【コラム】中国単信(105)

中国茶文化紀行(42)「点茶」文化の凋落

趙 慶春

一王朝として三百年以上続いた宋代は「点茶」が非常に流行した時代で、北宋の8代徽宗皇帝は自分の点茶の腕前を自慢するためか、宮殿内で臣下たちに茶を点てたことがある。この時代、皇帝は臣下の命運のすべてを握っていただけに、臣下が皇帝の点てた茶を飲むと想像しただけで興味深い。「点茶」がどれほど流行していたかが伺えるエピソードでもある。
 当時、文人(知識人)が政治を動かす時代だった。その中で「点茶」は文人の教養を測る重要な指標になっていた。文人の会合では点茶、書、絵、音楽、香、そして詩などをセットで楽しんでいた。
 宋代「点茶」が盛んだったことは、茶詩を見れば明らかである。宋代茶詩に「点茶」という文字が現れるのが30回余、「点茶」を基本技術とする「闘茶」や「分茶」を合わせると160回以上になる。さらに「雲脚」「一水」「饽沫」「粟粒」「粟面」「粟紋」「乳花」「乳霧」「白乳」「緑乳」「玉乳」「芳乳」「粉乳」「軽乳」「雪乳」「溌乳」「花乳」「乳頭」「碧花」「緑花」「仙葩」「湯雪」「玉雪」「粉雪」「雪華」「翠濤」等々、点茶効果を描写する表現を加えると、数えきれないほど多い。
 しかし、このような「点茶」に絡んだ「専門用語」は、次王朝の元代の茶詩では大幅に減少してしまう。「点茶」という言葉だけに注目すると、元代の茶詩に登場するのは僅かに6回のみである。以下に紹介してみる。
 丘處機《答宰公子許秀才》
  碧洞經年無火燭,  碧洞には一年中 火燭が無く、
  青山終日有煙霞。  青山にはいつでも煙霞がある。
  虚心實腹唯求飯,  虚の心(意識)實の腹(肉体)はただ食事を求め、
  待客迎賓不点茶。  客をもてなすのに点茶をせず。

 舒岳祥《寄慈林交講師》
  聞師投謁不入巷,  師は面会を求めたが巷に入らないと聞く、
  知我無人能点茶。  私には点茶できる人がいないと分かったのだろう。

 顧瑛《無題》(其一)
  雕籠鸚鵡休饒舌,  雕籠の鸚鵡の饒舌が止まった、
  長是無人叫点茶。  長い間「点茶」を頼む人がいなかったからか?

 張雨《惠山茶》
  水品古來差第一,  (惠山泉)水品は古来より第一位に及ばないが、
  天下不易第二泉。  天下で第二位が恵山泉ということも変わらない。
  ……
  速喚点茶三昧手,  早速点茶の三昧手(達人)を呼ぼう、
  酬我松風吹兔毫。  よい湯加減に合うように兔毫茶碗で茶を点てよう。

 韩奕《白雲泉煮茶》
  山中知味有高禪,  山中に(泉と茶の)味を知る高僧がいる、
  采得新芽社雨前。  社(節句の春社)雨(節句の雨水)の前に新芽を採る。
  欲試点茶三昧手,  点茶の三昧手(腕前)を試してみようと、
  上山親汲雲間泉。  山を登り、自ら雲間の泉を汲む。

 薩都剌《送鶴林長老胡桃一裹茶三角》
  竹龍吐雪澗水活,  竹龍(懸樋)が雪を吐き出すように澗水は活き活きしている、
  茅屋煙炊樹雲薄。  茅屋の炊煙は樹のうえに薄い雲を作り出す。
  竹院深沉有客過,  竹院では静寂のなかで客が過ごし、
  碎桃点茶亦不惡。  クルミを砕いて点茶するのもまた悪くない。

 わずか6首のうち、前の3首は「点茶しない」「点茶できる人がいない」「点茶を頼む人がいない」と詠んでいる。また、4首目と5首目に見える「点茶三昧手」は、宋代の詩人蘇軾など、有名茶人の茶詩によく出てくる。そのような言葉を借りて、「茶の湯の達人」「茶の湯の腕前、あるいは境地」を指しているが、必ずしも「点茶」という茶の淹れ方ではない。そして、最後の1首《送鶴林長老胡桃一裹茶三角》に「クルミを砕いて点茶する」と詠んでいる。これは茶の湯にクルミを入れる「添加茶」であろう。茶の湯にほかの飲食物を入れ、「点」(点てる)という動詞を使った詩例はほかに2首ある。
 元好問《野谷道中懷昭禪師》
  湯翻豆餅銀絲滑,  豆餅は湯の中に翻り、銀絲のように滑らかで、
  油点茶心雪蕊香。  油を茶の湯の中心に点じて、雪蕊(茶の湯)が香る。

 「油」は中国古典文献の中でよく「酥」と表現され、現代中国語で「黄油」「酥油」ともいう。牛乳から精錬された液体に近いゼリー状の高級乳製品であり、モンゴル族「ミルク茶」の添加物の一つでもある。

 張以寧《次韻廉公亮承旨夏日即事(六首)》(其一)
  柴門細雨曉慵開,  細雨の朝、柴門を開くのも億劫だった、
  緑樹陰籠一徑苔。  緑樹の陰に小道の苔が籠っているようだ。
  老子眼花今日較,  我が老体の目がかすむのを今日直そうと、
  起尋枸杞点茶盃。  起きてクコを探して茶杯に点じようとする。
 茶の湯にクコを添加する「枸杞茶」が目によいという説は今でも根強く残っていて、よく利用されている。
 この2首には「点茶」という表現があるが、「茶を点てる」という意味ではない。一つは「点」と「茶心」であり、一つは「点」と「茶盃」であり、「点茶」という表現が解体された使い方になっている。
そもそも、茶の湯の中に他の飲食物を入れれば、もはや泡を楽しむことができなくなり、宋代の「点茶」喫茶法ではなくなる。
このように、元代の茶詩に「点茶」の使用例は皆無に等しい。これは紛れもなく「点茶」文化の凋落を教えている。

大学教員

(2022.7.20)
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