【コラム】中国単信(106)

中国茶文化紀行(43)「龍団鳳餅」文化の凋落

趙 慶春

 「龍団鳳餅」は中国宋代の北苑貢茶院が製造した茶の銘柄であると同時に「北苑貢茶」のすべての銘柄を代表する総称にもなっている宋代茶の代表格である。
 北苑は地名で、現在は中国福建省の建甌市となっている地域である。北苑で最初に茶を製造し始めたのが宋王朝成立以前の五代十国の南唐(国の名前)時代、930〜40年代のことだった。宋代(960〜1279)になると次第に中国一の貢茶院となった。
 「龍団鳳餅」という名前が示すように、茶の表面には、おおむね「龍」と「鳳」の模様が施されていた(別の模様が入った茶もある)。このようなことができるのは、初製茶を蒸して、れんが状や円形、方形等々に固形化させた中国茶独特の再加工茶だからである。飲む際にはこれを少し削って使うことになる。

 古代の中国で「龍」は皇帝、「鳳」は皇后専用であったので、「龍団鳳餅」は建前として宮廷専用になっていた。毎年、北苑からの最初の貢茶(第一綱といい、毎年、数回ないし十数回の貢茶がある)は皇帝でさえ飲めず、まず祖先に献げられた。そのため北苑茶を愛する皇帝の歓心を買うために、貢茶担当の官僚たちは優れた貢茶作りに励んだ。結果として「研膏」、「蠟面」、「大龍団」、「大鳳団」、「小龍団」、「小鳳団」(龍団鳳餅)、「密雲龍」、「銀線水芽」など新しい銘柄が次々に誕生した。同一銘柄の安定生産ではなく、常に新しい銘柄創出に努力を傾けるのが北苑貢茶の一大特徴とも言える。
 価格は「小龍鳳団茶」1枚(恐らく一服の分量)=18,650円ほどで、1gでは874円になる計算である。『西渓叢語』によれば、「龍園勝雪」白茶1枚=30,000銭。これはおよそ30両銀に相当する金額で、当時の物価を勘案すれば、およそ馬3頭、あるいは米3トンほどが買えた(「龍園勝雪」白茶1枚の重さが不明だが、サイズは一寸四方なので、恐らく現代のプーアル餅茶1枚357gより遥かに小さく、軽いと思われる。)
 貢茶は基本的に売買されなかったので、値段はなく、上記の金額はあくまでコストである。しかし、「金は手に入るが、茶は手に入らない」と人びとは嘆いたという。

 北宋時代の文学者、政治家だった欧陽脩は国の祭典の際、皇帝から大臣8人が「小龍団」茶を賜ったが、わずか2枚だった。8人に2枚のお茶なので4等分に分けて持ち帰るしかなかったという。その茶があまりにも貴重だったという逸話を残している。
 また、周輝の『清坡雑誌』によると、熙寧(北宋神宗の年号、1068~1077年)頃から「密雲龍」が次第にもてはやされ、祭祀用や皇帝用を除くとほとんど残っていなかった。しかし、皇族、側近、大臣からしきりに求められた皇帝は煩わしくなって「密雲龍」の生産を中止させてしまったという。
 これほど人気のあったお茶だけに宋代五千五百余首の茶詩中、はっきり北苑茶を詠んだものが七百首ほどあり、当時の北苑茶ブームを教えている。
 ところが、これほど大流行した宋代の「龍団鳳餅」が元代になると、茶詩など文学作品に言及される回数が大きく減少して、次第に歴史の舞台から消えていくのである。その証拠として、以下の3首の元代の茶詩を見てみよう。

 虞集「題蔡端明蘇東坡墨蹟後」
  老卻眉山長帽翁,  眉山の長帽翁(蘇軾)がすっかり老いた、
  茶煙輕颺鬢絲風。  茶煙は鬢絲の風と相まって軽く漂う。
  錦囊舊賜龍團在,  錦の袋に舊賜の龍團茶がまだあり、
  誰爲分泉落月中。  誰が泉を分けて月の中(団餅茶)に落としてくれるか?

 虞集「東家四時詞」(其一)
  摩挲舊賜碾龍團,  舊賜の龍團茶を鄭重にさすり、そして碾く、
  紫磨無聲玉井寒。  紫磨が音を立たずに、玉井の水は冷たい。
  鸚鵡不知誰是客,  鸚鵡は誰がお客さんか知らずに、
  學人言語近闌干。  人の言葉を真似て、欄干に近づく。

 釋梵琦「垂虹待月」
  ……
  且停内府新澆燭,  とりあえず内府が新しく製造した蝋燭の火を停めて、
  須點頭綱舊賜茶。  一番手で貢がれた舊賜の茶をたてるべし。
  帆過東南更清美,  帆が東南を過ぎてさらに清美になり、
  盡將煙浪滌塵沙。  すべての煙浪を以て塵沙をあらう。

 この3詩に共通している「舊賜」(龍團、茶)とは、「昔に賜った(もの)」という意味であり、宋代の「龍団鳳餅」を偲ぶ作品になっている。

 もう1首を見てみよう。
 虞集「用退朝韻奉懷伯長試院久别」
 ……
  想有小團分學士,  思うには小團茶を学士に賜ることがあるだろう、
  好將新水試浮槎。  ならばぜひ浮槎の新水を試してみよう。

 楊億の「談谈苑」によれば、龍茶(龍団茶)は皇帝に供するほか、執権、親王、長主に賜る一方、その他の皇族、学士、将帅に鳳茶(鳳餅)を賜る。つまり、鳳餅を学士に賜る慣例があった。虞集のこの詩は科挙試験の試験場の離別を偲ぶものなので、宋代の「鳳餅を学士に賜る」めでたい話を持ち出しているのである。

 このように、元代茶詩に登場する「龍団鳳餅」は数量的には大きく減少しているが、完全に消滅したわけではない。しかし、そのほとんどが前の宋代を追憶する際に取り上げられている。ここには北苑貢茶院の凋落が大きな要因としてあり、さらに新しい武夷山貢茶院は規模が小さく、「龍団鳳餅」のような新しい名品を出せなかったことも関わっているだろう。だが、いずれにしても元代になると「龍団鳳餅」文化が凋落したのは紛れもない事実である。
(大学教員)

(2022.8.20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧