのだが、まさにこの「茶百戯」から生まれたのが宋代の「闘茶」だったのである。
 そして、「闘う者」の腕前が問われたわけで、茶産地間の「闘茶」よりずっと遊芸性、ゲーム性が増して人気を博したと思われる。

 ここで、唐代から宋代までの喫茶法の変化をもう一度整理してみよう。
1)唐時代は煮茶法が主流だったが、末期になると、「茶百戯」に代表される遊芸性の高い喫茶法が現れた。
2)「茶百戯」類の喫茶法により、喫茶手前の場所は従来の鍋から茶碗に変わった。同時に茶筅で茶の湯をかき混ぜる「点茶」手法が現れた。これで中国宋代喫茶法の基盤及び日本茶道の礎が築かれたとも言える。
3)「点茶」の流行により、茶の湯の泡が注目を浴び、その泡の持久力と状態で勝負する「闘茶」ゲームが誕生した。闘茶の人気で「一水」「雲脚」「粥面」などの専門用語が現れただけではなく、茶筅で茶の湯をかき混ぜる「点茶」手法を「撃払」と特化した。泡の勝負と言えば実は「撃払」の腕前の勝負になる。

 しかし、「茶百戯」に一つの致命的な弱点がある。陶谷『清異録』に見える「但须臾即就散滅」、つまり「しかし、これらの物の像はすぐに形が崩れ消えてしまう」である。いくら美しくても、いくら遊芸性が高いと言っても、すぐ消えてしまうと面白くないはずである。この欠点こそ、泡の持久力で勝負する「闘茶」人気につながったと思われる。
 五代十国・宋時代初頭の陶谷が「茶百戯」を記録した後、数百年に渡った宋時代の茶詩の中に「茶百戯」の名が一度も出ていない。これは欠点のある「茶百戯」は短期間で人気を失った証明だと言えよう。

 ただし、「闘茶」にも一つの致命的な弱点がある。それは言うまでもなく「撃払」技量の難しさである。
 「闘茶」の泡の「質」(持久力や粥面などに関わる)と「量」(雲脚に関わる)に影響を与える要素がいくらでも考えられる。例えば、「軟水か硬水の影響」「湯温の影響」「茶碗の形の影響」「茶筅の質と形の影響」「茶の粉の状態の影響」等々である。なかでも、泡の質と量を左右するほど影響の大きい要素はやはり下記の二つだろう。

1)「茶の粉」の量と「湯」の量のバランス。
 宋代の徽宗の『大観茶論』や蔡襄の『茶録』などの記録によれば、秤のような測量器を使って茶と湯の量を測ることがなかった。また日本茶道のように統一の道具を使い、茶と湯の量の安定化を図ることもしなかった。その理由は勝負するゲームだからだろうが、その結果、湯と茶粉のバランスが肝心となり、一旦崩れると、ドロドロになったり、雲脚が立たなくなったりして、上手く点てられないのである。
2)茶筅で茶の湯をかき混ぜる動作の腕前、つまり「撃払」の技術。
 筆者は宋代茶復元実験で実際に茶湯の泡を点ててみた。「茶筅の動かし方」「茶筅の入る位置」「瞬発力の使い方」などによって、泡の質と量がかなり変わることが確認できた。そして、電動茶筅を使えば安定的な泡が得られることも証明できた。復元実験がまだ途中なので、結論はまだ出せないが、泡はある程度、腕前次第だと分かる。

 上記の二点を合わせると「撃払」の技量というが、誰でも簡単に真似できるものではない。むしろ他人と勝負する「闘茶」のレベルは高度の技術を要するだろう。「闘茶」のこの難点は一部の茶人を敬遠させ、「分茶」という新しい喫茶法の誕生につながった。
 「分茶」とは、大きい茶碗の中で茶を点てて、個々の小さい茶碗に移して飲む喫茶法である。「分茶」は「闘茶」ほどではないものの、やはり一定程度の「点茶」技術を要する。宋代の全5,117首の茶詩の中に、「闘茶」に言及する作品が65首、「分茶」に言及する作品が67首で、「分茶」詩が僅かながら「闘茶」詩の数を上回っている。これは単なる技術的難度という要因だけでなく、「勝負に執着せず、落ち着いた平常心で自由気ままに茶を楽しむ」という「茶の心」にも関わっていたと思われる。

 (大学教員)

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