【コラム】中国単信(109)

中国茶文化紀行(46)「点茶」と「抹茶道」の茶の違い

趙 慶春

 前にも触れたが、中国古代の「点茶」と日本「抹茶道」での茶の粉は異なっている。
 また、中国宋代の「点茶」は団餅茶(塊の固形茶)を使用していたが、「龍団鳳餅」が凋落していく元代の状況はどのようで、宋代に日本に伝えられた茶道の場合はどうであろうか?

 最近、栄西和上によって「点茶」喫茶法とともに日本に伝えられた「茶」は、団餅茶ではなく、茶の粉だったという説が現れた。つまり、いったん団餅茶に仕上げてから粉に挽くのではなく、直接「粉」に加工しているというのである。
 しかし、日本の五山時代の僧侶には明らかに団餅茶を用いたという詩文が残されている。これらの団餅茶は中国から輸入されたのか、日本で作られたのか明確ではないが、恐らく中国から輸入されたものであろう。このように考えるのは、日本の技術、天候、茶の特性などから団餅茶は製造せず、「碾茶→粉」に辿り着いたと推測するからである。その後、日本では日光を遮断する「おい覆したえん下園」の技術が発明され、より甘味のある美味しい抹茶が製造できるようになった。
 では、中国では「龍団鳳餅」など団餅茶のその後はどうなったのだろうか。
 元代では「点茶」や「龍団鳳餅」文化が宋代に比べて凋落はしたが、存続はしていた。それは伝統文化、特に簡単に真似できない芸術性のある文化を誇りに思う文人を中心として継承されていた。そして、「点茶」や「龍団鳳餅」文化は次の王朝、「明」の初頭、明の太祖皇帝朱元璋の一つの詔書によって終焉を迎えた。
 洪武二十四年九月十六日(1391年10月14日)、明の太祖朱元璋は龍団茶廃止の詔書を発布した。
 「庚子詔:建寧歳貢上供茶、聴茶戸采進、有司勿与。敕天下産茶去処、歳貢皆有定額。而建寧茶品為上、其所進者必碾而揉之、圧以銀板、大小龍団。上以重労民力、罷造龍団、惟采芽茶以進。其品有四、曰探春、先春、次春、紫笋。置茶戸五百、免其徭役、俾専事采植。既而有司恐其後時、常遣人督之、茶戸畏其逼迫、往往納賂、上聞之、故有是命」
「庚子の詔:建寧(今の福建省建甌市)は毎年上供茶を貢ぐ。貢茶の製造及び献上を茶戸に任せて、政府機関は参与しないようにせよ。全国の茶の採れるところに命じて、毎年の貢ぐ量を定額にせよ。そのうち建寧茶の質は最もよく、その献上の茶は必ず碾(ひ)いて揉み、銀板で圧力を加え成型させ、大小龍団とする。太祖皇帝は人民を重く疲弊させるという理由で、龍団の製造をやめさせ、ただ芽茶をとって献上させた。その品種は四つあり、探春、先春、次春、紫笋である。茶戸五百戸を設置し、その賦役を免除し、貢茶の植え、摘み及び製造に専念させるのを期待したからである。しかし、官員は茶戸が納期を遅れるのを恐れて、常に人を派遣し監督させた。茶戸たちはその圧力を畏れて、往々にして賄賂を献じた。皇帝はこのような事情を聞いたので、この詔を出したのである」
 この詔書によると、朱元璋は民の労働力を惜しみ、建寧産の龍団(北苑貢焙産の固形茶)を廃止し、芽茶(葉茶、散茶)だけを生産、献上させた。このような政令によって、遅くとも三国時代から始まった団餅茶の生産がその終焉を迎えたのである。このことは散茶の「絶対多数」の確立を意味していた。
 しかし、現在、人気も値段も急上昇中の「プーアル茶」(普洱茶、代表銘柄は七子餅茶)、主にチベット族に飲まれ、歴史も長い「蔵茶」、肉まんに似て底に窪みがある面白い形の四川の「沱茶」、柱のような一本数十キログラムの「千両茶」、西北地域にある「茯磚茶」、主にモンゴル地域にある「青磚茶」「花磚茶」、長期熟成の広西「六堡茶」等々の固形茶が多くあり、「七子餅茶」のように「餅茶」の名前も使われているではないかと思う向きもあるかもしれない。

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(写真1:プーアル餅茶とミニ餅茶。大きいほうは標準サイズの1枚357g)
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(写真2:「琥珀方磚」茶)
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(写真3:ミニサイズの「普洱沱茶」。ミニだが、「沱茶」特有の底の窪みが確認できる)
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(写真4:有名な「人頭茶」と外観が似ている台湾の「酸柑茶」)

 今まで紹介してきた「龍団鳳餅を代表とする団餅茶」には以下の要素がある。
(1)製造法が「蒸す」「搾る」「すりつぶす」「圧力を加えて造形」「乾燥」の順である。
(2)使用法として、粉にすることを想定している。
(3)「点茶」に使う。
 一方、上記列挙した現代の固形茶は、(1)製造法はそれぞれ異なり一律に言えないが、基本的に「散茶」にしてから、再加工して固めて造形する。そのため、(2)「味わい」として粉にして飲むのに向いていない。(3)煮込んで浸出液を飲むのに適している。
 残念ながら、この二種類の固形茶を区別する言葉はないのだが、この二種類の固形茶の歴史上での「交替」時期は元の時代であった。
 従来、多くの書物で中国の「点茶法」が歴史から消えたのは、皇帝朱元璋の詔書によってとされてきた。しかし、すでに述べてきたように「点茶」及び「龍団鳳餅」文化はこの詔書より前の元代にすでに衰退していたのである。また、「酥油、炒り米、炒り小麦粉」などを茶の湯に入れる添加茶の普及が「点茶」文化を終わらせる要因となった。そのため、朱元璋の詔書は社会の喫茶潮流に合わせた政令だったとするのが事実に近いと思われる。
 そして、日中の喫茶文化の分岐は次のようにして起きたと思われる
 日本抹茶道:
(1)中国宋代の「点茶」の源流を汲んでいた。
 (2)僧侶によって移入され、普及者も僧侶であったため華やかな「泡鑑賞」は最初からはずされた。
 (3)日本の製茶環境に合わせ、団餅茶ではなく日本独自の粉末茶(抹茶)製造方法が確立されたが、「粉末茶」を使う点茶伝統も保たれた。日本が伝統文化保存では優れているとよく言われるが、喫茶文化でもそれを十分に証明している。
 (4)「抹茶」という日本独自の文化を形成した。
 中国宋代「点茶」「龍団鳳餅」文化:
(1) 中国喫茶文化の最高峰という評価を受けている。
(2) 「点茶」「龍団鳳餅」文化はともに元代から衰退した。
(3) 茶の湯にほかの飲食物を入れる「添加茶」喫茶法の普及と粉末茶の大量生産及び消費は「点茶」「龍団鳳餅」文化衰退の真の原因で、朱元璋皇帝の詔書は最後のダメ押しとなった。
「泡鑑賞」をやめた中国人は粉末茶にも拘らなかった。恐らく粉末茶を利用する過程で浸出液だけを楽しむ道を選んだのである。その結果、今や「散茶」は、中国茶業界の主役となっている。

 大学教員

(2022.11.20)
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