【コラム】中国単信(96)

中国茶文化紀行(33)日本も花茶生産に挑戦した歴史がある

趙 慶春

 現在、中国の花茶によく使われるものには、茉莉花(ジャスミン)を筆頭に珠蘭花(チャランの花)、玳玳花(枳実、ダイダイの花)、玉蘭花(モクレンの花)、柚子花(グレープフルーツの花、Grapefruit flower)、玫瑰花(ローズの花)、桂花(木犀、キンモクセイの花)などがある。
 花茶の産地としては福建省、江蘇省、浙江省、雲南省、広西壮族自治区など南方に集中している。一方、花茶の主な消費地域は北京、東北、華北、内蒙古自治区など北方が中心になっている。

 世界初の茶書である陸羽の『茶経』の冒頭は「茶者南方之嘉木也」(茶は南方の嘉木なり)である。つまり、茶は南の作物だと言っているのであり、亜熱帯地域で生育し、北方に行くに従い産出しなくなる。
 たとえば、日本で経営的栽培を行っている茶園の北限は日本海側では新潟県(村上市、村上茶)であり、太平洋側では茨城県(大子町、奥久慈茶)である。最近、北海道のニセコ町で「日本の北限茶産地に挑戦」プロジェクトが行われているが、経営的に成功するかは、まだ未知数である。

 もっとも「北限」より北でも気候状況や地理的状況などで茶が生育する場合もある。たとえば、北海道よりも北に位置するモンゴル国北西地域に茶樹が生育しているという(筆者は昨年(2020年)、調査を計画したがコロナ感染拡大の影響でまだ実現していない)。しかし、モンゴル国の茶樹が事実だとしても特例であり、「茶者南方之嘉木也」が覆されたわけではない。中国茶の北限は陕西省、山東省南部であり、中国花茶の主な消費地域は茶産地ではないことがわかる。

 茶産地の雲南省、福建省、浙江省、台湾省などでは茶農家での自家販売や行商人が路端で売ったりしており、無論、店舗も多くある。地元の住民であれ観光客であれ、日常的に茶と触れ合う機会が多い。そして、商品はほぼ地元産で、台湾がその代表と言え、どこへ行っても台湾産のウーロン茶ばかりである。
 しかも、筆者の体験では、茶生産者や茶専門店員であってもプーアル茶についての知識は皆無で、発酵程度のウーロン茶を「紅茶」として販売している。地元愛が強いと言えばそれまでだが、「地方保護主義」の色彩が濃すぎると言える。非茶産地では見られない現象だが、一方、非茶産地では茶店舗は少ないが、茶の品揃えは豊富で、上級茶より中、低級茶が主に販売されている。中国で愛茶人を自認する人が旅行するときに愛飲茶を持参するのは珍しくない。旅先では愛飲茶が入手しにくいからである。

 茶産地では茶販売店に限らず一般家庭の玄関付近にも茶台(主人が茶を淹れ客をもてなす場)をしつらえ、いつでも茶を出せるようにしている。日本の茶道で不意の客にも対応できるように常に茶釜の湯を沸かしているのと同じ心であろう。

画像の説明
 (写真左:雲南昆明「開明古韻茶葉有限会社」社内に設置されている接待用茶台)
 (写真右:雲南西双版納南糯山哈尼族家庭リービングに設置されている茶台)

 最近、茶産地地域の一般企業の中には接客用の茶台、ないし専用の茶席を備えるところも増え、会員制クラブや一部の富裕層の自宅にも専用の茶室が作られるようになっている。ただし、こうした現象は非茶産地ではめったに見られない。この違いは喫茶文化が異なるからで、喫茶習慣の積み重ねからの現象で、日常生活にも表れている。たとえば、社内のオフィスでの喫茶の場合、浙江省では紫砂壺を以て喫茶に供しているし、福建省では功夫茶セットの道具を用意していることも決して珍しくはない。一方、花茶に人気がある北方では非常に素朴と言っていいだろう。

 筆者は1990年代に北京で生活していたが、当時のサラリーマンはほぼ全員が大きいガラス容器(下の写真のような、市販のインスタントコーヒーの容器)に茉莉花茶の細かい物(「高末」という廉価物)をたっぷり入れて、湯を注いで一日中携帯し、茶湯がなくなると、湯だけをつぎ足すのである。一日中飲み続けるので、茶を相当量入れることになる。そのため花茶はかなり苦みが強くなる。筆者も当時この飲み方をしていたため今でも苦みのある茶が好みである。

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 (1990年代、北京でよく使われていた花茶を入れるコーヒー瓶)

 この飲み方はサラリーマンだけでなく、タクシーの運転手にも広まった。当時の北京や北方地域に旅行した人なら、タクシーの運転手が片手に持った大きいガラス瓶から何かを飲みながら運転していた姿を覚えているだろう。それは安い茉莉花茶だったはずである。

 こうしたお茶の飲み方が流行していた1990年代半ば過ぎに来日した筆者は、中国茶と同じ源を持つ日本で花茶、特に茉莉花茶があまり飲まれていないことに驚いたものである。その理由を日本の知人に聞くと「トイレの芳香剤にジャスミンの香りがするものが多いので、敬遠されるのではないか」という返事だった。この「分析」は一笑に付されるかもしれない。しかし、日本は決して茉莉花茶などの花茶と縁遠い国ではなかったのである。

 日本にも近年来、花茶が輸入され販売されているが、日本での生産も消費も増えていない。でも、百年ほど前、日本政府が大いに花茶を生産した時期があった。
 明治維新以降、日本は中国への日本茶輸出に力を入れ、中国茶市場調査のために1905年に藁科喜作を、1909年に海野孝三郎を、1915年に静岡農業試験場の技師を、1917年に清水俊二をそれぞれ派遣している。1931年に日本が中国の東北地方を占領すると、東北の茶消費市場を完全に手中に収めようとした。しかし、日本茶は現地人の好みに合わず、うまく行かなかった。そこで、日本は中国東北地方の花茶好みに目をつけ、三つの打開策を実施した。

(1)中国杭州の龍井茶師と福州薫花茶師を招聘し、静岡県茶業組合会議所機械研究室の協力を得て、東北人好みの中国茶の模造と花茶の「薫花」技術を取り入れた。
 しかし、日本の気候風土で生育した花の質と量では花茶の生産に追いつかなかった。そこで日本は次の策を打ち出した。
(2)日本緑茶を、当時すでに日本の植民地だった台湾に運び、台湾で「薫花」して花茶に仕上げて、中国東北に売り込んだ。しかし、日本製緑茶は花茶に向いておらず、中国東北人には受け入れられなかった。そこで日本は「満州国の関税保護政策」を発動し、日本茶の強制販売を実施するとともに、次の策を打ち出した。
(3)台湾の茶を使って花茶を製造し、中国東北地方に売り込む。台湾の「花包種」茶はその時の「遺産」である。

 日本で花茶がなかなか浸透しない理由は、日本産の緑茶と花がともに花茶製造に向いていなかったこと。一方、消費面では、日本人の自然そのままの味を好む嗜好も大きく影響していると思われる。

 (大学教員)

(2021.10.20)
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